第8話 天狗惑わす霧の道

 土肌の道をゴトゴトと小刻みに揺れながら、荒い木目もそのままな茶色の幌のない馬車が進んでいく。

 シェリカ王女の計らいで、国境まで馬車で送ってもらえたし国境も難なく通過できた。そこからは丁度アスカベンへ向かうという別の馬車と出会い、誘われたので同行することになった、という経緯だ。

 急ぐ旅じゃないから歩いてもいいし、急ぐなら魔法を使っていけばいい。こちらとしてはそんな感じだけれど、馬車の商人は誰かを誘いたかったらしい。一応、道中に獣や盗賊が出るかもしれないし、護衛が欲しかったのかな。

 獣なんかが寄っても簡単に追い払えるし焚火をしようにも火種はいらないし、魔術師というのは旅の同行者として便利で頼もしいのは確か。

 いくつかの木箱と麻袋、そして水と飼い葉を載せた荷台に腰掛け、進行方向とは逆を向いた状態で、イドラは読んでいた赤茶色の表紙の本をパタンと閉じた。

 僕は飼い葉の上でうたたねをしていたところだけれど、その音で意識がはっきりして振り向く。イドラはここ数日同じ本を読み進めていたけれど、今手にしているのもその本だ。どうやら読み切ったらしい。

 僕は前々から、ひとつ不思議に思っていることがあった。

「イドラは、常に何冊が本を持ち歩いているね」

 声をかけると彼はうなずく。

「ああ。二、三冊は持ち歩いているな」

 と、鞄の口を少し開けると二冊の違う表紙の本が覗く。

「でも、同じ本をずっと持ち歩いているわけじゃないよね」

 今まで一緒に旅をしている間、見ていてわかっている。彼は同じ本を繰り返し読んではいないし、たまに立ち寄った町などで本を購入することもあった。

「読み終わった本はどこに行ってるの?」

 それが秘かに持っていた質問。

 誰かに渡しているとか、もちろん捨てている様子などない。本はとても高価なものだし。一般人で本を買えるのは上流階級だ。

「ああ、それなら。こうするのさ」

 本を膝の上に載せたまま、彼はパチン、と指を鳴らす。

 するとなんの痕跡も残さず、突然本が消える。

「……分解して魔力として吸収した、とかじゃないよね」

「まさか。また読み返したくなることもあるだろう。自分の研究所に魔法で転送しているよ。いつでも取り寄せたり送ったりできる」

「へえ、便利だね」

 どおりで、いつも荷物が少ないのに本や道具に苦労しないと思っていた。常に巨大な倉庫がついているようなもので、持ち物の多さに困ることはなさそうだ。

 それにしても、魔術師は自分の研究所を持っていることが多いと知ってはいるけれどイドラのはどこにあるんだろう。エストラメリアの魔術師たちのように、塔を研究所にしている者が多いとは聞く。

「沢山本があるなら、イドラの研究所は広いんだろうね」

「それはまあ、確かに」

「きっと、簡単には侵入できないところにあるんだろうね」

 貴重な魔導書や魔法具だって多いはず。となると、盗賊なんて決して侵入できないような防御が施されているはずだ。

 僕のことばに、彼は少し得意げに笑う。

「まあ、そうだな。普通なら入ることはできない場所にある。そのうち寄る機会もあるかもしれないが、当面帰る予定はないな。帰るときは良くない緊急事態が起きたときくらいだ。一応帰る道筋はあるが、まず北の山奥の滝つぼに飛び込んで……」

 うわ、面倒くさそう。

「それは、帰る機会がない方が良さそうだね。どんな研究所が見てみたかったとは思うけれどよほどの用事がないと無理そうだ」

「星が綺麗に見える場所ではあるな。まあ、帰る機会があまりないのだから、旅が順調、ということだ」

 彼は進行方向を振り返る。このときにはもう、山のふもとの小さな街並みが見え始めていた。

 この辺りは山に囲まれていて、高い山脈も少し離れたところに連なっている。でも近くに見える山はそれほど高くはなくて、アスカベンの向こうに見えるベントレー山も山頂まで遠くはなさそう。なのに、不自然に山の中腹から上に霧がかかっていた。

