後編
日が沈んで下校の放送が流れて、それから更に30分もすると、校舎の中は怖いくらい静かだ。帰りたくなくて教室で自分の席に座っていたけど、見回りの先生に見つかって追い出され、トボトボと生徒玄関に向かう。下駄箱で靴を取り、上履きと履き替えていると、外から誰かが近づいてきた。
……宮崎くんだ。
「加納さん」
宮崎くんはいつもみたいに土下座しなかった。ニコニコして、ちょっと照れたように頬とか頭とかを掻いたりして、私を見ている。口が開いたり閉じたりして金魚みたいだけど、あー、とか、そのーとか、そんな声しか出てこない。
「その、ごめん、待ち伏せして」
「……うん」
彼がやっと出した言葉を、否定はしなかった。だって晴菜とかいろんな友達から「宮崎くん下駄箱に立ってるよ!」ってLINEがたくさん届いた。みんな面白がって「いよいよ学校の中心で愛を叫ぶぞ」なんてからかうだけで、本気で宮崎くんに会いたくない私を助けてくれなかった。学校を出たらバス停まで歩いて、電車にも乗るから、上履きで帰るわけにもいかない。宮崎くんが諦めてくれないかと教室で時間を潰したけど、それも無駄だった。
「帰り、どっち方向? 一緒に帰っていい?」
「……ダメって言ったら?」
「うーん。後ろついてくかな」
「……D駅の方。バス」
「了解、自転車取ってくるから先行ってて!」
もうどこの明かりもついていない校舎に、私ののろまな足音と、宮崎くんが自転車の鍵を開ける音が妙に大きく聞こえる。
「お待たせ!」
「……うん」
宮崎くんは自転車に乗らずに押して、私の横に並んで歩き始めた。
「昼間めちゃくちゃびっくりした、A列車弾いてるとこに加納さんくるから」
「……そう」
宮崎くんはテンション高く早口で続ける。
「学校のピアノ、グランドだから時々こっそり弾いてたんだ。放課後は音楽室は吹奏楽部とか合唱部が使っちゃうだろ」
「……うん」
「加納さん、ほんのちょっとだけど歌ってくれてマジ最高だった! 絶対ジャズ向きだって!」
気が付いてた、宮崎くんはみんなの前で土下座はするけど、その理由は言わないでいてくれたことに。ジャズセッションしてくれなんてあの場で言ったら、友達が先に盛り上がって断れなくなっちゃう。だから告白だと勘違いされても「お願いします」しか言わなくて、私自身の意志で決められるようにしてくれてたんだ。
そんなの、最初から、分かってた。
「……あのさ」
呟きが鼻先で白く曇る。冷たい夜風に当たっても顔が熱い。
「なんで私? 頼むならエリカとか、もっと適役がいない?」
「藤野さんも上手いけどさ、ソプラノだし、合唱が上手いってことで、ジャズ向きじゃないよ」
歌が上手くて美人な部活仲間は、あっさりと選外にされてしまった。
「ジャズ向きって?」
「加納さん、ソロ歌いながらフィンガースナップしてたから。下の方で目立たないようにしてたけど」
「えっ……してた?」
「してたしてた」
「やば、やめなさいって先生に言われてるの」
「マジか」
「やば、どうしよう」
慌てた私を、宮崎くんは合唱はそういうもんだよなあと笑い飛ばした。
「ジャズなら、フィンガースナップしてる方がカッコいいよ、絶対」
「……すぐそこにつなげる」
ソロの時にフィンガースナップしてたってだけでも恥ずかしいのに。私が大袈裟にため息をつくと、宮崎くんはごめんごめん、と軽く謝ってきた。そんな言い方、全然心がこもってない。
「それでさ、A列車知ってるの?」
「え……」
「歌詞、ちゃんと歌ってたからさ。本当に歌ってくれるとか思ってなかったし」
やっと収まったはずの動悸がまた胸に舞い戻ってきて、私は宮崎くんから視線を逸らした。どちらも何も言わないまま、私達は校門を出る。あたりはもう暗くて、宮崎くんの自転車のライトの頼りない光が道を照らしている。宮崎くんは嬉しそうだけど何も言わない。無言がどんどん重くなってきて、私は根負けして口を開いた。
「……パパがジャズが好きで」
お父さんって言えばよかったかも。
「A列車もよく聴いてたから、私も何となく覚えたかな。でも歌詞全部ってわけじゃないよ」
「へえー! そうなんだ、マジかぁ!」
なんでそんなに嬉しそうなの。
