宗教
ついさっき宗教勧誘にあった。この日は教授の都合とかで講義が休みになったおかげで、家でだらだらと惰眠を貪っていたのだが、ふとインターホンの音が家中に響いた。
この音は本当に煩い。大学生の一人暮らしなんて大抵が1Kなのだから、そこまで爆音にしなくても充分聞こえる筈なのに。
折角の休みを邪魔されてイライラしながらインターホンの画面を見ると、中年の女性が立っているのが見えた。そこで何となく嫌な予感を覚えた筈なのだが、この時の俺は特に何も考えずに通話ボタンを押してしまった。
「こちら、〇〇の者なんですけど」
すぐさま失敗したと感じた。何故なら、先程その中年女性が名乗ったものが、聞いたことある宗教団体の名前だったからである。
「あー、えっとすみません。今コロナで自宅療養してまして、ちょっと家から出れないんです」
俺は咄嗟に嘘をついた。あの流行り病を出せばどんな人間も訪問を諦めざるを得ないし、傷付く事もないだろう。
中年女性はそれを聞いて、それはお大事にと一言告げて去っていた。良かった、上手く機転を利かせて平和に事を収められることが出来た。
ああいう輩は玄関まで入れてしまうとしつこい。両親からは口酸っぱく、セールスだの宗教勧誘だのを家に上げるなと教わっていたのだが、一人暮らしを始めて浮かれていた頃は、時々警戒を忘れて玄関を開けてしまう事があった。その度にうんざりするような話を長々と聞かされたり、よく分からない書類を書かされたりなどがあったため、何度も後悔したのを覚えている。
最近は、家にやってくる友人なんかは最早インターホンなど鳴らさない為か、逆に鳴った場合は警戒出来るようになっていたのだが、今日は気を抜いてしまっていた。これで玄関まで開けていたら一体どうなっていた事か。
翌日、大学の午前の講義を終えると食堂へ向かった。いつもは友人2.3人と一緒に学食に行くのだが、その友人達は大学から少し離れた店に食べ行くらしかった。俺はその友人達とは違って午後の講義をとってしまっていた為、流石に大学を出ての昼食は講義に間に合わないと踏んで、1人で学食を食べに行く事にしたのだった。
こういう時、やはり友人達と完全に同じ履修にすれば良かったなと思う。1人で食べに行く学食は周りの騒々しさのせいで、より一層孤独感が引き立てられるのだ。
長蛇の列を並び切り、注文した料理を受け取って会計を済ます。適当に空いている席に座ると、ようやく一息つけた様な気がした。友人といると雑談であっという間だが、1人だと待っている時間というのは長く感じるものだ。
そうして昼食を取っていると、ふと、前の席に誰かが座ったのが見えた。若干の不快感を覚える。1人でゆっくりと食事をとるつもりだったのに、余計なものが侵入してきたような気分になった。何故わざわざ俺の前に座ってきたのだ。他にもまだ空いてる席は有るだろうに。
「小野君じゃん! 久しぶり」
そんな疑問を抱きながら、誰が座ってきたのかを確認すると、そこには見た事のある顔が俺に声を掛けてきていた。
確か、前期の講義で一緒だった奴だ。あの講義は最悪だった。担当の教授が、とにかく学生同士でグループワークをさせたいみたいで、かつ出される課題も面倒なものが多かった。その課題のせいで講義外でも様々な学部の人間と一緒に課題に取り組まされたため、とにかく大変だったのを記憶している。
こいつはその講義でグループが一緒だった奴だった。名前はえっと、忘れた。もう会う事も無いだろうと、その辺りの記憶は完全に消えてしまっていた。
「おー久しぶり、前期以来だね。どうしてた?」
まあ名前は忘れたにしても、あの時の講義の記憶はしっかりとある。後は適当に話を合わせればいいだろう。俺が当たり障りの無い返事をすると、相手は、ぼちぼちかな、とこれまた当たり障りの無い答えを返してきた。
それからは少し気まずいながらも、あの講義の話を語り合い、大変だったとお互いに思い出話に花を咲かせていたのだが、何となく彼の様子に違和感を覚え始めた。
こいつ、こんな痩せてたっけ。
初めに覚えた違和感はそれだった。何となく頰がこけているような、やつれた印象を今の彼から受ける。以前に会った時も別に痩せ型だとは思っていたが、ここまではっきりと痩せているのが顔に出るような人間ではなかった筈だ。
それから、たまに目の焦点が合わないような時があるのだ。さっきまで俺の目を見ていた筈なのに、気付くと何処か違う所を見ているような、奇妙な視線の動きをしている時がある。
こんな感じで、他は普通なのに、所々に以前と違う、何か少しおかしいと感じる点をいくつか見てしまい、俺は少し薄気味悪く感じた。
