海街マリアは春を待つ ~neige couleur de lune~
御子柴 流歌
プロローグ
X. きょうかいのしょうじょ
冷静にあの時の事を思い返してみれば、あの光景はやはりいつもと違っていた。
ただひたすらに、呆れ果ててしまうくらいに、いつも通りの日常だった。
だからこそ、俺はその事実に気付くことができなかった。
☆
「……寒っ」
学校の玄関を出た直後、俺の口からそんな言葉が出て行った。
初雪の便りが来て以来となった今日の雪は、節度を良く守った降り方とでも言える程度で幾分かおとなしい。
温泉地としても名高い北国の街である
――もう少しばかり、ニンゲンのことを思って緩やかに寒くなっていって欲しい。
この雪には、雪よりも冷めきった視線のひとつでも送ってあげよう。
11月の下旬。というか、もうすぐ12月。日曜日。部活帰りの夕暮れ時。背中のラケットケースから聞こえる音が妙に耳について聞こえてくる。それくらいにとても静かだった。静かに感じた。
いつも以上に静かに感じてしまうのは、この雪が喧噪を吸い取っているからなのだろうか。
車の通りが多いのは、ここから少し坂道を下ったところを通っている海沿いの目抜き通りくらい。そちらの方を見てみても往来は無さそうだった。
いつもはいっしょに帰る友人も、今日は駅前の方に遊びに行くと言って別ルートだ。
思わず車道のど真ん中を歩きたくなるくらいに、周りには誰も居ない。
本当に、誰も居ない。何も居ない。
本当に、珍しい光景。
この街を独り占めにしているみたいだ。
――街と言っても、ここは住宅街だけど。
あまり細かいことを言っても仕方が無い。
ちょっと気持ちが良くなって、思わず深呼吸。
冴えきった初冬の空気を吸い込んで、今この時の静かさを独りで堪能しようじゃないか。
そう思ったとき――。
――鐘の音が、響いた。
やや南側、山の方を見ればすぐにわかる。
周りの住宅よりも背が高い若葉色の屋根。雪の白さにも負けないくらい白い壁。チープな言い方かもしれないが、ある種の荘厳なオーラを纏っているような、鎮座していると言うべきその佇まい。
教会の鐘の音だ。
観光地紹介の雑誌などでは『異国情緒溢れる風景が広がる』などと称される函咲市の、代名詞的な存在のひとつである教会、復活聖堂。建物の歴史的価値はもちろんだが、『ガンガン寺』とも呼ばれる所以となったこの鐘も代名詞に足る存在にしてくれている。
冬の冴えた空気を包み込みながら、切り裂いていくような強さもあるその音を聴いて。
俺は、足を止めた。
もしかすると、足の方が勝手に止まったのかもしれない。
思わず、と言った具合に止まってしまった。
「……何でだ」
本来ならあの教会の鐘は土曜日の昼過ぎくらいか、もしくは日曜日の朝方に鳴らされるもの。基本的には日曜日の朝に鳴ることのほうが多かった。
今は日曜日の夕間暮れ。冬本番になりつつあるこの季節、日が落ちるのは早くなってきているが、少なくとも朝ではないわけで。
――あの教会の鐘の音は、こんな時間には鳴らないはずだった。
仄暗い不安感のようなものは、ある。無いわけがない。
でも、これを放置したまま寝ることも、きっとできないだろう。
自然と、俺の足は山側へと向いた。
坂道を上り交差点を右に折れると、例の教会がある。重たそうな門扉はいつも通りに開いている。これが閉じているところは見たことがなかった。
敷地の中に入り、誰にも踏まれていない綺麗な雪の上を進む。既に鐘の音は聞こえない。聞こえるのは背中のバドミントンラケットが鳴る音と、雪を踏みしめる音だけ。さっき聞いたのは気のせいだったのだろうかとも思ってしまう。必要以上にひっそりと歩を進めたくなる。まるで忍者。それくらいに、今はまた静かだった。
教会の前を走るこの道はたまにしか通らないが、通れば必ず観光客の姿を見る。今日はその姿もない。そういえば、日曜日の拝観時間は終わってしまっていただろうか。それならば一応、誰もいないのも納得はできる。
壁と同色の扉を叩いてみる。ひとつ、ふたつとノックはするが、中からの反応はない。
でも、なんとなく、気配はあった。
少し迷ったが、扉を引く。鍵がかかっているかと思ったが、音もなく静かに、そして思った以上に軽く開いた。
聖堂は、思わず目の前に手をかざしてしまうくらいに、とても明るかった。電気が点いているわけでもなさそうだが、夕間暮れの外の空気に慣れたせいかもしれない。少し目を細めて明るさの方に慣れるのを待っていると。
「あれ? お客さま?」
かわいらしく、そしてどこか懐かしい声がかけられた。
「もう拝観の時間は終わってるわよ?」
ゆっくりとこちらへ向かってくる人影は、神職の人――にはとてもではないが、見えなかった。
だいたい俺と同い年くらいの、女の子。白いワンピースに身を包んだ彼女は、年相応の笑顔をこちらに向けている。聖堂へずかずかと入ってきた俺を窘めているわけではなさそうだった。
「ああ、すみません。ちょっと……気になったモノで」
「……キミ、いくつ?」
「へ?」
「年齢。歳はおいくつ?」
歳から訊くのか。
「……17ですけど」
「なーんだ、タメじゃん。敬語なんか要らない要らない!」
腕を組んで少し鼻を鳴らした彼女は、おとなしそうな服装とは裏腹ななんとなくいたずら小僧めいたモノを感じた。顔をよく見れば勝ち気そうな雰囲気があって、そのギャップが何だか愛らしかった。
「そっかそっか。名前は?」
「
「ナツキくんね。りょーかい、覚えた。私はユキエ。よーく覚えておくように。二度
と忘れないように」
びしっ!
そんな効果音が聞こえてきそうなくらいに、勢いよく指をさされた。
「ん。……わかった。じゃあ、ユキエって呼んでいいんだな?」
「もちろん! どんどん呼んでよ」
「理由も無く呼べるか」
「え? 別にいいけど? 私、自分の名前好きだし」
そう言いながら、ユキエは屈託のないキレイなえくぼを作る。
「……そうかい」
心のどこかに引っかかりを覚えつつ、ユキエには苦笑いを贈ってやった。
「ユキエは何でこんなところに?」
「んー……」
虚空に視線を向けるユキエ。何となく察する。
「それはどっちかというと、ナツキに訊きたいことかな?」
そんな気はしていた。私は今から質問をはぐらかしますよと言いたい雰囲気を隠していなかった。
「……何となくだよ、何となく」
「そっかそっか。私と同じだ」
「そうかい」
そう来るのかい。
「……それじゃあまあ、俺はそろそろお暇するよ」
「あら、寂しい」
「だったらまた来てやるよ」
「そうしてもらえると嬉しいわ。……待ってるから」
戯れな会話を交わした俺はこの日は結局そのまま家路へ就き、何事もなくいつも通りに母の作った晩飯を平らげ、ゲームを軽くして、いつもより30分くらい早めに就寝した。
ユキエと出会うという予想外の出来事はあったし、いつもはあんな時間には鳴らないはずの鐘の音については結局謎のままだったが、心地穏やかに眠れたのは良かった。
☆
いずれにしても、この日は明確に分岐点だった。
結局のところ、この出会いは必然であり運命だった。
そして、別離さえも必然であり、運命でもあったんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます