第3話 呪われた沼の底から

 少し経つと、下から爆音が鳴る。

 残された四人はなにかを確かめるように動きを止め、しばらく音も立てず無言だった。しかしやがて、穴の下から敵が戻ってくる様子もそれ以上の変化もないと知ってか剣士が刃の先を下ろす。

「終わったか。みんな、無事か?」

「ええ、でもなんだか妙な相手でしたね。洞窟に出入りする魔術師がいるとも町では情報はなかったですし」

 妖精族の魔術師は少し不思議そう。

 そりゃ、ほとんどとっさのことで伏線なんて用意できないし、不自然に思われる部分も出てきちゃうかな。

「あいつに会ったやつはみんな殺されて情報が洩れなかったんじゃねえか? 都合のいいように噂話を流したりもできるだろ」

 どうやら、深くは追及されなそうだ。

「しかしどうする? 沼を確認して行こうか?」

 地面の亀裂の穴を覗き込もうとして、剣士は瘴気が噴き出すのに驚きのけ反る。彼らも魔法や護符などで防御はしているだろうけれども。

 しかし、これはまずいかも。下に行かれるとあの女神を見られてややこしいことになるのでは。それとも、それもイドラの魔法でやり過ごせるだろうか。

 とはいえ、飛んだり浮いたりする魔法っていうのは結構高度だ。一人ならともかく、何人かでどこまで下へ続いているかわからないところへ降りるのならなおさら。視界は悪いしどこかから何者かに攻撃されるかわからないことを考えると、ロープで一人ずつ降りるのもとても覚悟がいるはず。

「一度戻って報告しようか。しばらく待って瘴気がおさまらなければもう一度来ればいい」

 剣士がそう安全な結論を出したのも、無理のないことだ。

「良かった。降りるときは無防備ですから、次に来るならもっと降りるときのための準備が必要でしょう」

「次がないことを願うわ」

 それぞれに武器をおさめ、緊張感が緩む。

「とりあえず、帰って一杯やろうぜ」

「あたしはその前に着替えてお風呂に入りたいわ。なんだか服にまで瘴気が染みついている気がする」

 もう戦意は完全に見られない。

 そんな和気あいあいとした会話を交わしながら、彼らはこの空間を去っていく。とりあえず、洞窟内をしらみつぶしに探して財宝を求める感じの人たちじゃなくてよかったな。

 明かりも一緒に去って行ったので辺りは闇に包まれるが、妖精竜は夜目が利く。僕は、四人の姿が完全に見えなくなったのを確認してからそっと動きだす。ここで気がつかれでもしたら全部台無しだ。

 とりあえず隠してあった魔杖カールニフェックスを拾い、地面の亀裂に飛び込む。

 そこで僕は追跡の魔法を使う。この魔法を使うと探しているものが近くにあればぼんやりと光って見え、遠くてもそちらに引っ張られるような感覚になる。沼のある地下へ降りていきながら、僕は壁際にぼんやりと瘴気の向こうで白く浮かび上がるものを視界に捉えていた。

 近づくと、途中からポッキリ折れた杖を頼りに右足を引きずりながら歩いてくる黒尽くめが魔法の光球に照らされ、はっきり見える。

「おお、杖を持ってきてくれたか。ありがたい」

 即席の鍾乳石の杖はもう、柄の途中までしか残っていない。杖を渡すと彼は久々のように握りの感触を確かめる。あの四人が気がついて戻ってくる可能性もあるので、まだ魔力は封印したままだが。

「やっぱり、これでないとしっくり来ないな」

 イドラは実に満足げな顔。

「それはそうと……大丈夫? ホントに死んじゃうんじゃないかと思ったよ」

 僕が素直な気持ちを口にすると、彼は笑った。

「まさか。わたしが簡単にやられるはずはないだろう。幻術だよ。実際にはかすり傷ひとつないぞ」

 確かに、斬られたはずの皮膚にも岩の破片で傷ついたはずのこめかみにもかすり傷や血の流れた痕跡すらない。服もどこも破れたりしていないし。

 それに、考えてみれば彼は普段、常に安全を害するものを遮る防御結界に護られている。あの四人の攻撃が命中した光景は、すべて魔法で描き出された幻か。

「でも、その足は……」

 と、少し痛そうにしている右足に目をやると、

「これは、起き上がったときにちょっと岩につまずいてな」

 彼は少し恥ずかしそうに目を逸らす。

 やっぱり……敵には負けないだろうけれど、そのうち魔法実験の失敗とかで大怪我しそうなそそっかしさ。もしくは、今までもそんな経験がありそう。

「とにかく……女神に話を聞かないとな」

 身動きの取れない女神は、ずっと同じ場所にいる。

 次に僕らを迎えたメフェリはなにかを覚悟したような表情にも見えた。こちらが諦めないことを察したのか。

「続きを聞こうか。まず、こちらの理解が正しいかどうかだが……」

 メフェリは親しい下級神を救うためにナスコの洞窟にやってきて、そこで沼と同化していた目的の相手を見つけ、同化することで生きながらえらせようとした。もしくは、助けようとして罠にかかり結果的に今の同化の形になった。

 その推理を聞くとメフェリは目を見開く。

「そこまでわかるのか。これは厄介な」

「じゃあ、やはりもう一人いるんだな?」

 念押しされると、女神も否定はできない。

「ああ。ゼフィータという、わたしの姉だ。行方不明になって探していて、見つけたのがここだった。新月になると沼の支配が薄れるのでどうにかわたしを自分から引きはがそうとする。その衝撃が地上に地震として伝わっていたらしい」

 なるほど……もう、そこにお姉さんの存在は見えてはいないけれども。

「最初の数年は声が聞こえていたが、もうそれもなくなってしまった。これですべてだ。もう放っておいてくれ」

「もし、沼からキミだけ解放すると言ったらどうする?」

 唐突な提案。

 メフェリは黙るが、表情が移り変わる。どんな葛藤があるのかはうかがいしれない。

 やがて結論が出る。

「駄目だ、ここを出るわけにはいかない。それは危険なんだ」

 このままここにいれば確実に近いうちに死ぬ。なのに解放するのが危険とは、どういうことなのか。

「やはりな。沼と同化した者には呪いがかかるのだろう。おそらく、なにかを知られるとなにかが起きる呪いが。もしかしたら、同化したのも『知ってしまった』からかもしれん。知った側と話した側が同一になれば呪いの発動条件を満たさない。数年は声が聞こえていたということは姉を救うためという理由では即座に同化する必要はないし。しかし、そこまでして回避すべき呪いとなると」

「それ以上はいけない」

 思わず言ったのは僕だ。

 すでに沼と同化している姉からのことばで知ってしまったメフェリが同化を決意するほどの呪い。その姉だって妹を巻き込もうとは思わないだろうから遠回しに説明しようとしたはず。

 それでももう、僕の頭の中にもいくつか呪いの条件を満たし発動する結末が浮かんでいる。その中に答があれば――もう『知ってしまった』という呪いの発動条件を満たしてしまうのでは?

 それにしても、そこまで強力な呪いとなるともう、邪神の罠というより最後の禁呪という感じだけれど……本当にそれが呪いの結末になり得るのか。

「やはり話すのではなかった。ここでは賢いのも知りたがりも身を滅ぼす。身だけでなくすべてを」

 女神のことばは答え合わせに思えた。

 僕ら、世界を滅ぼしかけてない?

 現実感がない中でひしひしとそんな思いが強くなってきて同行者を見ると、イドラは平然としていた。

「しかし、わたしは同化などまっぴらだ」

 彼は杖を両手で握る。

「キミたちを沼から切り離す。魔力の供給源を失えば沼は力を失うからな」

 そうだ。呪いを発動するにも魔力は必要だ。

 沼は少し前から様子を変えつつある。外観は静かなままざわめいているような。魔力が波を起こしている――呪いを発動しかけているのか。

 でも、強力な力を発揮するにはそれなりの時間がかかるようだ。少なくともメフェリがここへ来た際も、姉と同化するくらいの時間はあったようだし。

「切り離す? わたしはいいが、姉は……そもそも、同化したものを再びそれぞれに戻すなど。わたしもそれができれば百余年前にやっている」

「その辺の魔術師にはできないだろうよ」

 イドラはその辺の魔術師ではない。

 まだ杖自体の魔力は封印されたままだが、魔杖カールニフェックスからオーロラのような帯状の、紫の光が伸びてメフェリと柱をいくつかに刻んだ。

 女神は膝をつく。左腕と左脚は黒く炭化したような状態で左目は閉じたまま。それでも人型は保っているけれど。

 ほかには、ごろんと転がり落ちた黒い一抱えほどの塊と、握り拳大の塊がふたつ。

「ね、姉さん……?」

 無理矢理唇を引き離して動かした、ややたどたどしい、女神の肉声。

 もともともう原形はとどめていなかったとはいえ、溶けた金属の塊みたいなものを目にしたメフェリは愕然とする。同化した状態では首を回すこともできず、姿ははっきりと見えていなかっただろうし。