まあしかし、夏休みを挟んだのだから多少の変化はあるだろうと、無理矢理自分を納得させようとしたのだが、ここで、初めに感じていた違和感が悪い予感へと明確に変貌する事になった。
「そういえば、今度僕の入っているサークルで食事会をやるんだけど、何人か空きが出ちゃってさ。良かったら小野君も来ない?」
「へーそうなんだ。どんなサークル?」
「ほら、こういうのだよ。他の大学の人も来たり、色々人脈が広がると思うんだよね」
そう言って彼はスマホを取り出して、そのサークルの名称や写真などを見せてきたのだが、これがまた全く知らないサークルであった。名前など一切聞いた事がないし、どんな事をやっているかというのも文章から明確に分からないのだ。様々な人との交流を図るだの何だのと、とにかく曖昧なことばかり書かれていて結局なにがしたいサークルなのか理解出来ない。
言っちゃ悪いが、めちゃくちゃに怪しかった。恐らくマルチか宗教、どちらかの勧誘だろう。昨日も遭遇したというのに、また出会ってしまうとは面倒で仕方がない。
今回は訪問してくるタイプと異なり、学生団体などを自称し、回りくどく誘ってくるタイプの手口なので警戒しないといけない。隙を見せて個人情報でも抜かれたら堪ったものではないはずだ。
「いやー俺は良いよ。金なくてバイトで忙しいし」
俺はどうにかしてこの場から逃げようと、しつこく追随されないように学生特有の忙しいアピールしながら、やんわりと断った。アピールと言っても実際金にそこまで余裕は無いし、休日もサークルやバイトがある訳だから、忙しいのは結構事実なのだ。
そうして断った途端、彼の様子が急変した。先程までの、怪しいながらも朗らかな態度から、何というか余裕の無いような表情に変貌し、妙に緊迫感を漂わせている。
「ほんとにいいの? 勿体無いよ。他大の女子とかとも知り合えるチャンスだよ」
そんな所に来る女なんて碌な奴いないだろ、と心の中で毒づきながら、俺はその誘いも断った。もう少し良い誘い文句もあるだろうと思ったのだが、きっとそれすら考えられなかったのだろう。彼の話しぶりは取り繕ってはいるものの必死としか形容出来ず、見てて少し哀れに感じてしまう程だった。
しつこい彼の誘いを、午後の講義があるからと一蹴して立ち上ると、彼はそんな俺を見て、ようやく諦めたようだった。その表情は悲壮感に塗れており、俺に断られた事に対してひどく落ち込んでいるようだった。
その様子に少し心苦しくなりながらも、ここで同情でもして関わりを持ってしまうと碌な事にならないのは分かっていたので、心を鬼にして俺は立ち去る事にしたのだった。
食堂を出ると、不意に誰かが俺の肩を叩いてきた。さっきのあいつかと思って恐る恐る振り返ると、そこにはバイト先で知り合った女友達がいた。
彼女は薬袋と言って、常識を持ち得ながらも霊が見えるだのと言って変人の枠に自ら入り込もうとするおかしな女だ。学部も違うのでバイト以外で会う事は滅多に無いのだが、こうして食堂なんかではたまに見かけたりもする。
「うわ、びっくりした。お前かよ」
「やあ、厄介な奴に絡まれて災難だったね」
「なんだ、見てたのかよ」
見てたなら助けてくれても良かったじゃないか、とも思ったが、冷静になって考えると、あんな面倒ごとにわざわざ首を突っ込むような真似なんてしないだろう。少なくとも、俺が薬袋の立場ならそんな事はしない。それこそ彼女の様に、事が済んだ後、災難だったなと揶揄ってやるのが丁度良いくらいだ。
「見てたよ。どうせ宗教の勧誘とかだったんでしょ? あいつ私達の学科でも話聞くもん。しつこく誘ってくるやべー奴がいるって」
「あー実際しつこかったよ。というか、すごい必死だったな。なんか人脈を広げられるチャンスだとか他大の女と知り合えるだとか、そういうのをたいして仲良くない癖に誘ってくる時点で怪しいんだよ。もう少し上手い誘い方ってのがあるもんだろ」
そう愚痴の様な何かを溢しながら、食堂の様子を覗いてみると、彼は放心状態かの様に何もせず俯いており、席から立てないようだった。たかが俺に断られたくらいで、余程ショックだったのだろうか。
俺が彼を覗いているのに気付いたのか、薬袋の方も食堂へと顔を出し、彼の様子を伺い始めた。そうして暫く眺めていたかと思うと、途端に複雑な表情をしだして、うーんと唸り始めた。
「あれは、どうなんだろう。誰かが助けてあげたらまだわかんないけど、1人じゃもう戻って来れないよなあ。手遅れに近い」
散々唸ったかと思うと、薬袋は突然そんな事を言い出した。手遅れとは、一体どういう意味だろう。宗教にどっぷり嵌まり過ぎているという意味だろうか。
「違う。いや、それも合ってはいるんだけど、そういう意味じゃない。私が手遅れって言ったのは、あれがもう人として死にかけてるって事」
死にかけてるだって?
