第113話 もう一人の婚約者

 見上げるほどに大きく横にも広い屋敷のエントランスに入ると、執事服を着た壮年の男性がいた。男性は恭しい態度で頭を下げてから、ゆっくりと口を開く。


「フランツ様、そしてお連れの皆様、トレンメル公爵家へようこそお越しくださいました。フランツ様、またお会いできて光栄でございます」


 その男性はフランツが帝都のトレンメル公爵邸に通っていた時、屋敷で働いていた男性使用人だったのだ。昇格して領地で執事となったらしい久しぶりの顔に、フランツも笑顔になる。


「まさかこちらで執事になっていたとは。久しぶりに会えて嬉しく思う。突然来てしまいすまなかった」

「いえいえ、フランツ様ならばいつでも歓迎でございます。ただ大変申し訳ないことに、ハイディお嬢様は研究室に篭ってしまっておられるのです。現在お嬢様付きの侍女が必死に声をかけておりますので、少し応接室でお待ちいただければと……」


 眉を下げてそう告げた執事の男性に、フランツは少しだけ悩んでからある提案をした。


「私が声をかけてみても構わないだろうか。研究に夢中で授業に顔を出さないハイディを引っ張り出すのには、慣れているのだ」

 

 その提案を聞いて、執事はさらに眉を下げる。


「そのようなことを、お客人であるフランツ様に頼んでしまってよろしいのでしょうか……」

「もちろん構わない。逆に皆の迷惑になるのならば大人しく待っていよう」

「いえ、迷惑だなどということはありません。……では、お願いしてもよろしいでしょうか」


 執事からの頼みに、フランツは笑顔で頷いた。


「もちろんだ。任せておけ」


 そんな一連の流れを後ろで見ていたカタリーナは、貴族令嬢らしい笑顔を浮かべているものの、僅かな動揺を隠せていなかった。


 ――執事と知り合い!? ハイディ様の扱いには慣れている!? 私の予想以上に仲が深いわ……。


 内心でそんなことを考えて荒ぶりながらも、表には全く出さないところが、さすが侯爵家の令嬢だろう。


「では皆は、応接室で……」


 フランツがマリーアやカタリーナたちに応接室での待機を伝えようとすると、それをカタリーナが笑顔で遮る。


「いえ、フランツ様。私たちも共に参りますわ。万が一ハイディ様が研究室からお出になられない場合、その場で話ができる方が良いと思いますの」


 その提案は一理あるもので、フランツは少し悩んだがカタリーナの意見を採用した。


「確かにそうだな。では皆で行こう。それで構わないだろうか」


 最後に執事にも確認をすると、すぐに頭を下げる。


「もちろんでございます。ではご案内いたします」


 そうして執事の案内でフランツたちは屋敷の中を奥に向かい、少しして豪華な扉の前に着いた。扉は大きく開け放たれていて、扉付近には困ったような表情で中に呼びかける者たちが何人もいる。


 ハイディの侍女や護衛だろうその者たちに、執事が声をかけた。


「皆さん、少し下がってください。フランツ様とそのお連れ様方がお越しです」


 フランツたちに視線を向けた侍女と護衛は、さすがトレンメル公爵家に雇われている者たちという態度と反応速度で、即座にフランツに道を譲った。


 それによって視界が開け、フランツはハイディの研究室内の様子を確認することができる。トレンメル公爵家の帝都屋敷や帝立学園にもハイディの研究室はあったが、そこで見た光景がそのまま目の前に広がっており、フランツは僅かな感慨と共に眉間に皺を寄せた。


「なぜここまで汚せるのか……」


 ハイディの研究室は、足の踏み場もないほどに荒れているのだ。これは昔からで、誰が綺麗に片付けても一週間で元通りになる。


 グレータのように優秀な研究者の研究室とは綺麗に整えられているのが常識だが、ハイディはその常識を覆している。普通ならば矯正されるべき悪癖だが、ハイディの比類なき実績から、誰も強くは言えないのが現状だった。


 研究室を綺麗に整えさせたことによって、ハイディが本来の力を発揮できなくなる。なんて事態は誰もが困るのだ。


「ハイディ、久しぶりだな。フランツだ」


 フランツは研究室の左奥に向かって声をかけた。そこには辛うじて作業テーブルがあることが分かり、その傍らにはたくさんの器具や素材に埋もれてハイディがいた。


「え、どこにいるの?」

「マリーア、あちらよ」


 困惑している様子のマリーアと、フランツの婚約者候補との対面に緊張しているのか表情が硬いカタリーナは、フランツの後ろで小さく会話をしていた。


 グレータとルッツはその二人よりもさらに後ろで、ぽかんと研究室内を見つめている。


「ハイディ、聞こえているのか?」


 フランツはさらに声をかけながら、誰も中に入る勇気がない研究室内に足を踏み入れ、上手く床に散乱したものを除けながら奥へと入っていった。

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