 それを前に、イドラは沼の様子を確認する。

 魔力の供給源をすべて失ったせいか。沼は急激にざわめきから平静な状態に戻っていた。強力な呪いを発動するには魔力もかなり必要だ。もともと涸れかけていたらしいし、もしかしたら、放っておいても呪いを完全には発現できなかったかもしれない。

 まあ、それでも発動させないが安全に違いない。

 イドラの視線が女神に移る。

「新月には地震を起こしていたらしいから、その状態でもゼフィータは生きてはいるんだろう。反魂の術は要らないが、身体がないので放っておくとすぐ死ぬ。正直、肉体が無事な死者を蘇生させる方が楽だぞ」

 死者を蘇生させるような術は本来は禁呪だ。なにか言いたげに女神が睨むが、姉が助かる可能性を見て表情は複雑そう。その表情は、イドラが左の袖をまくり上げるのを見ると疑いのものに変わる。

「なにをするつもりだ?」

「存在しない肉体は作るしかない。岩の人形でもいいが、その場合はわたしが近くにいないと長く保たない。これでも全然足りないから、不完全なものにしかならないが」

 左手の手袋や指輪を取って、左腕の肘の上に懐から取り出した布をきつく巻き付ける。

 そのあとの一瞬の出来事に、僕もメフェリも唖然とした。

 ヒュン、と風が鋭く鳴ったかと思うと、イドラの腕が肘上から切り飛ばされて前方の地面に落ちる。

 ――どういうこと?

 また幻術か、と一瞬思うものの、ここで僕らを騙す意味はない。そんな意味のないいたずらを仕掛けるような性格でもないし。

 とりあえず成り行きを見守ろう……と、僕は思考停止した。見るとあらかじめ魔法で止血され痛みも無くしているらしいけれど、見た目からして痛々しい。

「一体、なにを……」

 メフェリの右目も見開かれ、視線はイドラと地面の左腕の上を行き来する。

「これしか素材の持ち合わせがないので仕方がない」

 懐からいくつか小瓶を取り出して中身をふりかけた後、右手の杖の先を地面の腕に向け、短く呪文らしきものを唱えた。

 すると腕は形を変えて盛り上がり、幼い少女の姿になる。銀髪の二歳くらいの可愛らしい少女。白いドレスをまとった姿は人形のよう。

 その少女の後ろで、大きな黒い塊が溶けるようにして無くなった。

「あ、あ……」

 姿が確定するなり、見えることに驚いた様子で目を丸くして少女は口をパクパクさせる。声が出るのかを確かめているみたいだ。

「ぅあ、め……めふぇり」

 声も見た目に合った、幼い少女のもの。

 それでも、たどたどしいそのことばに、メフェリは少女の正体を確信したらしい。

「姉さん!」

 彼女はよろけながら少女に飛びつく。ゼフィータ、といったか、姉は意味をなさない声を出し続けながら、それでもしっかりと自分より大きな妹の手を握っていた。

「長い間身体を失っていたから、動かし方を忘れているらしい。訓練が必要だ……その前にそれなりの身体を自分で、もしくは仲間にでも用意してもらうんだな」

 言って、魔術師の目は地面に転がったままの二つの塊へ。

「そちらも、もともとは誰かの肉体だったなれの果てなんだろうが……残念ながら精神の方も肉体の機能の方も完全に壊滅している。個を示すものがなければ反魂も不可能だ」

「精神がゼフィータみたいに残っていたら、復活させるつもりだったの?」

 興味本位で質問する。だって、仮の肉体として腕があと二本必要になるかもしれないじゃないか。なんの得になるのか。

「そうだな……その場合は手間がかかるが岩人形かなにかに精神を一時的に移し、町の魔術師の研究所でも借りて肉体を練成しようか。話を聞きたい」

 結局、イドラの目的は知りたい欲につながるんだな。

「本当は、もっと簡単な方法で沼も鎮められるんだが。記憶を消せばいい。しかしそれをするとなるとわたしがここで知ったことも消さなくてはいけない。得た知識をなかったことにするなんて耐えられない」

「だからって、腕を犠牲にしなくっても……」

 イドラの左腕は切り口に布が巻かれていて出血もないままだが、凄惨な外見には違いない。それに人間の腕は二本しかないのに一本失うというのはあまりにも犠牲が大き過ぎるように思えてならない。