 町の入り口で商人と別れると、僕らは商店街に向かう。山の天狗が交流や物々交換をするのなら、生活に便利そうな道具を売っている店になるんじゃないか、という推測。

「食料も多少は買うかもしれないが……天狗が自給自足できなさそうなものというと、鉄器や家具などではないかな」

「器や木を使った家具は作れそうだものねえ」

 と、目をつけたのは金属のものが多い日用品店。包丁や金槌、ナイフなんかも売っている。そこからイドラは、小型の果物ナイフを一本買った。その折に天狗についてきく。

「ああ……一ヶ月くらい前に、天狗の娘が来ていたな。たまに鉄器に使う鉱石を売りに来るよ。商店街で最後に見たのは一昨日で、食料店に入ってたな」

「それなりの頻度で来るようだな……天狗の方は見かけないか?」

 イドラの質問に、店主のお兄さんは首を振る。

「少なくとも、オレがこの店を任された七年前からは一度も見てないよ」

 うーん、それは。

 イドラも一拍の間、沈黙する。

「そうか……わかった、どうも」

 不穏なものを感じながら、店を出て足を食料品店に向ける。小さな町なので、あまり選択肢は多くない。

 行った先では、保存食や調味料を中心に置いているようだ。

「ああ、最近も見たよ。たまに調味料や穀物類、嗜好品を買っていくことが多い」

 話を聞くと、店主は軽い調子で言う。

「次に降りてくるのはまた二週間くらい後になるんじゃないかな」

「そうか……そこまでは待てないな」

 そう言って、イドラは天狗の娘がよく購入すると聞いたものの中から、調味料と干した果実の詰め合わせ、マフィンなど焼き菓子の詰め合わせを買った。きっと手土産にするつもりなんだろう。

 店を出ると彼は山を見上げる。幸い天気は良い。

「登山にはいい日和だな」

「ああ、たぶん普通に歩いても今日のうちには着きそうだ。それにしても、七年も姿が見えないとなると……」

 王宮図書館での彼の心配が現実のものになっているみたいだ。

「しかしまあ、娘……サギリ、という名前だったか。まさか養父の持っていた宝珠や資料を捨てたりはしていない、はず」

「その人がイドラみたいな性格なら売り払ってるかもよ」

「そっ……そんなことはないはずだ、貴重なものや有用なものは手もとに残すし」

 少し焦って首を振る大魔術師。

 まあ、サギリさんがイドラのような性格である可能性は低いんじゃないかな。同じような性格の人物がたくさんいるようなら、世界はもっと荒廃していそう。それに一応、イドラは本人に会っているみたいだし。

 気を取り直し、山道へ向けて歩く。結局のところ行ってみなければわからないには違いない。

 それにしてものどかな町だ。町の中に小川が流れ、外周近くには畑や牧場が見える。柵の向こうには山羊や牛、鶏が見えたりして、鳴き声が響いてきたりもした。

 農作業をしている住人の姿も遠目にしつつ歩くうち、郊外の方から、丸太を荷車に積んで歩いてくる二人連れの男たちと出くわす。

「これは、また珍しい旅の人たちが」

 もう慣れ切っているのでいちいち気にしないけれど、誰もがそうするように、彼らは僕らを見て驚く。イドラのようなあからさまな魔術師もそこそこ珍しいだろうけれど、妖精竜を見慣れない人たちは多いだろう。

 もののついで、とイドラが口を開いた。

「この先のベントレー山に行きたいんだが、登ろうとすると惑わされるという話は本当か?」

 この人たち、山の方から来たと見える。もう、まばらな木々に囲まれた登山道の入り口がここからも見えているし。

「ああ、昔からそうだよ」

「途中の川の手前までは行けるんだ。でも、その先は天狗の領域だって昔から言い伝えられているし、実際、オレの友だちも小さい頃に迷い込んだら出口まで戻されたって話だ」

 川の手前までは人が入ってもいい、ということか。

「今もそれは有効なんだな……わかった。ま、行ってみるまでだ」

 術者がいなくなっても効果が残る、というのはそれほどおかしくはない。山そのものに魔法的な仕掛けがしてあるんだろう。

「気をつけてな」

「うん、ありがとねー」

 すれ違いざまことばを交わし、僕らは街の外、つまり登山道へ。入り口には木の立て看板があり『ベントレー山道入口』の見出しとともに、『獣注意。また、川の向こうは幽玄の地にて立ち入り不能』と刻まれている。

