深海の君

「海が綺麗ですね!」

馬車の中で、ヴェロニカが言った。窓の外には、雲ひとつない青い空と、それより少し緑味を帯びた色の海が広がっていた。陽光を反射する海は、碧色のベールのように、透き通っていた。

「アースラ卿は、海を見るのは初めてですか?」

はしゃぐヴェロニカを見て目を細めて、ノアールが訊いた。

「はい!うちの領地の中でも、ここには初めて来ましたから。でも、ノアール様は初めてでは無さそうですね」

「はい。私は海が見える神殿に居たことがありますから。それでも、こんなに天気が良い日に海を見たのは初めてです。とても綺麗です」

ノアールは海からヴェロニカに視線を移した。今日のヴェロニカは、白いワンピースに白い帽子を被り、いつにも増して眩しく見えた。

「レイラにも見せたかったな」と、心の中で、ヴェロニカは呟いた。ヴェロニカが海を見た事が無かったのだから、もちろん、レイラにも無い。もっと、領内の色んな土地に連れて行ってあげれば良かった。美しい自然に触れられる機会を、設けてあげれば良かった。

――今更後悔しても、もう遅い。

ふいに、馬車が止まった。今は、ノアールとのピクニックを楽しまないと。

「着きましたよ!行きましょう、ノアール様」

「はい。って、あ、アースラ卿!?」

ヴェロニカは「走ると危な……」と言いかけたノアールの手を引いて、馬車から駆け下りた。


「ふう……。やはり日向は暑いです」

木陰に入ると、ヴェロニカはそう言った。

傘を差していたとはいえ、真夏の太陽が惜しみなく注いでくる光は、気温を上げ、それがヴェロニカにはこたえた。

「ええ。同じ帝国領とは言えど、少し南に行くだけで、すぐに気候が変わりますからね」

ヴェロニカに同調するノアールだが、彼女は汗の一滴もかいていないどころか、幾重にも重なる司祭服を着込んでいた。

ヴェロニカは機敏な動作で、バスケットから畳まれた布を取り出すと、広げて地面に敷いた。それは、丁度ふたりが座れるサイズの布だった。

「少し疲れたので、何か食べましょう」

ヴェロニカは敷いたばかりの布に座り込むと、ハンカチで額の汗を拭いた。その横に、ノアールが静かに腰を下ろす。

「はい。まずはサンドイッチからいただきましょうか」

「その前に、喉が渇いたので何か飲みましょう。ワインはいかがですか?」

そう言ってヴェロニカは、バスケットから、汗をかいた赤ワインのボトルを取り出した。

「グラスも持って来ましたので……」

ボトルを横に置くと、ヴェロニカはまたバスケットに手を突っ込んだ。

「木製のワイングラス……ですか?」

ヴェロニカが取り出した物を見て、ノアールは目を見開いた。ヴェロニカの手には、木製のワイングラスが握られていた。

「はい。木でできたワイングラスです。持ち運ぶ間に割れたら大変だと思ったので、ガラス製ではなく、木製にしました」

そう言ってヴェロニカは、グラスをノアールに渡した。ノアールはグラスを受け取ると、それを持ち上げ、様々な方向から眺めた。それは、木目の目立つ素朴なデザインで、独特の風格を醸し出していた。

「木の良い香りがして、更にワインが美味しく感じられるんですよ。……母が好きだったのだそうです」

そう言ってヴェロニカは、ワインボトルの栓を抜いた。枝の隙間から漏れる光が、ヴェロニカの顔に影を落とした。

ヴェロニカの実母、故ルイザ・ハンナ・アースラは、誠実さと落ち着きの中に、自然を慈しむ心を養っていた。ヴェロニカが手にしているグラスは、ルバートがルイザに買ってあげたものだった。

「確かに、良い香りがしますね。思い出の品なら、なおさら良い味わいになる気がします」

優しく微笑んで、ノアールは言った。目元が隠れていても、彼女が心からの笑みを向けてくれていることを感じて、ヴェロニカの心は暖かくなった。

「そうですね」

ノアールと来て良かった、とささやかな幸せを噛み締めて、ヴェロニカはグラスにワインを注いだ。


「……何故か、懐かしくなります」

紫と淡紅色に彩られた空が、太陽を見送る光景を目前にして、ヴェロニカが呟いた。

「そうですね。夕空からはいつも、寂しいような印象を受けます」

ノアールが相槌を打ち、夕空からヴェロニカに視線を移した。オレンジがかった黄金に光る髪と、淡紅色が映る深海色の瞳。こんなにも清く美しい女性は他には居ない、とノアールは思った。

もっと近付きたい。

その髪に触れたい。

そして、お互いの唇を重ね合わせられたら。

自分はどんなに幸せだろう。

「ヴェロニカ様……」

ノアールは思わずそう口にしてしまった。

「はい……?」

ヴェロニカが、きょとんとした顔で視線を投げかけてきて、ノアールは我に返った。

自分が今どんな顔をしているか分からないが、とりあえずシャールをつけていて良かった、とノアールは思った。見えている口元に感情が現れないように努力したが、果たして、その努力は報われただろうか。

「……そう、呼んでもいいですか?」

慌てて、ノアールは付け加えた。顔が熱い。

しかし、当のヴェロニカはノアールの焦りに気付かず、無邪気に笑った。不純物など何も混入していない、晴れ渡る空のような笑みで。

「もちろんですよ!ノアール様と私は、親友ですもの」

"親友ですもの"ノアールには、その言葉が遠く聞こえた。一瞬にして、熱が冷めたようだった。

ああ、この女性ひとは、自分の事を友としか思っていないのか。

浮かれていた心が、静まり返って行く。

あの時と変わらず、また――…

「ああ、ノアール様が私の事を親友と思っているかどうかは分かりませんが……。とにかく、名前で呼びたいと思って貰えて、とても嬉しいです!」

はにかんだヴェロニカは、ノアールの顔を覗き込んだ。

「では、これからはお名前でお呼び致しますね。私も、ヴェロニカ様の事は親友だと思っていますよ」

ノアールは器用だった。彼女の口角は上がっていたが、恐らく、目は笑っていなかったであろう。

――やはり、この想いは胸に秘めているべき……。

決して、漏らしてはいけないのだ。ノアールは心の中でそう呟いて、忘れようと努力した。しかしそれは、彼女がヴェロニカを想っている以上、無益であろう。

ノアール本人は気付かない、又は見ないようにしているが、心の傷は増える一方で、かと言って、そう簡単に諦められるものではなかった。

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