 僕のつぶやくようなことばに、彼は目を見開いて一瞬止まる。

「腕を……ああ。腕なんて、どうせすぐ生えてくるぞ」

 なんのことはない、という口調。

 生えてくる、って……。

「ええっ……再生能力のある魔法生物みたいに、切り口から手がニョキニョキ生えて」

「肉体改造で再生能力はあるが、そういう再生の仕方はしない。一気に治す方法もあるけれど魔法での欠損治療にはそれなりの魔力を使う。ゼフィータの再生にも魔力を消費したからこれ以上はあまり魔力は消費したくないし」

 肉体改造。強力な魔術師が寿命を超えて生きるのも魔法による肉体改造の一種だというし、そういうのもあるところにはあると聞いたことはあったけれど……。

「想像以上にぶっとんでるね、イドラは」

「あ」

 僕らの会話を聞いていたメフェリの声。

 そちらを振り返ってさらに視線をやると、女神は右目と口を開いて驚愕したような顔。

 そう言えば、今まで名のってなかったような。

「ああ! 得体の知れないヤツだと思っていたら、そなたは漆黒の魔術師イドラか。邪神よりも邪悪だという……!」

 下級神からはそういう認識らしい。

「数百年前、邪神の残党掃討作戦が地上で行われた際に、イドラは邪神がいくつも隠し持っていた〈神々の秘宝〉を回収しても返却せず、魔力変換して吸収し自分のものにしてしまったのだ」

「セコい」

 思わずそんな声が出る。〈虹の勇士たち〉の前で演じていた悪の魔術師も、あながち全部は嘘ではないんじゃないかな。

 イドラは目を逸らした。それから、ふん、と鼻で笑う。

「わたしが独力で奪回したんだ。文句があれば自分たちだけで掃討すればよかっただけの話だろう」

 屁理屈を言う魔術師を女神は複雑な表情で見ていたが、もう大昔のことは言っても仕方がないとあきらめたらしい。

「そういうことなら……礼は言わないぞ」

「べつに、キミたちのためにやったことじゃないからな。沼を涸らせるのは今となってはわたしの望みでもある。それに、これはわたしがいただいておこう」

 そう言って彼は杖の先で黒い塊のひとつを突く。どろり、と崩れたその中から、手のひらに乗る程度の大きさの白い玉石が転がり出た。

「それは……?」

 一見、綺麗でもないし模様もない、つやつやの白い丸い石にも見える。ただ、僕でも魔力は感じられるけれど。

「さあ、正体はわからないが魔力は感じる。ここに取り込まれた者が所持していた魔法具らしいな。この呪いを退けるほどの力はない程度のシロモノだが、今回の実入り皆無よりマシだろう」

 僕の問いに、彼はあまり期待していない調子でそれを拾い上げた。

「さて、沼が新しい養分を見つける前に封じてしまおう」

 もう沼は魔力を失いつつあるだろうけれど、完全に涸れないうちにまた誰かが取りこまれたら元の木阿弥になるかもしれない。

 ならこのまま洞窟内に強力な罠でも仕掛けておけばいいのではと一瞬思うものの、僕はやっと気がついた。なんだか、瘴気が薄くなってきていないか……?

 気のせいじゃない。視界がここに来たときよりもかなり晴れている。沼の両脇の壁も見えている。魔力の供給が失われたことで生み出される瘴気の量も減ったのか。

「外へ出よう。沼が涸れるまでの間だけ近づけないようにすればいい」

 ということは、どこかで塞ぐのかな。

 などと他人事のように思っていた。洞窟を出るまでは。


 歩くのすら百年以上ぶりの姉妹、片足くじいているイドラという並びなので、脱出にもかなり時間がかかった。途中、一応歩けるものの不安定なメフェリにイドラが鍾乳石の杖を作ってあげたり、その際に彼自身が作って転がしたままだった岩の杖につまずいて転びかけたりしながら外に出たときには、かなり陽が高くなっている。もうお昼は過ぎてるだろうな。

 姉妹はまぶしそうに目を細めるが、顔には喜びが浮かんでいた。メフェリは百年くらいぶり、ゼフィータはもっと長い間ぶりの外だ。草木も山も空も、そこにある鮮やかな花の匂いやうるさい羽虫、瘴気を含まない空気ですら相当久々だろう。

