第9話
知花は駅のホームを出ていた。
ぼんやりとうつろな思考のままにも、体は自らの指定する通りに動いた。指定――そう音にして打ち消した。細胞が呼んでいるのだ。そう、思いたかった。
インターフォンを鳴らすと、オートロックの玄関が開いた。知花は階段を上がり、部屋へ向かう。
扉は開いていた。不用心な行為は、知花への許容と信頼だった。
秋穂さんは窓の方を向いていた。「いらっしゃい」は無い。そのまろい背中が、知花を待っていたことへの証だった。
「秋穂さん」
秋穂さんは振り返らなかった。けれども、知花の言葉を受け取っている。そしてやはり、待っていた。知花の言葉を。
「私、彼と昨日セックスしたの」
体中が羞恥、その開放に強張った。
「彼の前で裸になって、全部、明け渡したわ」
既に失われたはずの少女の錠が今、血を流していた。その一言を秋穂さんに言うことこそ、知花にとって、自らの内側を破り、さらけ出す行為だった。
秋穂さんは何も言わなかった。けれども、果てない充足をその身に受けている。眩い日差しを外より受け、輪郭だけが冠のように光る。
知花は秋穂さんにかけより、その後ろ姿にかじりついた。温かな肉体。それは、秋穂さんの温度ではなく、受ける日光のもののような気がした。
知花の目からこぼれ落ちた涙が、秋穂さんの黒のカットソーに染み入る。
秋穂さんはその時はじめて、小さく笑った。
「素敵だったでしょう?」
ただ一言だけ。けれども、知花の心を刺し、また温めるには十分の言葉だった。知花は頷く。秋穂さんにすがりついたまま、首の関節を壊すように頷き続けた。秋穂さんは、知花の手に、自らの手を重ねる。溶け込むように、秋穂さんの手は知花のそれと同化した。
「よかった」
秋穂さんが微笑んだのが、その声音だけでわかった。知花は、自分の手を撫でて欲しかった。自分の肌を、自分のものだと――秋穂さんの肌を、感じたかった。
「彼は、ぴったりだと思っていたのよ」
秋穂さんの言葉は、空に浮かぶ、幸福な泡のようだった。光を受けて、きらきらと光る。
ぴったり。それは、私に? それとも――
知花はそこで独白を打ち消した。そうして、慎重に言葉を選び取る。
――そう、ぴったりだった――私たちに。
知花は心を慎重にその言葉にのせた。そして心の芯に力を入れ、些細なぐらつきを感じないようにした。
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