第3話

「あきほさん」


 なまえはなんていうんですか。自分の名前と、その問いを口にしたのはいつか、はっきりと覚えていない。ただ、その時の、彼女の表情だけは覚えている。当時はわからなかった。まだ感情の種類なんて知らなかった。だからただ、変な顔だと思ったのだ。そして、やっと手に入れた彼女の名前に知花は夢中になった。


「あまり名前は呼ばないで」


 私もあなたの事は、呼ばないから。知花は、宝石を唇から溢すように、彼女の名前を呼んでいた。数回目の宝石が、零れた後のことだった。払いのけるような声が、それを叩きつけた。粉々に壊れて地面に落ちた。知花は、びっくりしてしまった。打たれたのは、宝石ではなくて、自分のように感じた。秋穂さんは知花の方を見ておらず、ショートカットの毛先が、彼女の横顔を隠していた。

 無言だった。暫く互いに。動かしたのは秋穂さんだった。いつものように黒の髪は、彼女について揺れた。秋穂さんは眉を下げ笑った。とても困っているのだという顔だった。


「ごめんね」


 そう言って、いつものように髪を撫でた。知花は、何も考えずに頷いた。笑ってくれたのがうれしかったのだ。知花が彼女を秋穂さんと呼ぶことを許してくれたのは、しばらく後のことだった。以前の痛みを忘れたように、知花は取り戻した宝石を、大切にした。彼女が、知花のことを名前で呼ぶようになることは、もっともっと、ずっと後になってもなかった。

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