 その様子をチラリとだけ見て、イドラは僕を振り向く。

「トーイ、出番だぞ。洞窟を崩して沼を塞げば大抵の魔力ある者も近づけないし瘴気も洩れ出さないだろう。その後、わたしが結界を張っておく」

 そうだった。僕は自分の使える三つの魔法のうちの最後のひとつを思い出した。

「そっか、僕にも仕事か残ってたらしいや」

 三人から離れる。洞窟の入り口の脇の、少し開けた場所の中心へ。

 僕が使える三つだけの魔法のうち、ひとつは身隠し、そしてふたつ目はものの場所を探す追跡魔法。

 そして三つ目は。

「これはまた、驚いたな」

 見上げるメフェリが小さくなっていくように見える。

 いや、実際は僕が大きくなっているのだ。自分の身体を成体の竜並みまで巨大化させるのが三つ目の魔法。ただ、身体が大きくなるだけで空を飛べるようになるわけでも魔力や体力が強くなるわけでもない。

 それでも身体が大きくなれば足も大きくなるわけで。僕は思う存分、洞窟を蹴り崩した。自分でやっていてなんだけど、まるで砂の城を壊して遊ぶ幼い子どもみたいだな。

 でも、これで沼へ続くあの亀裂も埋もれたはず。少なくとも魔法なしで岩の山をどうにかしようという人がいても、どかするまでに沼の魔力は涸れるだろう。

 崩れた岩と鍾乳石の残骸の山と化した洞窟から離れて元の大きさに戻った僕がイドラの脇に戻ると、今度は魔術師が一歩踏み出して杖を掲げる。

 すると、一瞬だけ赤い光線で編まれた壁が洞窟の周りを囲うのが視えた。

「この結界は一週間は保つ。最長でも、それくらいもすれば沼は完全に力を失うだろう」

「だろうな。長年の住処とも……それにキミたちともお別れのようだ」

 メフェリはしっかりと姉の手を握っていた。ゼフィータはまだ表情がぼんやりしているものの、妹の手を握り返してはいる。

「今度会うときも、できればそなたらと敵対しなければいいな」

「わたしが興味を抱くような情報を持っていればそうはならない。ゼフィータには話を聞きたかったがしばらく無理そうだな。どこへなりと帰るがいい」

 すでに興味を失ったような魔術師を一瞥し、女神たちは、草原を突っ切る土を踏み固めた道を歩き出す。

 二人ともまだ足もとがおぼつかない。石や岩が転がる洞窟内よりはかなり歩きやすいはずだけれど、あれで帰るべきところまでちゃんと帰れるのか。

「大丈夫かな、あの二人」

 草原を行く背中が小さくなっていく中、思わずつぶやく。

「どこかで仲間に拾ってもらうなり、自力でどうにかするだろう。あいつら人間じゃないんだから」

 そう言えばそうだった。神々は天空の島に住んでいるとされていて、目撃者の言い伝えではメフェリも天空から来たとかいう話だ。

「僕は、イドラが人間だということの方が信じられないよ」

「これでも、わたしはれっきとした人間以外の何者でもないけどな」

 彼は左腕の調子を確かめる。いつの間にか魔法でその辺に生えている蔦などの植物を基にした義手を作り上げていたらしい。

「再生薬を飲んでも完全に戻るには二日かかる。それまでのつなぎだけど……細かい作業は即席の義手じゃ限界があるから、少しの間は不便だな。トーイ、しばらくわたしの左腕の補助を担ってくれないか」

「漆黒の魔術師の左腕か」

 補助、という部分は今は聞こえなかったことにしておく。

「なんだ、トーイはわたしの右腕にでもなりたかったのか?」

 彼はおもしろがるように言うものの、弟子とか助手は取らない主義なんじゃないかな。今、一人だということは。それともかつてはいたのだろうか。

 疑問があっても、僕は彼のようになんでも即追及はしない。まだまだ一緒にいられる時間は長いんだから、知るときがあれば知ることになるだろう。

「いや、妖精竜のトーイが漆黒の魔術師の左腕になった、なんて噂が立ったらどう思われるか外聞を気にしているだけ」

「そんな噂が立つくらいならもう『漆黒の魔術師の仲間になった妖精竜』として噂になっているだろうよ」

 イドラは笑って、町への道を引き返しかけて足を止める。

「町の方でこちらのことを感づかれてないといいが。少し遠回りをして別の門から入ろう。町に入るまでは杖も封じておかないと」

「そうだね……」

 とはいえ『巨大な妖精竜が暴れていた』――そんな噂話は、誰かが見ていたわけでもないこの辺りなら発生しようがないはずだ、たぶん。

 まずいことになってもたいていは魔法で切り抜けられると知っている。それでも僕らは、しばらくハラハラしながら旅を再開することになった。

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