鈴を転がすような声
「おらぁぁぁあ!」
すぐ近くで掛け声が聴こえる。
目の前で黒服の男が剣を振りかざしたのが見えたが、体が言う事を聞かない。
カシャン
ヴェロニカは自分の剣を取り落とした。高く結い上げられた金髪が大きく波打ち、彼女は、そのまま膝から崩れ落ちた。
ハァ、ハァ
もう、駄目だ。
男は容赦なく剣を振り下ろした。銀色の閃光がヴェロニカの視界を白銀に染める。
ああ、自分は死ぬんだ。
ガンッ
左腕に走った強い衝撃が、ヴェロニカの意識を遠のかせる。
遠い意識の向こうに、神々しい程に美しい母子の姿が見え、それが段々近づいて来た。
あの頃に戻れたらなんて、願うから――…
だから、走馬灯になって現れるんだ。
レイラが失踪してから、ヴェロニカはより剣の稽古に励むようになった。
もちろん、病床に横たわる父の代わりに執務をこなしたり、家庭教師の教育を受けたりと、他にもやる事をやった。
女性で爵位を継ぐ為には、商売が上手であること、又は剣の使い手であることなど、実力を世間に認めさせなければならない。
そこまでしないと、婿養子に爵位を取られてしまう。
しかしヴェロニカは、また他の何かに駆られるような感じだった。
もっと強く。もっと強くならないと。大切なものを守れるように――…
努力が実り、十八歳で成人した時、ヴェロニカは騎士試験に合格。晴れて第二騎士団の団員となった。
大切なものを守れなかったヴェロニカは、もう二度と後悔したくなかった。
しかしその努力も、無駄になってしまった――…
「アースラ卿、アースラ卿っ!」
誰かが呼ぶ声で、ヴェロニカは目を覚ました。自分を見つめる碧緑色の瞳と目が合い、彼女は混乱した。
「私……」
死んだんじゃ……。しかし、体の感覚がある。辺りを見渡して、ヴェロニカは自分が野営テントの寝台に横たわっていることに気付いた。灰色の布の隙間から、柔らかな日光が差している。
「アースラ卿っ、死んじゃうかと思いました……!良かった……」
碧緑色の瞳の持ち主は安堵したのだろう、泣き始めてしまった。ヴェロニカと同期の騎士だが、四つ歳下の彼女――サディー・ヴェル・ディッツェ――は、まだまだ感受性が強い。赤茶色の癖っ毛に大きな瞳の彼女が泣く様子は、実年齢より幼く見えた。
そんなサディーを見て、ヴェロニカは安堵した。いつも通り、大切な仲間が目の前に居る。自分は生きている。致命傷では無かったのだ。
「司祭様、本当にありがとうございます……!」
"司祭様"。鼻をすすりながら、サディーはそう口にした。
司祭とは、神殿に仕える者のことで、神力を使って傷を癒すことができる。
しかし、人数や、一回に使える神力の量は限られてくる為、重傷者でないと、司祭の治療を受けることはない。
自分は司祭に治療してもらったのか?それ程に深い傷なのだろうか?ヴェロニカはまさかと思って上体を起こそうとして、寝台に両手をついた。が、白い繊手が伸びてきて、それを阻んだ。と同時に、左腕に鋭い痛みが走り、ヴェロニカは呻いた。二の腕に巻かれた包帯に、赤く血が滲む。
「まだ動いては駄目ですよ」
鈴を転がすような声が、耳に流れ込んで来た。どこかで聴いたことのあるような――…
「左腕は特に、動かしては駄目です。二の腕を深く斬られているので、その傷が治るまでは安静にしていて下さい」
声の主は、右手を包帯の上にかざした。暖かい光が傷口を塞ぐ。
「わかりました。ありがとうございます」
ヴェロニカが司祭の顔を見上げると、目深に被ったフードの下の、顔を覆っている布――シャール――の下から優しげな口元が覗いていた。白地に水色のラインが入った服を着た彼女は、白い布を体に巻き付けた、修道司祭だった。
二の腕に深手を負ってしまった。左だったのは幸いと言うべきだろうが、しばらく前線勤務は出来なくなる。
――もっと強くならないといけないのに。
ヴェロニカはがっかりしてため息をついた。
「彼女に少しお話があるので、席を外して頂けますか?」
ふいに司祭が、サディーに向かって言った。傷についての話だと思ったのだろう、涙を拭きながら、サディーはテントを出ていった。
傷痕が残るのだろうか。それとも、後遺症が残るとか……?ヴェロニカは不安になったが、司祭は微笑して、
「傷痕や後遺症は残らないでしょう。三ヶ月ほど安静にして、その間、定期的に私の治療を受ければ治ります」
と言った。
ヴェロニカは安心してため息をついた。
それにしても、三ヶ月も練習に参加出来ないのか。暗くなったヴェロニカの顔を、司祭はシャールの陰から見つめていた。
それから三ヶ月、ヴェロニカはアースラ男爵邸に籠りきりになった。
前線でヴェロニカが負った傷に、マイアは驚き心を痛めたが、週に一回通ってくる、ノアールという修道司祭が居るので、安心して主人の身の回りの世話を焼いた。
左の二の腕に深手を負ったヴェロニカを治療した修道司祭は、名をノアールといい、相変わらずフードを目深に被り、その素顔はヴェロニカにも分からない。ただ、彼女の背はヴェロニカより低かった。
