第六章 後始末 その②

 夏休み最後の夕焼けは、学生にとっては死神の鎌とも呼ぶべき憎き凶器です。

 夏休みという輝かしい自由を保証してくれる女神の死を告げ、また学校生活という不自由と自己研鑽と誰かしらの顔色を窺う、そんな息の詰まる日々を無慈悲に突きつける凶器の鎌。


「……」


 そんな恐ろしい夏休み最後の夕陽ですが、しかし今の私にとってはただ眩しいだけの光の塊。

 ……これからの人生になんの価値も見出していない者からすれば、絶望を告げる鎌なんてただ首を撫でるそよ風となんの違いもないのです。


 自宅から徒歩十分。

 例の家の近くの神社にも、太陽(自由)の最後の断末魔の輝きは平等に降り注いでいる。

 そこへ血のような真っ赤な夕焼けとは違う、淡い燐光が私を背後から照らし出す。


「お待たせ、恵梨香ねぇ」


 ──懐かしくも聞き慣れた癒しの声。

 それだけで本能的に身体が弛緩してしまう。


「いえ、時間通りですよ」


 魔法『ワープ』特有の淡い燐光を纏いながら現れたのは、鬼島令の妹にして、私の彼氏を殺したレモン令の彼女でもある、鬼島檸檬ちゃんでした。


「すみません、私の我儘の為に突然呼び出してしまって」

「あ、謝らないでよ恵梨香ねぇ! 恵梨香ねぇは何も悪くない。悪いのは……。ううん、それより、本気、なんだね。あたし達に関する記憶をすべて消すっていうのは」

「……まぁ、伊達や酔狂でこんなことは頼みませんよ」


 記憶を消して欲しい、そんな酷い理由で私はレモンちゃんを呼び出しました。

 幼馴染である令との付き合いは長いですけど、レモンちゃんとだってそれに匹敵するぐらい長い。そんな彼女だからこそ、私の記憶を消すのに相応しい。

 それに彼女は……私の彼氏を殺した男の彼女でもあるのだから。

 この事実だけでも、最後に彼女に会う十分な理由となる。


「じゃあ早速お願いします」


 面倒な前口上も無しに、私はとりあえずレモンちゃんに対して頭を差し出します。


「脳に保存された記憶を忘却させるのなら、やっぱり頭をイジるのですよね?」

「う、うん。脳を自由に弄れる『ロボトミー』って名前の魔法を使う予定。この魔法なら痛みとかも無いし安全だよ。……ただ一度使ったら、やり直しはできない。だから最後にもう一度聞くよ。恵梨香ねぇ……後悔はない?」

「後悔ですか? そんなの……」


 垂れていた頭を上げる。


「あり過ぎて困っているから、記憶を消したいんじゃないですか」

「……恵梨香ねぇ」


 頭を上げたら、目に溜まっていた涙がとうとう限界を超えて頬を音もなく流れていく。


「そう、だよね。ごめん、……わかった。じゃあ消すね、記憶」


 レモンちゃんが手を掲げて、私の頭に翳そうとする。


 これで、何もかも終わる。

 後戻りはできない。

 ああ、やはり後悔しかありません。

 もっと上手くやれたのでは。

 そんな己への𠮟責が、頭の中をネズミのようにクルクル走り回る。

 でももう決めたことなのです。


 ────だから最後の、本当に最後の『後始末』をはじめましょう。


「レモンちゃん。記憶を消す前に、やっぱりちょっと質問してもいいですか」


 精一杯勇気を出して放った声は、私の心情とは裏腹にいつも通りの空気の読めない場違いな声音でした。


「え。ああ、うん。何かな恵梨香ねぇ」


 突然の軽口に勿論戸惑うレモンちゃん。

 とうとう日も完璧に堕ちて暗くなった神社の境内で、私は背骨に鉄筋コンクリートをぶち込んだように姿勢を強制的に正す。


「その、令に関するあらゆる記憶を消した後、私の記憶の矛盾などはどうなるのでしょうか? さすがに記憶が抜け落ちすぎての廃人コースは困るのですが」

「それは……えっとね。心配しなくても大丈夫だよ。とりあえずお兄ちゃんに関する記憶を全部消した後に、適当な記憶を捏造して入れ込むから記憶の齟齬は目立たないようにするし。……不安だと思うけど、絶対恵梨香ねぇを廃人になんてさせないから安心して」