 山道は一見、変わったところは見当たらない。緑の枝葉を広げる木々に爽やかな川のせせらぎ。遠くから聞こえる動物の息づかい。草には虫が這い、たまに羽虫も飛び交う。川の手前までは草を刈り土を踏み固めた道がある。

 さて、天狗の法術はイドラに通用するだろうか。

 なんて疑問は浮かぶけれど……まだそれほど付き合いは長くないものの、きっとイドラには通用しないんじゃないかと思う。実際、それ自体はあまり問題視しているように見えないし。

 木々の間の緩やかな登り坂は順調に進めそうに見えた。色々な鳥の鳴き声が響き渡る。

 獣注意、とあったけれど、人が入ることができるんだから、少なくとも入り口近くではそんなに多くないんじゃないかな。出たところで問題にはならないけれど。

 小休止を挟んで歩き続けて数刻。道の両脇の木々が途切れ、道も行く手で川によって途切れている。川自体は幅も狭いし深くもなさそうだけど、向こう岸は霧がかかって景色がぼやけていた。

「なるほど。幻術と方向感覚を惑わす術の合わせ技、といったところか」

 一目見てイドラはそう判断する。

 僕の目にも霧に魔力を感じることくらいはわかるけれど、一体、この魔術師の目には景色がどう映ってるんだろう。本当にイドラが人間だというのが信じ難い。

「それでどうするの? 術は解く?」

 そうすると、戻せるのかどうが問題か。と思ったら、彼は首を振る。

「わたしの防御結界にはそれらも通じないような術式が組み込んである。このまま普通に進めばいい」

 さいですか。

 イドラは川に点在している大きな石を足場に渡り、僕は普通に飛んでついていく。

 渡りきると不思議なことに霧は消えていて、今までより少し急な登り坂が始まる。惑わされずに済んだようだ。

 道は少しずつ獣道に近くなっていく。そりゃあ、人が入ることの多い川のアスカベン側とは全然違って当然。それでも草が短くなっていたり踏み倒されているような様子。

 坂が急になるにつれ、周りの木々や雑草も減り、辺りは岩場へと変わっていく。水音が聞こえ、いつの間にか川が道と並行していた。

「しばらく天狗の方は見ていないという話だったけれど……なにか事件や事故があったわけじゃないんだよね」

 平たい場所を見つけて休憩したとき、そんなことをきいてみる。

 例えば、火事でもあってサギリさんは助かったけど天狗は亡くなり宝珠に関する資料もみんな燃えてしまった、なんてことはないかと。

 イドラは椅子代わりに丁度良い岩に座ってふもとの街並みの景色を見下ろしつつ、お茶を飲んでいるところ。

「いや、普通に寿命だと思う。出会った時点で本人が『老い先短い』と言っていたくらいだからな」

 天狗は人間ではなく長命種でその上法術でさらに肉体の老化を緩めていたが、すでに千歳をゆうに超えており寿命を感じていたという。

「だから、娘にも今のうちに世俗に慣れさせようとたびたび山の外へ出て旅をしている、と語っていた」

 世俗に慣れさせるか。

 それを聞いてしばらく前にイドラが言っていたことを思い出した。あれは確か、なんで旅をしているのか、って質問をした後の回答。

 未知のものに出会いたい、好奇心をくすぐられるものに出会うことができるのが旅のいいところ。そんな話のほかに。

「長い間研究所などに引きこもっていると、久々に外に出たときに文化や色々な作法が変わっていて面倒だ。いや、それだけならともかく……数百年も経過して外界へ出ると、言語すら一部通じなくなっていることがあるからな」

 長く生きればいつの間にか国が滅んだり生まれたりもするわけで、言語が移り変わるくらいのことも確かに起こるだろう。天狗もそういう心配をしていたのかもしれない。

「それにしても、天狗に寿命があるっていうことは、法術は魔法ほど長命にはなれないのかな」

 イドラみたいに永遠に近い命を得た天狗の話は聞いたことがないし。

 しかし、相手は首を振る。

「そうとは限らないんじゃないか。なにしろ天狗は人里離れたところに住むから存在すらつかめていない者も多いだろう。法術は自然に囲まれた場所の方が修行も使用も適しているというのも一因だが、法術を使う天狗ばかりでもない。ひとりひとり天狗をやっている理由もやり方も違う」

