第2話
「あなたは、この家の子?」
そう知花にかがんで尋ねた妙齢の女のひと。黒い服を着て、薄紅の雲を背中に背負っていた。彼女の周囲は霞んでいるようで、知花はその光景を、薄く口を開き見つめていた。ランドセルの肩ひもが知らず握られた。雲からは時々雫が落ち、それが彼女に触れ、時にすり抜け、知花の視界に降りてきた。彼女の肩に、知花の手のひらに落ちたものを見て、ようやくそれが桜の花びらと気付いた。満開のそれを喜んだ日は、そう遠くないはずだった。細い体をかがめているせいだろうか。彼女の体は時々揺れ、その度にまろやかな形の頬を、黒い髪が撫でていた。
頷くのが、精一杯だった。喉の奥で「はい」がつぶれ、蝶番の不快な音のようになる。知花は赤面し俯いた。人見知りなど、今までしたことがなかった。
「そう」
彼女は微笑んだ。何も気づいていない、というより、気付いたうえでの微笑だった。喉の奥で、小さくくつりと音を立てる。そんな笑い方をする人を、知花は今まで見た事がなかった。
「かわいいのね」
伸ばされた手のひらが、知花の頬を撫でた。青みがかった乳白色の手は、しっとりとやわらかく、仄かにひとの温度がある。知花の体が小さく跳ねた。
「びっくりした? ごめんね」
手を知花の頬から離した。代わりに、知花の頭を撫でた。髪を撫でつけるように、かたちを確かめるように、何度も、何度も。知花は彼女の口元と、ふわふわと動く手首を見ていた。ただ、ぼうっとしていた。
気付くと、知花はそこに一人立ち尽くしていた。その人がいつ、自分のもとを去ったのか覚えていなかった。彼女の後姿の残像が、瞼の裏に残っている、そんな気がするだけだった。
それから、彼女と知花は遭遇するようになった。彼女は何も言わず、知花の頭を撫でた。名前は聞かれることはなかった。知花は、彼女の名前も聞くのを、長い間忘れていた。
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