0004 踏んだり蹴ったり、ならぬ


 と、そこまで考えて体のピキピキする痛みを思いだして枕に頭を沈めて息を吐く。


 ……気のせいか。犬、フロウが鼻で笑ったような気がしたんだが。ん。勘違いだねそうだね。だとかひとりコントしているとアイシアが駆けてきた。両手にお盆を持って。


 お盆の上には白い磁器の小振りな水差し。と、もうひとつ、こちらは気持ち大きめで透明な水差し。あとはお碗がひとつとコップが一個ずつ伏せて乗せてあるのが見えた。


 少し焦った顔。でもちょっとだけお怒りの色が覗くその表情は愛くるしいと表現するに相応しい。揺れる耳がうさちゃんだろうがどうでもよくなるくらい可愛い、このコ。


「ダメですよ。まだ安静にしていなきゃ」


「そ、うみた、いだね」


「はい。あ、っとそうだ。お名前は?」


「な、まえ……?」


「はい。あなたのお名前です」


 名前を訊かれた。当然に。お互い見知らぬわけだし、ねえ? まあ当たり前か。名前を訊いたり教えたり教えてもらったりするのは。応えたいね、可愛いコの質問だしさ。


 でも、困ったことがございます。自分、名前、わかんない。ド忘れっつー感じじゃなくて根っこからぶっこ抜かれたように忘れている。記憶も欠けているってかないけど。


 アイシアが興味津々といったふう首を傾げているんだが自分はぼんやり思考に耽ってしばらくして、結論をつけて首を左右に小さく振った。アイシアは「え?」という顔。


「あの、え?」


「ごめん。思いだせないんだ。さっきからずっと考えていたんだけどちっとも、さ」


「それ、って……」


「なんか、わかんないけどいつの間にかあそこにいて、全身痛くてなにも覚えてな」


「ご、ごめんなさいっ私、無神経な」


「ええ? そんなことないって。看病してくれたんでしょ。むしろ、ありがとう?」


「あ、えっと、看病していたのは私じゃなくて黒さんで私はお忙しい黒さんに代わってお薬を届けに来ただけですので、そのお礼は黒さんに言ってあげてください。……あ」


「え、なに、そのあ、って」


「い、いいえなんでもありません」


 あの、アイシアさん? そのお急ぎ早口言葉だと説得力が一気に削がれますけど?


 まあ、指摘しないでおこう。それにしても黒さん、ね? ずいぶん変わった名前だけど本名じゃないよな? いや、まあ今この時においてはどうでもいいんだけど、それ。


 いくはないが急ぐ問題じゃない。ひとまずええと、記憶も名前も思いだせない現状をどうすればいいんだっけ? それとも一旦保留にしておいていいのか? つか、ここってどこなんだ? どうにも自分の知る現代の現実世界からほど遠い気がするんだが……?


「アイシア、さん?」


「あ、アイシア。呼び捨てで」


 そう言って悪戯っぽく微笑む彼女につられて笑う。はあ、このコホントいいコだ。


「がふっ!」


「ひぎゃべぼーっ!?」


 とか思っていたら急に、なんのアレなのかフロウが噛みついてきた。それもご丁寧に布団の上から。お陰様で自分は規制しなければいかん奇声をあげてしまいましたとさ。


 反射的にフロウを涙目で見る。が、この犬、意地クソ悪く口角あげて笑い腐った。


 こ、ここここの犬め! 怪我人になんてことしやがる。ちょっと動いて噛まれたところどころか全身崩壊五秒前くらい痛いんですけど!? どういう了見だ、うだらぁ!?


「フ、フフフフフロウ!? ダメでしょっ」


「がうっ」


 ぷいっ。アイシアにダメでしょ、言われたフロウだが態度変更なく自分から顔を背けて不満そうな唸り声も零しなさる。クソ、なんて態度の悪い犬っころだ。所詮畜生か。


 が、畜生この野郎思ったのが即行バレたようでフロウ、今度はご自慢(?)の角でやっぱり布団挟んで自分をぶっ刺してきた。ぎぃええぇえ!? いっだぁあああっっ!? 


 もうね、もんどりうつってこういうのかしら? とかどっか遠いところで冷静な自分が他人事のように考えている不思議です。なに? 自分はアレか、幽体離脱ならぬ思想離脱でも会得しているのですか? って、聞いたことねえっつーの! そんな秘密の技!


「ちょ、フロウっ! どうして」


「わふっ」


「わふ、じゃねえよ、クソ犬!」


 いててて。クソ、ちっくしょー。布団クッションのお陰で穴開きにならず済んだのがよかったのか、布団があるからフロウが遠慮なくがぶり、ぶすりとやってくるのかどっちなんだって話だが、どっちにしたってわけわからんぞ。その凶暴性はなんなんだよ!?


 こ、この畜生どころか鬼畜生野郎……っマジどういうつもりで怪我人を攻撃する?


 しかもご主人であるアイシアの制止をも無視するとはなに。……ボディーガード?


 え、なにこいつボディーガードのつもりですかねこんにゃろう、どんだけご主人らぶが炸裂してんだよ、それってば。自分がなにをしたと言いやがる? なにもしてねえだろうがよっ! どんだけご主人様アイシア大好きなんだこいつぅ。理不尽すぎるんじゃ。


「ご、ごめんなさい。あの、フロウはご主人の、黒さんの言うことしか聞かなくて」


 違った。このアホ犬、アイシアのじゃなかった。え? でも苛烈すぎて激痛い攻撃数多喰らいましたんですが、それはなにか? ただたんに自分の不埒を疑ったとかもしくはもっと言って自分が気に喰わないから早めに制裁して躾けておこうって腹ですかねぇ?


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