「痛むところはありませんか?隠れた場所に打撲があったり、違和感を感じることがあったら、言って下さい」
ノアールはヴェロニカの傷を、丁寧に診察した。
「大丈夫ですよ」
どれだけ気遣ってくれてるのだろう。よく知らない司祭を家に招くのに、緊張していたヴェロニカだったが、ノアールの優しさに触れ、段々とそれはほぐれていった。
ルバートはこの頃、意識が朦朧としている時間が長くなり、寝台から出られなくなっていた。主治医によると、もう長くは無いと言う。
「……最近、父の容態が悪化して、もう長くは無いと言われたんです」
ある日の朝、ヴェロニカは少し暗い顔でノアールに言った。
「私が診てもいいですか?」
するとノアールは思いも寄らぬ事を言い出した。
「でも……」
ヴェロニカは口ごもった。ノアールはヴェロニカの傷を診る為だけに屋敷に来るのだから、それ以外の、しかも個人的な事に彼女の神力を使わせるのは悪い気がした。
「少しくらいなら、問題ありませんよ。お父上の寝室まで、案内して頂けませんか」
いたずらっぽく、ノアールは口元をほころばせて立ち上がった。
「あ、ノアール様……!」
ヴェロニカは慌ててその後を追った。
ルバートの寝室に着くと、ノアールはヴェロニカに、外で待っているようにと言った。何故か、とヴェロニカが尋ねると、診察に使う神力は、治療に使う神力とは違い、診察をする者と受ける者以外には有害だから、とノアールは答えた。
「ねえ、アースラ男爵」
寝台に横たわるルバートを見下ろして、ノアールが呼び掛けた。
「その、声は……」
以前より気迫に欠けた瞳で、ルバートはノアールを睨み付けた。
「憶えていらしたのですね」
ノアールは冷たく言うと、ルバートに向かって手をかざした。ヴェロニカを治療した時とは異なる、青白い色合いの光が、ルバートの頭のてっぺんから爪先まで走った。
「何故、戻って来た……」
掠れた声で、ルバートが問うた。
「ご存知無いのですか。ヴェロニカ様のお怪我は酷いんですよ」
神力によって起こった風でノアールのシャールがめくれ、ルバートは彼女の瞳を見た。不気味に光る、彼女の瞳を……。
「申し訳ありませんが、私にも、治せそうにありません」
ルバートの寝室から出て早々、ノアールはヴェロニカに告げた。
「……そうですか」
ヴェロニカは疲れたように、力なく微笑んだ。もうすぐ、自分が男爵になる時が来る……。ヴェロニカにとってルバートは、愛する実父だったが、自分が愛する義母や義妹に対しての彼の言い様は酷く、二人の関係は良好とは言えなかった。
その後もノアールは、アースラ男爵邸を訪問した。
ある日は、茶の話で盛り上がったり。
「本日は、我が領地で採れた紅茶を用意しました」
「ありがとうございます。とても良い香りがしますね。少し酸味があって、それが更に紅茶の美味しさを引き立てています」
「そうでしょう。実は、酸味にこだわった茶葉なんです。私、酸味が強い方が好きで……」
「私も、酸味が強い方が美味しく感じます。他の司祭達にも勧めてみますね」
「ありがとうございます」
またある日は、本の話で盛り上がったり。
「この本、とっても面白いんです。執務の合間に読んでいるのですが、登場人物の人間性がリアルで、すごく惹き込まれます」
「私もその本、読みました。私は、ファファがダニエルに再開する場面が一番好きです。死んだと思っていたダニエルが現れて、ファファが泣きついたところはとても感動しました」
「それ、三巻ですよね!私は四巻の……」
「ゴホン。あぁ、失礼。実は、今神殿にあるのは三巻までなんです」
「失礼しました。まだ読まれていないのですね。うちには今、五巻まで揃っています。私は今五巻を読んでいるので、四巻を借りて行かれますか?」
「では、お言葉に甘えて、お借りします。神殿ではあまり人気がないので、新巻の購入が追いついていないのです」
「こんなに面白いのに、不思議ですわ」
「私達は数少ない同志、ということですね」
「ふふ、これからもよろしくお願いします」
話の合うノアールとの時間は、ヴェロニカにとって心地良いものとなっていった。
レイラが失踪したのは、丁度ヴェロニカがデビュタントを迎える頃で、影で妹をいじめていた、とヴェロニカの醜聞が広まった。その所為でヴェロニカは社交界に出づらくなり、友達は一人もできなかった。第二騎士団に入団してからは、ヴェロニカの真面目で明朗な性格が受け容れられ、居心地の良い環境が出来た。しかし、団員は平民出身の者がほとんど、そして貴族出身の者はヴェロニカ以外全員が男で、ヴェロニカと話が合うとは言えない。ヴェロニカと話が合い、また交際の暇がある。このふたつの条件を持ち合わせた者は、騎士団には居なかった。
そんな中現れたノアールは、ヴェロニカと話しが合い、そして交際の暇もあり、更には、世間の目を気にしてヴェロニカとの交流を避けたりしなくて良い階級だった。
ふたりは、心置き無く付き合える立場なのだ。
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