第8話 和樹くんは私に抱きつかれた(竹宮さん視点)

 私、竹宮雛乃という者です。


 地域の高校に通う普通の女子高生。


 え、普通じゃないって――よく言われる!


 そんなことは自覚してるよ。でも、普通じゃないです! なんて、大声で言いたくないよ。だから、私は自分のことを普通の女子高生って言いたい。


 そんな私だけど、今、気になっている人がいる。


 それが味元和樹くん。同じ学校に通うクラスメイトの男の子。凄いイケメンかと言われればそうではないけど、清潔感もあって、たくさん友だちもいる、クラスでの中心人物。


 だからか、自然と目を向けることが多かった……というわけではない。


 和樹くん……今はそうやって呼んでいるけど、当時は名前すら知らなかった。そんな時期に二回ほど、彼と出会っているはず。


 今日の夜、まかないの醤油ラーメンを食べて、おぼろげに記憶されていたものが脳内に噴き出した。


 もしかして和樹くんがそうかも……? というものから和樹くんのはず!


 くらいの確定ではないけど、ほぼほぼそうだろうと言うことが分かった。


 私が小学校六年のときに、この町で迷子になっていたところを助けてくれたのが、恐らく彼だ。


 ずっと、探していた。


 なんで探していたのかは、言い表すことが難しい。


 気持ちの正体が自分でもよく分かっていないんだ。


 感謝してる。褒められたい。気にかけて欲しい。頼って欲しい。一緒にいて欲しい。手を繋ぎたい。


 そのように彼といると、色々な感情が溢れ出して来て、自分の気持ちがよく分からなくなってくる。


 でも、ただ一つ分かっていることがある。


 それは、和樹くんの匂いが大好きなこと。


 迷子になっていた私を助けてくれた人。顔も忘れてしまったけど、その人のことで唯一憶えていたことが、その特徴的で美味しそうな匂いだった。


 今日食べたラーメンの匂いは、間違いなくその人の匂いだ。


 そして、その匂いは和樹くんからも感じ取れる。美味しそうな匂いで、食べてしまいたいくらい。それくらい、自分にとっては魅力的なもので、忘れらないもの。


 この前、学校でお友達が言っていたことがある。


 何でも、匂いが好きな異性というのは、遺伝子、本能レベルで惹かれている証拠とのことだった。

 

 つまり、私としては、まだ気持ちに整理がついてないが、DNAのレベルでは彼にどうしようもなく惹かれてしまっている。ということ。


 だから、私はバイトをする前から、和樹くんの匂いを嗅ぎたくて嗅ぎたくてしょうがなかった。


 その時は興味本位で、今も興味本位でしかないけど、あの人だって確信したからには、もう近くでスンスン匂いを嗅ぎたくてしょうがなかった。


 和樹くんも『そんなにいい匂いなら、後でもっと堪能してきなよ』って言ってくれてたし、彼もそう言ったことを憶えてくれていた。


 男の子に抱き着くなんて、本当はやっちゃいけないことなのかもしれない。けど、今の私にブレーキは存在しなかった。


「じゃあ、いくよ」


 私は和樹くんに抱き着いた。後ろ手を回して、抱きしめる。


 そして、彼の匂いを思いっきり嗅ぐ。


 意外にも最初に思ったことは、安心だった。迷子になって泣いていた私を包んでくれた、あの人とやっと会えたという安心感。


 良かったと思って……思わず感極まって涙が一筋流れ落ちた。


 その次に思ったのが、やっぱり美味しそうという感想だった。でも、近くで嗅いで決定的に思ったのは、これ以上に好きな匂いは地球上には存在しないという確信だ。


 私の家はお金持ちだ。それなりに良いものを食べているという自覚はある。今まで色々と高級な料理を食べて来たし、色々な匂いも嗅いできた。


 でも、和樹くんの匂いはそんな地球上のあらゆる食材とは比べ物にならない。ありとあらゆるものを超えていく、圧倒的な感動をくれるものがあった。


 思わず食べたくなってしまった私は、和樹くんの首元を舐めようとして……。


 彼の呼吸が異常に早くなっていることに気づいた。


「か、和樹くん!? 大丈夫?」


 返事がない。いや、返事が出来る状況ではなかった。そこに空気があるのに、まるで空気がないように、酸素を求めて何度も何度も荒く呼吸を繰り返す。苦しそうにしている彼の姿が目に映った。


 このままだと和樹くんが死んじゃう。


 どうにかして、和樹くんを助けないと。


 でも、どうしたら……。


「だ、誰かー! 誰かおりませんか!」


 精一杯、大きな声で叫んだ。


 だけど、その行為に意味がないことに気づいた。ここは畑のど真ん中。叫んだところで人は来ない。


 救急車を呼ぶにも番号は分からないし、そもそもそれを呼んだところで、和樹くんが助かるのか。


 私は、私の無知を呪った。


 私が世間知らずな馬鹿で、人に頼らないと何も出来ないような人間で、いつだって誰かが守ってくれて、そんな風に生きてきたから、こんなことになったんだ。


「ぅ……うぅ……うぇぇぇぇぇん!」


 どうしようもなくて、わんわん泣いてしまった。泣いたってどうにもならないのに。


 和樹くんが死んじゃうかもしれない恐怖、私が何も出来ないことへの悔しさ、泣いているだけの惨めさ、すべてが混ざった涙だった。


「大丈夫ですか!? お嬢様?」


 そんな時だった。聞きなれた声に、私は顔を上げた。


「……夕夏?」


 目の前に立っていたのは、私の親友にして最も信頼しているメイドである諸麦夕夏だった。


「ど、どうしたのですか?  そこで苦しそうにしている味元みもとさんも……一体なにが起こったんですか!?」


「わかんないよぉ……でも、和樹くんを助けて……」


 私は縋る様に、夕夏を頼った。


「お任せください!」


 彼女は和樹くんの容体を見るやいなや、『味元みもとさんのことを見ておいてください』と告げると走って行ってしまった。そして、帰って来た夕夏の手には紙袋が握られていた。


味元みもとさん! この紙袋の中で吸って吐いてを繰り返してください!」


 和樹くんは夕夏の言うとおりのことをしていくと、次第に呼吸がもとに戻って来た。


 そして、呼吸が完全に普通のものに戻ると、和樹くんは道端に座り込んでしまった。


「これで一応は大丈夫だと思います」


 夕夏が私に告げて来た。


「よ、良かった……でも、和樹くんは一体……?」


「過呼吸ですね。何かしらの心因的な原因があって、更に身体的・肉体的ストレスが加わると起きる疾患です。一般的にはああやって、紙袋なりビニール袋なりを使ってあげると症状が落ち着くとされます」


「そうなんだ……」


 やっぱり私って無知だ。夕夏は『一般的には』と言っていた。それだけ過呼吸というものは知られているものと考えていいだろう。やっぱり、私が世間知らずな箱入り娘だから……。


「それで、お嬢様。味元みもとさんがああなった原因なのですが……何か心当たりはありますか? やはり私が来る直前に何かあったと思うのです」


 そっか、身体的・肉体的ストレスって言ってたよね。


 それで考えると――、これしかないのかもしれない。


「私が抱きついたから、なの?」


 最悪な想定だった。


========

追記


 作中における過呼吸発作の対応は現在、推奨されているものではありません。

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