「俺さ、文化祭のセトリは絶対A列車からって思ってるんだよね!」
私まだ、なんの返事もしてないのに。
「加納さんが知っててマジ嬉しい!」
「……私、歌うって言ってないけど」
「あ、いやさ、ジャズの話できる友達いないから、もう話せてるだけで嬉しくて、なんか」
「聞いて知ってるってだけで、歌詞分からないし、歌えないよ?」
「歌詞なんかさ、分からなかったらシュビドゥバとかスキャットにしちゃえばいいんだって!」
私の冷めた受け答えにも、宮崎くんの嬉しさは全然萎まない。私は歌わないんだから、そんなに喜ばないでほしい。もう少し水を差そうと、私はわざと意地が悪そうな声を出す。
「でもさ、A列車ってキャバレーの曲なんでしょ? 学校でやるのはちょっとアレじゃない?」
「あー」
宮崎くんが私を見た。私今どんな顔してる? ちゃんと不機嫌に見えてるかな。宮崎くんは落ち込むどころか、ニヤーッと満面の笑みを浮かべる。
「確かにキャバレーだけどさ、昔のキャバレーなんだよ。今のキャバクラとかとは違うわけ」
「……ふうん」
「スマホとかインターネットなんてなくてさ、テレビも高くて白黒でさ、そんな時代に、都会のシュガーヒルでスターたちが歌って踊るショーを、オシャレしてA列車に乗って観に行くわけだよ。みんなウキウキなわけだよ」
「ふうん」
「だからキャバレーは、シンデレラのお城の舞踏会みたいなもんでさ、A列車はカボチャの馬車で、歌手は魔法使いだと思うんだよな」
「馬車?」
「そう、馬車。みんなシンデレラになろう、A列車に乗って舞踏会に行こうって」
「何それ」
「想像してみてよ、自分の歌でみんなに魔法をかけるとこ。はいこれ」
宮崎くんにひょいと手渡されたのは、ワイヤレスイヤホンの片割れだ。宮崎くんはニコニコしながらもう片方を自分の耳に入れている。仕方なく私もイヤホンをすると、予想通りA列車が聴こえてきた。
[~~~、……~~~、’A’ Train……♪]
二人とも何も言わず、バス停までをノロノロと歩く。半分が静かで、半分が賑やかだ。A列車がカボチャの馬車だなんて、よく思いつくな。キャバレーじゃなくてお城の舞踏会かあ。シンデレラになるなら急いでね、A列車が一番早い……。音楽は賑やかで、楽しそうで、つい指先でリズムをとってしまう。
これを私が歌うなんて、出来るの?
私の歌と宮崎くんのピアノだけで、みんなに魔法をかけられる?
モヤモヤしているうちに、バス停に着いてしまった。バスは行ったばかりでしばらくは待たないといけない。だけど宮崎くんは、バス停につくなり「考えてみて」とイヤホンを回収してしまった。自転車に乗って走り出したかと思うと、すぐそこの角を曲がって見えなくなってしまう。
「…………もう」
これだから男子って。
一人なんだから、バスが来るまで待っててくれてもいいじゃない。
「~~~、……~~~、’A’ Train……♪」
呟きは白く曇ったけど、シンデレラの魔法が解けるみたいに鼻先であっという間に消えてしまう。
私が、ジャズを歌うなんて。
「~~~、……~~~、 Harlem……♪」
まだ余韻がある、片方だけの音だけじゃ足りない。頭の中に残る昼間のピアノだけじゃ足りない。パパのカーステレオだって足りない。今この瞬間、それこそ魔法の粉が降りかかるように、私を包んでくれないと。
「~~~、……~~~、’A’ Train……♪」
気がつくとまた無意識にフィンガースナップしていて、慌てて我に返った。私、歌ってた? 声に出てた? でも夜の住宅街のバス停で時々車が通るだけだ、誰も見てなかった、よね? そっと辺りを伺っても、動くものは何もなかった──と思ったら、角から何かが出てきた。
「…………なに?」
宮崎くんが曲がって行った角から自転車が出てきた。でもなんか光ってる、自転車がピカピカ色とりどりに光ってる! あれはクリスマスツリーにつけるライト、まだハロウィンも来てないのに? ピカピカ自転車は、だんだんこっちに近づいてきて私の目の前で止まった。
「A列車でお迎えに来ましたよ、シンデレラ」
ライトに照らされた変な色の宮崎くんが、ニカっと笑う。
「駅まで乗ってきなよ!」
「…………ぶふっ!」