「魔術師が天狗やっていたりするって言ってたね。でも、その割には天狗の想像図は決まっているような」

 本や人々の話の中に出て来る天狗は、赤ら顔で長い鼻を持つお面を着けて下駄を履き錫杖を手にしている、という格好がほとんど。

「最初にそういう伝説があったんだ。三千年近く前だったか。山に人を近づけさせないために、赤い顔の人食いの魔人が住み着いているとかいう噂を流し、山で修行していた男が。法術の基礎を作り、後に宗教を作ったんだったか……詳しいことは覚えていないが」

「じゃあ、みんなその伝説を利用しているんだね」

 法術の修行のために必要なんだろうけれど、そこまでして人を遠ざけたいとか、イドラとは真逆の生活と言えるかも。

 休憩が終わると、岩場の道を登っていく。天然の階段に似た道はそれほど急ではないし崖のようになった部分を登る、みたいなこともない。ちゃんと人が進める道になってはいる。

 たまに行く手を塞ぎかけたように鎮座する岩を避けたり、切り立った崖の下を通ったりする。どうもときどき上から石や岩が転がり落ちているらしく、実際、イドラの目の前を拳大の岩と砂礫が転がっていったりもする。まあ、ずっと防御結界を張って移動しているのでたとえ大きな岩が転がってきたところで潰されたりはしないけども。

 やがて岩場は途切れ、その先に吊り橋が見えてきた。木板と植物の蔦を寄り合わせたような縄でできた吊り橋の向こう岸はこちら側と同じ岩場だけど、奥のその表面は緑が多い。

「ちゃんと渡れる橋ならいいね」

 見たところ、だいぶ古いし縄には引っ張られて切れそうになっている部分がちらほら。

 もともと飛んでいる僕には橋の強度は関係ないけれど。

「落ちたらわたしも飛べばいいだけさ」

 残念無念なことに、イドラはその気になれば僕より高く速く飛べるはず。

 一応、杖の石突きで最初の木板をコツンと叩いて確かめてから、彼は渡り始めた。

 ギシギシ、ギューギュー、嫌な音がする。並みの神経の持ち主なら逃げ出してしまいそう。揺れも結構大きいし。

「天狗の娘も、ここを渡ってふもとに降りたり帰ったりするのかな」

 それなら案外丈夫な橋かもしれない。

「そういえば、天狗は自分の体重を木の葉と同じ重さにする法術が使えるらしいが」

「ああ、そういう……」

 渡りながらハラハラしているのは僕だけで、イドラは平然としているけれど。

 橋の半分くらいまで来たとき。

「ほぁっ?」

 めまいがしたような感覚。

 そして、視界が変化する。足もとの方に空が見えた。頭上には岩肌の谷と、遠過ぎてよく見えない緑色の谷底。

 吊り橋が引っくり返って逆さになったのか、と一瞬思ったけれど、それなら僕は逆さにならないはずだし、橋の縄も捻じれていないし、目の前のイドラは少しも落ちる気配がない。魔法で浮くとしたって、その前に多少は地面へ引っ張られるのを感じるはずだ。

 そう、引っ張られる方向は変わっていない。吊り橋の下にある空に向かい引っ張られている。

「なに、これも幻術?」

「ああ、なかなか考えたな。橋がなくなるような幻術より実用的だ。ここまで来た者は幻術をすでに経験しているから、そういうのは見破りやすい。わかっていても侵入者を混乱させるような使い方の幻術は効果的だ」

