第5話

 鏡に映る自分の姿を、知花はじっと見つめる。ストレートの髪は、肩甲骨まで伸びている。櫛を通さなくても絡まらない髪を、それでも丁寧にとかす。差し込んだ陽の光が、知花の髪を透かす。色素の薄い髪は明るさを増し、レモンをいれた紅茶そっくりの色になる。生まれつきの色だ。秋穂さんは、知花の髪が好きだった。秋穂さんは知花の髪をひと房、手のひらで遊ばせる。それは時折、先生や同級生ににせもの扱いをされることもある。父の髪の色は黒だから、そのせいもあったのだろう。知花はその度に、居心地が悪い思いをした。だから秋穂さんと髪の話をしなかった。しかし、秋穂さんはある日、知花の髪をすきながら「もとから?」と聞いた。知花は身をすくめた。どうにか、そうだと答える。うそつき扱いをされるのは嫌いだった。秋穂さんは、知花の緊張を知った様子もなく、「そう」と小さく返した後、


「きれいね」


 そう何気なく言葉を溢した。知花の髪を、世界で一番、誰よりも綺麗と思っている。そんな顔で。それから知花は、パーマをあてなければアレンジもままならないほどの直毛を、ずっといじらず、変わらずに、この長さを保っていた。それが、誇らしさからではなく、秋穂さんが望むからに変わったのは、セーラー服が身に馴染んだ十四の初めだった。

 顔を洗い、化粧水をつけて、テーブルの上に立てた鏡の前に座る。銀色で四角い、シンプルなデザインのそれは、折り畳み式で、秋穂さんがくれたものだ。鏡だけじゃない。目覚まし時計も、化粧水、服に至るまで、知花にまつわるものは秋穂さんが与え、または選んだものだった。

 秋穂さんは何でも知花に与えたがった。あげるという行為自体に、喜びを感じているようで、その分断りづらかった。それでも、貰うことが続くと気が引けたし、父に対する言い訳も続かなかった。知花の父は、仕事で家をほとんど空け、生理ナプキンが家に自然に生えてきているとでも思っているような人だった。けれど、それでもやはり親だったのだ。何気ない会話の中で、今気づいたように「あんなもの、あったか」と秋穂さんのくれたものを指して知花に聞いた。その度、知花はいつも後ろめたくなった。知花もまた彼の娘でありたかった。そして何より、ものが欲しくて会っていると思われることがいやだった。父に、秋穂さんに。これは知花の心の為に、一番重要な事がらだった。それでも、断るのは胸がいたい。だから、最低限で済ませる為に、知花は買えるものは自分で先回りして手に入れた。そして、――これが一番大切なこと――与えられた分だけ、秋穂さんの望みを叶えることに決めた。実際、秋穂さんは与えたがるだけでなく、知花にいろんなことをさせたがっていた。

 秋穂さんに要求をはっきりと口に出されることは少なかった。どうしてもさせたいもの以外は、口調や目線の僅かな変化でのみ、表された。知花はそれを読み取ることに努めた。中学では陸上部に入り、高校では生徒会をした。秋穂さんの家ではピアノを習った。

 苦痛はなかった。と言えばうそになる。知花は走ることは得意でも、陸上は好きではなかった。人前で何かすることは平気でも、人をまとめることは嫌いだった。けれど、願いを叶えた知花を秋穂さんは見つめた。嬉しさでは小さく、幸福ではやさしすぎる凄まじい熱量のこもった目でもって。それだけで、知花はそんな苦痛を、すべて忘れることができた。

 知花は高校を秋穂さんの家の近くに決めた。秋穂さんもそれを許してくれた。家に帰ってもどうせ、一人だから。期待、喜びを言い訳めいた口調に隠して、知花は秋穂さんのもとを何度も訪れた。秋穂さんはあまり知花の家に訪れたがらなかった。

 知花は、秋穂さんを誰より近くに感じ、時に自分より近く感じていた。その感覚は知花をとても充足した心地にさせるので、とても好きだった。知花は、秋穂さんのことをほとんど知らなかった。ただ秋穂さんがいれば、知花の中はそれだけでいっぱいになった。秋穂さん、それですべて完結している、そんな気がした。何も知る必要なんてない、そう思える自分をどこか誇らしくも感じた。それでも時々、隣で紅茶を飲む秋穂さんを見ていると不思議な気持ちになった。すべてわかっているような、全くわかっていないような。いつもとは全く別のものを見ている気持ちになった。どこから生まれる気持ちかはわからない。その時、無性に知花は、秋穂さんに触れたくなるのだった。髪に、肌に、秋穂さんをかたどる表面、それよりもっと奥深くに。


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