フォール

小槻みしろ/白崎ぼたん

第1話

 私はわたしがおかしいことを知っている。朝、瞼を開き、身を起こしたとき、そんな言葉が知花ちはなの意識と共に、ふと浮き上がった。

 いつもは、ただ一人のひとの名前が浮かぶのに、今日は違う。些細な変化。しかし、その些細な変化が知花の心の地盤をわずかに揺らした。今日は一体どうしたんだろう。カーテン越しの朝の陽光を横顔に受けながら、漠然とした不安に襲われた。


「秋穂さん」


 確かめるように、名前を呼んだ。いつものように、その前の自分の行為を塗り潰す様に、声を出して、形に変えた。胸に穏やかな熱が、じわじわとこみ上げてきた。その感覚は、寸分たがわずいつものものだった。その瞬間、知花は人知れず頷いた。小さく息をつく。

 支度をするため、ベッドから出た。足がしびれていたのだろうか。知花はほんの少しバランスを崩し、たたらを踏んだ。二、三度確かめるようにカーペットを足で撫で、改めて足を踏み出した。今度はちゃんと歩くことができた。


「あきほさん」


 その五音を、息をするように知花は声で、心で形にした。名前をなぞるのは、呼ぶという行為になる。けれど、知花は呼んだつもりはなかった。心にいつもある、いやむしろ、心すべてが秋穂さんなのだ。知花の心は秋穂さんの――秋穂さんそのものだった。離れずそこにあるものを、どうして呼ぼう。知花にとってこれは、時々確認するようになぞることだった。知花はずっと、一人の人に自分を捧げている。文字通り自分全て、捧げている、そう信じている。知花はそれを至極当然のようにとらえていたし、それをしない自分というものを想像したくなかった。


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