 幻術だということは理解しても、感覚と見た目の方向が合わないのは何だかおかしい。身体の動かし方がこれで正しいのか不安になる。

「えーと、どっちが上で、どっちが下?」

「頭の上が上、だ。身体の向きは変わっていないんだから、前に進めばいいだけだぞ」

 イドラは、この視界と感覚の不一致をまったく意に介していない様子。

「こういうのにも、大魔術師さまは慣れるものなのかな」

「あぁ……大魔術師だからというより、空を飛ぶ訓練を何度もすると慣れる。実際に空を足もと側に見ることもあるし。そうか、トーイにはまだ早かったな」

 うわ、ちょっと悔しい。大空を自由に飛ぶのは、今の僕には出来ないことだ。

 もっと高く飛べるようになったら、絶対イドラより上手くなるぞ。高さを考えなければ飛んでいる時間は圧倒的にこちらの方が長いはずだし、そこは譲りたくない。

 そう誓いを胸に吊り橋を渡りきる。振り返ると、渡る前のように正常な上下位置にあった。

「ここに来てまた幻術とか、かなり警戒心が強いみたいだね」

 普通の人間は最初の関門で出口に返されるらしいし、もっと強い相手を想定しているんだろうか?

「振るいにかけている可能性もあるが……昔仕掛けてそのままになっている場合や、修行の一環で設置した場合もあるだろうな」

「修行……天狗が山で修行を積む話は確かに読んだことがあるかも」

 話しながら、階段に似た登り坂になっている岩の道を進む。

 岩場地帯を抜けるとまた少し緑が増える。岩の上に土があり、そこに植物が群生しているような。階段のような道は終わり、割と辺りは平らになっている。

 まばらな木々、土の上の枯葉や折れた細い枝、大きな岸壁に伝う蔓やコケ。自然の力が強い。妖精竜には快適な環境。

「旅に出てすぐに人間に会った場所に似ているなぁ」

 つい独り言が出る。

「妖精竜が住むような深い森や山の中に近い場所で、よく人間になど会うものだ。旅人かなにかか?」

 大魔術師は疑問を抱いたようだ。

 考えてみればそうだ。人里離れてどんどん自然の中へ分け入っているのに、そこが人間に会った場所に似ているなんて。

「いや、僕が最初に会った人は変わった人で……山の中腹に小さな図書館を作って一人暮ししている女の人。変わっているな、とわかったのは後の話だけれど」

 そこで色々な言語で書かれた色々な物語を読ませてもらい、人間社会や歴史について学んだことも多い。

 イドラは足を止めて腕を組んだ。

「名前は聞いたか?」

「あっ、聞いてないや」

 この図書館の司書ですよ、と言われてから、僕は彼女を「司書さん」としか呼ばなかった。

「トーイはそこでの本をどれくらい読んで覚えてるんだ? この世界の未来を予言した本や歴史の裏を暴く内容があったかもしれない」

「必要な知識以外はほとんど覚えてないな。なに、有名な図書館なの?」

「もったいないことを……」

 彼は溜め息混じりに言う。

「いや、そうとは限らないが。人里離れた場所を移動している魔法の図書館がある。〈最果ての図書館〉と呼ばれているそこにはさまざまな人物の人生が物語となった本が並んでいるという。亡くなった人物も生きている人物も、まだ起きていない人生の先、命の終わりまで」

 ああ、そう言えば本はどれも誰かひとりを主人公とした伝記のようだった気もする。

「一度だけ遭遇したことがあるが……わたしは自分の本を読んでみたいものの、見つけられなかった。誰の人生を記した本が置いてあるかはそのときどきによるらしい」

「イドラの人生の本があったら凄くぶ厚そうだね」

 いや、人生の長さが決まるということは終わりがあるということ。なんだかイドラの人生の終わりは想像つかない。

「もしくは、終わりがなくて存在しないとか?」

「始まりがあれば終わりはあるものだぞ……わたしは自分では終わらせないだろうが。ただ、あの図書館が本を得るための何らかの魔法的な仕組みにも限界はあるかもしれないな」

 彼は再び歩きだす。行く手には茂みや木々が生いしげっているが、人ひとりが抜けられるくらいの隙間は常にある。目を凝らして見れば、背が高めの木々の向こうの岸壁は一部が削ってあるように見える。人の手が入っている?

「どうやら、あれが目的地のようだ」

 あまり目にしない葉の形の植物が周りに散見される中、草が刈られた道を進むと見えてくる。小高い丘のような岩山の岩肌に窓、そして木製のドアがはめ込まれた入り口。あきらかに誰かが生活している住居だ。

 入口を守る罠や財宝を守る守護獣のようなものが存在するとは限らないけど、相手の性格も僕にははっきりわかっていないし。平然と足を進める魔術師のとなりで、僕はひそかに少し、身体を固くしていた。

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