閑話その① 鬼島令がまだ平凡で『普通』な男子高校生だった頃の話

 朝。学校の教室で、馬鹿騒ぎするクラスメイトを放って置いて、分厚い黒縁メガネを掛けた暗い女が独り自分の席で読書に耽っていました。


 ハイ、何を隠そう私、佐藤恵梨香です。

 私にとって他の生徒との交流なんて無駄でしかありませんでしたから、わざわざ周りとかかわる必要などないのです。

 とはいえ、完全なボッチというわけではありません。

 私には腐れ縁とも呼べる幼馴染がいるので……それだけで充分だったのです。


 だから私は読書をしつつ、横の席の男が登校してくるのを黙々と待っていました。

 アイツの幼馴染である私は、海外赴任で家にいないアイツの両親から身の回りのお世話を頼まれていました。

 具体的に言えば、毎朝起こしてやったり、朝食の準備をして、休日には家を掃除したりする感じの仕事です。

 とはいえ流石に一緒に登校するのは業務外。

 ……中学の途中までは一緒に登校していましたが、ある日を境に別々に登校するようになりました。

 絶対的なきっかけがあったようななかったような気もしないではないですが、細かいことは忘れました。ええ、忘れましたとも。別にクラスメイトに茶化されたとかそんなこと……ありませんから!


 とにかく!……とにかく今は、私とアイツは別々に登校していました。

 とはいえアイツとは本当に、産まれた直後からの腐れ縁なのです。産まれた病院も時期も一緒。家も隣同士。幼稚園の頃からもずっとクラスは一緒で。しかもしょっちゅう席は隣同士になりましたし、高校の合格発表時に受験番号が隣にあった時は嬉しさよりも先に寒気を覚えました。


 だから本当にアイツとは、腐りに腐って美味しく発酵した切っても切れない納豆のねばねば糸みたいな腐れ縁で結ばれていたのです。

 だからこれから先なにがあっても、きっとこの縁は続いていくと半ば諦め……信じていました。

 勿論この日も。

 だから当然のように遅刻ギリギリに現れたアイツに遠慮なくお小言をくれてやりましたとも。


「遅いですよ。毎朝起こしてあげているのに、どうしていつもこんなに遅刻ギリギリになるんですか」


 テンパで目元まで伸ばした髪。

 如何にもオタクっぽい男子は、頭を掻きながら椅子に座ります。


「いや……今日は道で偶々財布を拾ってだな」

「ねこばばして豪遊してたんですか」

「ちげぇよ、交番に届けてたの!」

「ちっ。なにイイ人ぶってんですか」

「なんでお前はそんなに攻撃的なの? 守備表示でターンエンドできないの?」

「失礼ですね。ちゃんと相手を見てチェンジしてますよ」

「威張ることじゃないなぁ」


 いつものやり取りです。

 偽善活動が日課なアイツに、私がお小言をこぼすのが朝のホームルームまでのルーティン。


「というかアナタもよく偽善活動に飽きませんね」

「偽善活動言うなや。いや、困っている人を助けるのは当たり前だろ」

「当たり前じゃありません。困っている人を横目でスルーするのが当たり前なんですよ」

「……そうかもしれないけどさ。それじゃあ寒いだろ」

「寒い?」

「そ。そんな世界、冷たくって仕方ない。その内息をするのも辛くなる。だから手の空いている誰かが、手のふさがっている人を助けてあげればいい。そっちのほうが、あったかいし、なんかいいだろ」

「フワフワしたニュアンスで喋るのやめてくれませんか?」

「今の話し聞いてそんな返し普通する!?」

「……まぁアナタが底なしの暇人というのは理解しました」

「理解してませんねぇ全然」

「でも暇人さん。いつかそれで、痛い目を見ることがあるかもしれませんよ?」

「んん? ………………ま、もしそうなったらその時は」

「その時は?」

「恵梨香が助けてくれるだろ?」

「────」


 なんてことを、軽く言ってくれやがったのですよアイツは。


「どうした恵梨香?」

「いいえなんでも。………………でもそうですね。アナタが起こしたゴタゴタの『後始末』ぐらいなら手伝ってあげますよ」

「後始末だけかよ」

「充分でしょう」


 私のそんな言葉に「そうだな」とまんざらでもなく笑ったあと、アイツは拳を私の顔の前に差し出しました。私もその拳に自分の拳を合わせます。私にしては珍しい悪ノリです。


「後始末は任したぞ我が恐ろしき幼馴染」

「任されましたとも我が愚かしき幼馴染」


 それは本当に……朝のちょっとしたいつもの悪ふざけ。

 約束にも満たない、売り言葉に買い言葉から産まれたちょっとした取り決め。



 けれど今でも私は──────この約束未満の『取り決め』を覚えている。

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