「記憶を捏造……ですか。何とも不穏な言葉ですね」


 鎮守の森に囲まれた境内に一陣の風が吹く。そのざわめきは木々同士で内緒話でもしているかのよう。


「あはは、聞こえ方は悪いけど、そんなに危険なものじゃないよ」

「随分その『ロボトミー』とやらの脳を弄る魔法に詳しいようですが。レモンちゃんはこの魔法、誰かに使ったことがあるんですか?」

「……あるよ」

「そうですか。経験者なら安心ですね。……あ、また質問なんですけど」

「なにかな」

「レモンちゃんは、あの殺人事件から今までどうお過ごしでしたか? ほら、犯人を突き止めたのはいいですが、その後どうなったのか結局私は知らないままでしたので」

「今から記憶を消すのに、どうしてそんなこと知りたいの?」

「そうですね。明確な理由はありませんが。あ、強いて言えば、このままだと夏休みの宿題を放置するみたいで気持ちが悪いから、ですかね。ほらこうしてレモンちゃんに会うのも最後になるでしょうし、もう少し会話を楽しみたいじゃないですか」

「夏休みの宿題、か。それは確かに消化しないと。オタクに優しいギャルでインテリ幼馴染な恵梨香ねぇらしくないよね」

「幼馴染、は余分ですよ」

「……そうだったね。えっと聞きたいのは恵梨香ねぇが退出した後の話だよね。まぁ別に特筆する所はなかったけど。大方予想通りの流れだったかな。やっぱり私の彼氏であるレモン令お兄ちゃんとまた新たに増えちゃった偽令お兄ちゃんの二人は、警察に突き出さず私達の独断で裁く形になって。

 とはいえ皆どう裁けばいいか悩むことになったんだけど。あ、因みにライラさんも悩んでたよ。というか一番悩んでたんじゃないかな。普段あれだけ処刑、処刑言ってる癖に、だよ? ふふ、あのヒト言動の割には、一度身内認定したヒトにはとことん甘いよね。なんていうか拍子抜けっていうか、あざといっていうか。

 まぁそんな感じでお兄ちゃん達をどう裁くのかは難航してさ。だから仕方なくあたしが提案したんだ。あたしのホームグラウンドって言っていいのかな。とりあえず例の異世界で幽閉しようって提案したの。あそこなら日本の法律とか無視して、あたしの独断でお兄ちゃん達を独房に詰め込めるよって言ったら、皆安心した顔になってあたしの案を受け入れてくれたよ。やっぱり誰も身内の泥は被りたくないみたい」


 よどみなく答えるレモンちゃんに、私は瞳を閉じてその場面を想像する。

 きっと私がいなくなってからのあのリビングは地獄の最下層のような空間で、誰もがレモンちゃんの提案に救いを見出したことでしょう。

 文字通り天使の導きだ。


 ……もしくは蜘蛛の糸か。


「流石はレモンちゃん、ですね」

「……どうかな。皆がただ思考停止してただけだと思うけど」

「あの日の顛末はわかりました。ならその後はどうなりました? レモンちゃんの言った通り、レモン令、それに偽令の二人は今も異世界の独房で?」

「うん。罪を償ってるよ。私はそれに付き添っている感じ。この夏休みはずっと私も異世界にいたよ」

「そう、ですか」


 独房に詰め込まれている鬼島令を想像……はできませんでした。

 善という概念が服を着ているような存在の彼に、独房なんてあまりに似合いませんし……。


「因みにライラさんやマナさん達がどうしているかは知らないよ。あれ以来会ってないし。そもそもあたしライラさんとマナさんの連絡先知らないしね。ライラ令とマナ令お兄ちゃん達も色々気まずいのかな?み~んな面白いくらい何も音沙汰なし」

