第30話 お嬢様は俺のトラウマを知る
俺が誘拐されたのは、一瞬の隙のことだった。
その日は気持ちのいい春の陽気だった。
母親が離婚する前にどうしても、と言うから三人で食事を取ったのだった。最後に母親らしいことがしたいと、あの人は手料理を振舞った。
ウチのリビングで最後の家族団らん。母親もその日だけは、いつもの様子が嘘のように落ち着いていたことは覚えている。
母さんがある種の諦めを持ってくれた、現実を受け入れてくれたのだと、俺と父さんは勝手に認識していた。
だが、食事を取っていると急激に眠気が襲ってきて、体が動かなくなってきた。少しだけ酒を飲んでいた父さんはもっと顕著で、眠気を抑えられなくて寝てしまっていた。食事、或いは飲み物に薬を盛られたのだと、警察から聞いて知ったのは後の話。
その時だった。俺は母親に誘拐された。
眠気で体が動かない俺は、いきなりウチに入って来た母親の協力者と思われる人物に担がれて車へと運び込まれた。
怖くて、怖くて、怖くて、怖くて。
それでも、薬による眠気には耐えられなくて、車の中で眠ってしまった。
目覚めた時にいたのは、家具が殆ど置いていない段ボールが積み上げられた部屋。俺はその部屋の中央の椅子に座らされていた。
「良かったわあ! 目覚めたのね和樹。ここが今日から暮らす貴方の家よ」
今まで見てきた中で、最も満ち足りたような表情をしていた。一方で、俺は自分に起こっている事態を把握して、恐怖で冷や汗が止まらなかった。手足が椅子にくくり付けられた縛られている。
「何……これ。ほどいてよ母さん!」
「嫌よ。だってそんなことをしたら、逃げちゃうでしょ。協力者には足の骨を折っておくことを提案されたけど、大切な息子に怪我なんてさせられないわ」
足の骨を折る……? 目の前の人物が何を言っているのか分からなかった。ただ、一つ分かったのは母親に拉致監禁をされたということだけ。
これから俺は何をされるのか。目の前にいる母親の形をした怪物がこちら見ている。まるで、芸術品を眺めているかのような目線だった。もう何も受け入れたくなくて、目を背けようとしたけど、そんなこともできないくらいには、あの人の挙動に注目せざるを得なかった。
ゆっくりとあの人が近づいてくる。
「う、うわあ、ああああああああああああああ!」
止めろとすら言うことができなかった。血走った眼と、角ばった腕がゆっくりと迫って来る。そして、あの人は俺の肩へと腕を回して、抱き着いてきた。
「ひっ……」
あの人は俺の耳元で囁き始めたのだ。
「愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる愛してる」
息をすることができなかった。息をしてしまえば、口から魂が漏れ出ていって、取り込まれてそうだと、本能的に判断したのだろう。
呪いのように繰り返される『愛してる』に、頭がおかしくなって発狂してしまいそうだった。もしかしたら、発狂した方が楽なのかもしれない。でも、意外にも脳みそは正常に動いていて、その繰り返される呪詛をかみ砕き続けた。
母親が離れた瞬間に、「はぁはぁ」と漸く呼吸を取り戻した。
冷や汗が滝のように出ていて体がびっしょりになっているのを感じた。それに気づいたのか母親は。
「ちょっと待っててね。今拭いてあげるから」
部屋から一難が去った。
俺はこの隙になんとか、逃げ出そうとして、暴れた。体を揺らせば、手足を結んでいる結束バンドが離れるかもしれないと思ったのだ。
だが、全くもって上手くいかない。椅子と同時に俺も倒れてしまう。大きな音が鳴ったせいで、母親が大急ぎで息を荒くしながら戻ってきた。
そして、部屋に倒れている俺を見て、叫んだ。
「まさか……逃げようとしたの!? 許せない許せない許せない許せない! あんたは私の大切な息子なのよ! それなのに、母親から逃げようとすんなんて……!」
そして、母親は手に持っていたハサミで俺の腹部を刺した。
「がっ……あああああ!」
痛みで声が洩れる。
後から分かったことではあるのだが、ハサミは腹部の表面に刺さっただけで、大した怪我にはなっていない。
でも、その場には確かに俺の血が滴った。
それを見たあの人は、狼狽していた。そして俺に向かって言うのだ。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。ほんとはこんなことをするつもりは無かったの……! 今手当するから待っていて」
すぐに別の部屋からガーゼやらなんやらを持って来て止血した後、呆然とした様子であの人は部屋から去っていった。
それからは、何も考えず、何もせずにじっとしていた。もう俺はここで一生をあの人に飼われるように過ごしていくしかないのだと、心が死んでいた。
しかし、そうはならなかった。
警察がやってきたのだ。
これも後から聞いた話なのだが、母親は自身の名義で借りたアパートを俺の監禁場所として使っていたらしく、すぐにバレた。何故そんなすぐにバレるような真似をしたのかは分からない。
警察から追い詰められた母親のとった行動。それは……。
「和樹。一緒に自殺しましょう。そうすれば、あの世で一緒にいられるわ……」
ガタガタと体を震わせて泣きながら包丁を俺に向けるあの人。
俺は、警察が来ていたこと分かっていた。外から音が聞こえていたのだ。
だから、この状況から逃れる術というのを探していた。
心は折れていたが、死にたくなんて無かった。しかも、あの人と一緒になんて。
そこで、俺は言ってしまったのだ。穢れきった悪魔のような一言を。
「母さん……ここで母さんが自首してくれたなら、俺はまた母さんに会いに行くよ。だから、もうこんなことは止めよう」
それを聞いたあの人は、泣いていた。
「やっとお母さんの気持ちを分かってくれたのね……」と言ってから、また俺に抱き着いてきた。
触れられるだけで吐きそうだったが、何とか笑顔で耐えて、あの人を自首させた。
それが事の顛末だった。
◆ ◆ ◆
話を聞いた竹宮さんは、泣きそうになっていた。けど、泣かずに一生懸命に我慢をしていた。
そして、無言で椅子から立ち上がった竹宮さんは俺に近づいてきた。抱きしめようとしたのか両手を広げたが、すぐにそれを引っ込めて、両手で俺の左手を握ってくれた。
その優しくて暖かい両手が、俺の心を包んでくれているように感じた。いつまで経っても彼女は俺の手を放してくれなかった。
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