我慢しきれなくて私は吹き出した。そうするともう止まらなくて、お腹がよじれて涙が出るほど笑った。
「あははははは、なにそれなにそれ、バカじゃないの!」
「派手でいいだろ?」
「そこ、曲がって、ちまちま巻き付けてたの?」
「うん、びっくりするかなって」
「びっくりって言うか! もう!」
笑いの波は止まらない。ライトが無邪気にピカピカして、宮崎くんの顔色も変わるのを見ていると、もうその場にしゃがみ込んでしまいそうだ。
「電気、ずっと、学校に持ってきてたの?」
「うん、思いついてからは毎日」
「嘘でしょ……くく……」
「送ってくからさ、後ろ乗りなよ」
「やだ、そんな派手な自転車、二人乗り見つかったら怒られるし、くくく」
「どうせ通るとこ田んぼばっかりだから誰も見てないって」
宮崎くんは笑いながら、私の手から鞄を取って、自転車の前カゴに入れた。
「さ、行こ、シュガーヒルへ!」
宮﨑くんが相撲みたいに私を自転車の方に押していく。それも可笑しくて笑い続けながら、気付いたら自転車の荷台に座ってしまった、完全に空気に流された。サドルにまたがった宮崎くんにしがみついてもまだ肩が震えている。自転車は走り出し、空気は冷たくて、電気はピカピカしている。二人の吐く息が、汽車の煙みたいに後ろに流されていく。A列車は地下鉄だっけ、と思った頃、宮崎くんがハンドルを叩きながら歌い始めた。
「ゆぅー、まーてぃじ、えーとれぃんー」
あの下手くそな歌い方だ。
「とぅー、ごしゅがひるうぇーはーれー」
なんだかそれだけでまた笑えてくる。
「~~~、……~~~、’A’ Train……♪」
気がつくと、私も歌っていた。
「~~~、……~~~、 Harlem……♪」
背中を叩いてリズムを取ると、宮崎くんがひゃあ、と変な声を出す。
『Hurry, ~~~、……~~~、……♪』
宮崎くんと私の声が重なる。
『Listen ~~~、……~~~、……♪』
何さ、宮崎くん、やっぱり歌えるんじゃん。
『All aboard! 』
掛け声もぴったり合わさって、駅に着くまで二人してずっと大声で歌っていた。外灯がついてるだけの田んぼ道がキラキラして見えたのは、クリスマスライトのせいだ。二人の声とハンドルと背中を叩く音しかないはずなのに、ピアノやトランペット、サックスにウッドベースにドラム、それからたくさんの拍手が聞こえた気がした。シュガータウンに行く人はみんな、こんなにウキウキした気持ちなんだろうか? 私ももう魔法にかかってる?
駅まで永遠にかかるように思えたけど、着いてしまうとあっという間すぎて拍子抜けした。
「じゃあ……」
自転車を降りて久々に宮崎くんの顔を見ると、鼻が赤くなっている。それを見てまたクスクス笑ってしまったが、宮崎くんも同じように笑い返した。
「ありがと、乗せてくれて」
「うん」
何か言いたそうな、でもそれ以上にさっきの余韻に浸っている、宮崎くんの顔。私は少し躊躇って、それから両手を握りしめた。
「……あのさ」
「……うん」
「歌が下手なふり、やめてよね」
「バレたか」
「バレるよ、私合唱部だよ?」
「そうかあー」
宮崎くんはあははと笑った。彼の自転車はまだピカピカしていて、駅に向かう人がチラチラとこちらを見てくる。
「あのさ」
「うん」
通りすがりの人も、宮崎くんも、今私を見ないで欲しい。どんな顔をしてるのか、自分でも分からないから。
「……合唱部、水曜休み、だから」
「え?」
「またね!」
もう無理耐えられない、私は駅の改札に向かって走り始めた。顔が熱い。宮崎くんが「マジで、やった!」と叫ぶ声が遠くなる。改札に定期を叩きつけて、階段を登って、ちょうど来た電車に飛び乗って。空いていた席に座り込んで、鞄に顔を埋めても、顔が赤いのも心臓が口から出そうなのも治りそうになかった。ちょっと返事をしただけで、こんなにドキドキしてるのに。文化祭になったら、私どうなっちゃうんだろう。
「……やっぱり無理……」
私と宮崎くんの歌声が、魔法の余韻のように耳の底でいつまでも響いていた。
#JAZZが聴きたくなる青春小説 金燈スピカ @kintou_spica
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