彼女の急な主張に、俺の息が一瞬止まる。あまりにも唐突に彼の命の危機を訴えるものだから理解が遅れてしまった。薬袋の言う事だから、恐らく俺の目には見えない何かを見たのだろう。彼女はそういう類のものが見える力がある。こうしておかしな事を言い出すのも、そうした何かを見た結果なのだ。
薬袋は、少し話が変わるけど、と前置きをして話し始めた。
「あんまり言うべき事じゃないかもだけど、日本という特殊な国で宗教に嵌まるような人間は、精神的な面で何か問題がある人が多いんじゃないかと思うんだよね」
「日本が特殊?」
「そうだよ。大抵の国にとって宗教とは日本で言う道徳や倫理に近いものなんだ。だから宗教を信仰するという事がが当たり前なんだけど、でも日本は違う。そうした宗教的な要素が文化や習慣になっているんだ。だから信仰をしないんだよ」
その言葉に納得を覚える。確かに、日本は本来、宗教的要素が強い筈のものが文化や習慣として扱われる。それにそうした文化は、自然物に霊や神が宿るというアニミズム要素が強くあるのだ。
例えば八百万の神々といった多神教の考えも、その要素からの発展だと思われる。また、様々な神や宗教的要素を文化と取り込んでしまうのは、多神教が基盤となっていると考えられるだろう。
こうして、神の扱いが文化として馴染んでしまった日本では、海外で主に有名な一神教の宗教とは相容れないものがある筈だ。
「日本の文化に対して、一神教の教えは馴染み深くない筈だよ。だから、日本人は宗教を好まない。しかし、それでも、ああいう人達が日本の文化ではなく、敢えて宗教に手を出すは、日本の文化では救われないと感じてしまったからなんだろう」
なるほど、日本の道徳倫理では彼等を救い切れなかったのだ。決して日本の文化が劣っているという訳ではない。恐らく海外でも似た様なことがある筈で、そうして社会からあぶれてしまった者達が次に救いを求める先が、日本の場合はたまたま宗教が当て嵌まりやすかったというだけなのだろう。
「でもね、日本のように弱者ばかりが集まった宗教は業が深い。社会から疎まれた者達の嘆きや宗教を金稼ぎに使う奴等の強欲さ、その被害者達の恨みつらみ。そういう悪感情は、いつか別の信者達に向かうんだ」
薬袋が彼を指差した。食べ終わった食器を返却口に置き、とぼとぼと歩く姿には生気がない。その顔をよく見ると、全くの無表情で先程までの落ち込み様が信じられない程だった。
「あれがその末路だよ。入信して上手くいく人達も勿論いる。でも、それは元から心が強かったり、支えてくれる人とかがいたりする場合だ。大抵心が弱っているうちに、さっき言った業というか、負の感情の塊に侵食されていくんだ。あいつはもう大分中身がやられている。もうそろそろ人じゃなくなるよ。可哀想だけど抜け殻になる」
彼が食堂から出てきて、俺達とすれ違った。確実に俺の事に気付く距離なのに、何も気にしない様な素振りで、俯きながら歩いて行った。それは俺とのやり取りからの気まずさからくる様な態度ではないのは明白だった。明らかに俺が視界に入っていない様な、ただ歩く事だけを命令された無感情な機械にも似た様子だった。
俺は、彼の目も当てられない程の変貌ぶりがひどく恐ろしかった。同時に、薬袋がそんな彼に対して何を見ていたのか、知りたくなった。
彼女は俺の知らない世界を見ている。それは世界の本質とも言えるものなのだろうか。
「なあ薬袋、お前は何を見ているんだ」
俺は絞り出す様にして、薬袋にそれを尋ねた。薬袋はその問いに対して俺の方など見向きもせず、ただ去り行く彼の姿を捉えながらこう言った。
「知らない方がいいよ。あれは醜すぎる。」
不意に、彼の姿に黒い靄の様なものが纏わりついているような気がした。いや、それは一瞬だったが、確かに薄らと見えたのだった。何故見えたのかは分からない。薬袋と力に影響を受けたのだろうか。
それにしても、あれがその醜いものの片鱗なのだろうか。ただの黒い靄にしか見えなかった俺にはそれが醜いかどうかの判断はつかなかった。一体彼女は、あれがどう見えているのだろう。自分と彼女の見ている世界があまりにも異なる事を今更ながら実感する。
彼女は、知らない方がいいと言った。あれは醜いものだからと。それでも知らない方がいいなんて言われたら知りたくなるに決まっている。
例え世界の本質がどんなに醜かろうと、俺はあれらを覗き見たい。そればかりを、今はただひたすらに感じていた。
数ヶ月が経ち、うちの大学近辺で学生が飛び降り自殺したというのを噂で聞いた。宗教にのめり込んで、どこかおかしくなってしまったという。
多額の借金までして献金していたらしい。そうして闇金などに追われ、生活もガタガタになりそれを苦にして命を絶ったとの事だ。まあ、所詮は噂なので真偽は定かではないのだけれど。
それでもその噂が立ってから、うちの大学では宗教の勧誘はめっきり減ったらしい。果たして、これを平和と呼ぶべきなのだろうか、それともただ弱者が淘汰されただけなのか、俺は未だにその答えを持ち合わせてはいない。
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