「そうですか」


 呟きと共に顔を上げると、月さえない夜空はまるでコールタールのように真っ暗でした。


「事件後のエピローグは把握しました。では最後の質問です」

「もう最後? もっと恵梨香ねぇと最後のお話したかったなぁ。まぁいいや。で、何が聞きたいの」

「ええ。他のヒロインの方々のは聞いたのに、そういえばレモンちゃんのだけは聞けていなかったなと思いまして」

「あたしだけ?」

「……レモンちゃんは、令が四人に増えてヒロインそれぞれと付き合うことについて、本音ではどう思っていたのですか?」


 コールタールの闇に支配された世界に風が吹く。鎮守の森がマドラーのように夜空を廻し、より深淵を垣間見んとざわめき出す。


「そんなの決まってるよ」


 ざわめきの中、異世界の天使は笑いながら。


「────みんな殺したいって思ってたよ」


 天使の声音。


 それはウットリするほど耳に心地よく、まるで虫を誘い込む食虫植物のような芳醇と毒にまみれた告白。

 それが冗談ではなく、ただ当たり前の真実であると聞いている者に理解させるだけの、明確で静かなとろけるような甘い殺意。


「………」

「驚かないんだね、恵梨香ねぇ。……やっぱりもうバレてる?」


 殺意の影を潜めることもなく、彼女はいつもの調子で私の名前を呼ぶ。

 殺意の対象である私の名を。

 あどけなさと魅力を混ぜ込んだその声は、まるでいたずらがばれた幼子のよう。


「ヒントはいくつかありました。……でも一番のヒントはやはり、最後のレモン令の言動。アレに違和感を覚えまして」

「最後のっていうと…………ああ、恵梨香ねぇを人質にしたあたりかな?」

「あの突飛な行動。彼が言った通り、私に絶縁状を叩きつける為でもあったのでしょうが……まるでこれ以上私が事件に関わるのを嫌った故に敢えてあんな大胆な行動をした、とも取れました。共犯者の可能性に行きあたらせない為に、事件を強引に終わらせる為にあんな言動をしたと。『幼馴染解消』なんて言われれば、私が思考停止して逃げ出すと鬼島令なら簡単にわかったでしょうから。そして私はレモン令の思惑にまんまと嵌まり、あの場から逃げ出した。でもアイツやっぱり悪役は向いていませんね。最後の最後に『真実なんて知らない方がいい』なんてあからさまな弱音ヒントを吐いちゃうんですから。あれじゃあ謎がまだ隠されていると自白したようなもんです。ま、それに気づかず女子高生の夏休みという貴重な時間を使い潰して、やっとそのヒントに気付いた私も大概ですが。いやはや、私もまだまだですね」

「ふふ、謎に上から目線。ホント恵梨香ねぇはそういう言い回し好きだよね。めんどくさい。昔っからソレ、あたしも大っ嫌いだったよ。……なんでお兄ちゃんは恵梨香ねぇなんかのことが好きになったんだろう。趣味悪すぎ」

「それはまぁ……幼馴染だったから、じゃないですかね」

「ハァ?」


 今の言葉はレモンちゃんにとってはそれなりに癪に触ったらしく、さっきまでの淫靡な毒の気配が一転、攻撃的な雰囲気へと変貌する。


「そう、それだよ。いつもいつも幼馴染面する恵梨香ねぇが、ホントにホントに嫌いだった。幼馴染ってだけで、まるでお兄ちゃんを自分の物のように……」

自分の物とかやめてください。あんな不良品こっちから願い下げです。実際幼馴染は解消しましたし。万歳クーリングオフ」

「傲慢も大概にしてよ、ウザイ」


 鋭い静止が、彼女の本気をうかがわせる。今更全部冗談ですと笑い合うことはできない。

 そう、もう後戻りはできないのです。これで最後。

 どんな結末を迎えるにしても、鬼島令に関わる全てはここで精算される。


「……ではじゃれあいもこれぐらいにして、正真正銘最後の……『後始末』を始めましょうか」


 告げる、終幕ベル。


「────『四分割の彼氏殺人事件』の真犯人は、鬼島檸檬、アナタです」



 暗闇の神社に鳴り響くその鐘の音は、空気に溶け込むことなくこの場を汚染した。

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