第32話 お嬢様がいればもう傷つかない

 声が重なったことが嬉しい。


 俺だけじゃなくて、竹宮さんも俺のことを母親の在り方とは違うと思ってくれている。それだけ、自分の在り方がこれでいいのだと、母親とは異なるものだと、支えてくれているような気がするのだ。


「竹宮さん……先、喋っても良い?」


「あ、うん。いいよ」


 竹宮さんも『同じじゃない』って叫んだんだ。俺の母親に言いたいことがあるに違いない。それでも、先に俺に言うべきだ。


 だって、今日ここには、俺がトラウマを振り切るために来ている。


 自分からケリをつけなくてどうするんだ。


「母さん」


「な、なによ! あなたは私の息子よ。それなのに……それなのに……そんな反抗的な目をして、許されると思ってるの!」


 反抗的な目……母さんには、俺の様子がそう映っているのか。今まで、母さんに対して真っ向から立ち向かったことは無かったかもしれない。だから、余計に気を逆立てるのだろう。


 俺と母さんの違いを証明するのは、目的の一つでしかない。


 本当に俺がトラウマを乗り越えてしたいこと。それは――。


 隣にいてくれる女の子と並び立っていくこと。竹宮雛乃さんと今日も明日も明後日も一年後も心で繋がっていられるようにすることだ。


「母さんと俺は違うよ。だって、俺は自分の大切な人の気持ちを踏みにじって傷つけたりしない。俺はその人の心に寄り添いたいんだ」


 その俺の静かに放った言葉に母さんは明らかに怒りの表情を見せた。そして、立ち上がり、俺の方に歩いて来た。


「和樹くん……!」


 竹宮さんがまた、俺のことを守ろうとして、椅子から立とうとしたが、それを俺は手を引っ張って止めた。


「大丈夫だから」


 その言葉にもう既に動き出していた諸麦さんや看護師さんが止まった。その直後だった。


 パシィ。俺のほほを鋭い痛みが襲った。


 母さんが俺に平手打ちしたのだ。


「和樹ぃ! まるでお母さんがあなたを傷つけているみたいじゃない! 訂正しなさい!」


「和樹くん! 大丈夫!? 何をするんですか!!」


 竹宮さんの方は見てはいないが、強く握られた手の体温が凄く上がっているのが分かる。普段は透明で、何か強い意思を見せる時は青色、しかし、今は色が完全に飛んでしまっているように感じた。


 怒っているのだ。


 それだけの強い感情のうねりが伝わって来る。


「竹宮さん……本当に大丈夫だから。それにこんなことのために怒らないで」


「こんなことって……私は大切な人が殴られて、それを黙ってることなんて、できないよ!」


 竹宮さんの言うことは最もだ。俺だって竹宮さんが殴られているところなんて見せつけられたら、怒ってしまうかもしれない。


 けど、俺は自身の母親程度にその感情をぶつけて欲しくないのだ。だって、母親からの傷は竹宮さんがいる限り、直ぐに癒される。もう心は母さんからは俺の心に痛みを植え付けることはできない。


 今の怒りに燃え上がっている竹宮さんには、それを一言一句正確に伝えても、恐らく止まってくれない。それだけ怒っている。


 だから俺はこうするのだ。


「えっ……和樹くん、それは――」


 竹宮さんをそっと包み込んで抱きしめた。


 彼女から溢れ出しているすべてを消し去ってしまいそうな熱を俺が吸収する。彼女を落ち着かせるために、俺自身の熱を伝えるのだ。


 もう大丈夫だよって。いっぱい貴女の気持ちは伝わっているよって。それを心で渡してあげて、彼女を安心させるんだ。


「ありがとう竹宮さん。俺は本当に、母さんから殴られたことは何とも思ってないから。貴女がいれば、もう傷つかないから。だから、怒らないで」


「ほんとうに……?」


「本当のほんとうだよ」


「だったら、うん。うん! 今は、怒るのを辞める!」


 竹宮さんは俺の肩で何度も頷いてくれた。


 そして、離れた後に二人で並び立って、手を繋いで母さんの前に立つ。


「母さん。これが母さんとの違いだよ」


「どういう意味よ!」


「俺は、いや、俺たちは大切な相手のことを傷つけたりしない。互いのことを思いやるんだ」


「まるで、お母さんにはそれがないように……! こんなにもあなたのことを愛してるのに。なんで、分かってくれないの!」


 母さんなりに定義した『愛』。そのいびつさが伝わってくる。


「……実際ないでしょ。母さんのはただの押し付けだよ。俺は母さんからやらされる勉強も嫌だったし、監禁されたときなんて怖くて仕方なかった」


「例えその時はそうだったとしても、いずれお母さんの愛が分かるようになるって信じてたのに……!」


 母さんも母さんなりに俺を思いやったのかもしれない。けどそれは、俺にとっては不快なものでしかなかった。ただ、それだけのすれ違いなのかもしれない。けど、一度傷つけられたという記憶は、癒せても消えはしない。


 だから、何と言われようとも、もう俺はここで、母さんと袂を完全に分かつ。


「最後に一つ言うね。母さん」


「最後!? 最後って何なのよ! だってあの時、約束したじゃない!」


 あの時の約束。『自首してくれたなら、また会いに行く』のことを。


「ごめんね。アレは母さんから逃れたくてついた嘘なんだ。もう二度と俺は母さんには会いに来ないよ」


「あ、あああああああああああああああ!」


 母さんは俺の眼前で崩れ落ちた。でも、これだけは言わなくちゃいけないと決めていたのだ。それが人としての誠意だと思った。俺たちが心の底から別れるために、必要なのだ。


「帰ろうか、竹宮さん」


「う、うん」


 俺は、竹宮さんの手を掴んで母さんの前から立ち去ろうとした。もうここにいてもしょうがない、要は済んだのだ。


「ま、待ちなさい! 和樹! あなたはお母さんと違っても、そこにいる娘はどうなのかしら? 彼女がお母さんと違うなんて言えるのかしら」


 母さんは必至の形相だった。少しでも俺に爪痕を残したい、何とかして、俺の心に残ろうとする浅ましさが見えた。


「竹宮さんは――」


「待って、和樹くん。私から言うから」


「――分かったよ」


 竹宮さんが俺の言葉に割って入って来た。もう全てを消し去るような怒りの奔流は消えていて、いつもの青い炎が滾っている。それなら、大丈夫だろうと踏んだのだ。


「私は――お義母様とは割と近い存在だと思います」


「ほら見なさい、和樹!」


 竹宮さんの口から出て来た言葉は驚きのものだったが、俺は動揺しなかった。ここまで献身的な女の子が母さんと同じはずがない。そう信じている。


「私は自己中です。基本的には自分のために動いています。和樹くんにちょっとでも近づきたいという一心でここまで動いてきました。そのためにトラウマを忘れさせてやる! って」


 前々から思っていた一つの謎が今解けた。朝から夜までずっと俺の傍に居たり、自宅を改造されたのはそういうことだったのか。


「それは全部、私自身の為です。お義母様と同じように自己満足を求めただけです」


「和樹の大切な女の子もこうなのよ! だから、お母さんも間違ってないわ!」


 竹宮さんの言葉に呼応されるように、母さんの沈んでいたテンションが上がっていった。


 一方の俺は、何とも思っていなかった。驚いたと言えば驚いたけど、竹宮さんが俺のことを大切に思ってくれているのは変わりがないはずだからだ。


「でも、お義母様とは明確に違う点があります」


「何よ……」


「それは、私が自分の範疇に和樹くんを巻き込める真の自己中だということです」


「はあ? どういう意味よ」


 俺も正直、意味は分からなかった。けど、竹宮さんからは絶対の自信がにじみ出ているように感じる。じゃなきゃ、彼女は笑ってはいないだろう。


「真の自己中って言うのは、自分の中に特定の他人がいるんです。だから、自分だけを喜ばすんじゃなくて、その人のことも同時に喜ばすんですよ。それが、私にとっては和樹くんだったということです」


 つまり、竹宮さんが俺のことを大切にしたいと思っていることを、自己中という面から解釈したのが今の説明なんだろう。

 結構強引で、それは我の強さから来てるんだけど、決して俺のことを傷つけずに喜ばせようとしてくれる。だから竹宮さんといると楽しいんだ。


「お義母様に言いたかったのは、それだけです。本当に誰かを大切にしたいのなら、自分の内側にその人のことを置いてあげてください。お義母様はそれが出来ていなかったから失敗したんです」


「自分の内側に……」


 母さんは何かを考えているかのように、胸に手を当てていた。その顔は、見たことがないくらいに落ち着いたものだった。


「じゃあ、帰ろうか! 和樹くん」


 差し伸べられた手を取って、俺は歩き出した。


「ありがとう、竹宮さん」


「ん? 何が?」


 俺は母さんとは喧嘩別れをするものだと思っていた。気分が最悪なものになると思っていた。でも、竹宮さんが母さんに何かを説いたことで、少しだけすっきりした別れになったと思う。

 

 そのことへの感謝と、今日までの竹宮さんがしてくれた全部への『ありがとう』だった。

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