第9話薔薇は悪夢から目覚める

 暗闇の中アラベラは目を覚ました。

 明かりのついていない部屋、でも気に入りのポプリの香りですぐ自室だと気付いた。


 ずっと悪い夢を見ていた気がする。

 ベッドに横たわったままアラベラは息を吐く。自分の意思で。

 こんな簡単なことが長い間出来ていなかった。

 いつからかアラベラの体を動かすのは理性でも感情でもなく衝動だった。


 常にサディアスの傍に居たい、愛されたいという欲望。

 心ではそんなこと全く思っていない。けれどアラベラの心はどんどん小さくなって闇に沈んでいった。

 体は常にサディアスに会いたくて仕方が無かった、彼と少しでも離れると苦しかった。

 彼の声が聞きたくて、自分だけを愛して欲しくて、この世の誰よりも優先すべき存在になった。

 その為ならなんだってできるとアラベラの脳は認識した。


 でもそれはアラベラの心が望んだことではない。

 けれど心は無力で、自分の体なのに何一つ思い通りにはならなくて。

 父や兄や妹たちの悲し気な瞳にすら何も思わなくなっていて。

 砂よりも小さくなった心は何も出来ないまま、アラベラの中から消えてしまいそうだった。

 

 けれどそれをあたたかな手が掬い上げてくれた。

 深い海の底に重い鎖をつけられ沈んでいたアラベラを引き上げて、呼吸させてくれた人が居る。


 アラベラはゆっくりと身を起こした。

 そういった動作を意識して行うのも随分と久しぶりだ。

 今までの自分の行動を思い出そうとする。難しかった。

 無理やり思い出そうとすると頭が酷く痛んだ。痛いのはもう嫌だ。苦しいのも。

 それだけは覚えている。アラベラはずっと苦しかった。死んだ方がましな位に。


 気が付けば涙が頬を伝っていた。でもそれは幸せなことだ。

 だってこうやって静かに泣くことすらできなかった。

 自分の意思が、感情が素直にこの体を動かす。ずっとそれが出来なかった。何故かはわからないけれど。 


 泣きながらアラベラは思い出そうとする。自分の身に起きたことを。自分の体が何をしたかを。

 切れ切れに浮かぶ不快な光景、思い出したくもない声。


 ああ、わたくし、サディアス殿下のことがこんなにも嫌だったのだ。

  

 アラベラは初めてその感情を明確に自覚した。

 あの王太子はこちらの人格や気持ちなど一切無視して奪うことだけをしようとする。

 それが許されると本気で思っている。アラベラに何をしてもいいと。

 婚約者だというのに話が通じなさ過ぎて同じ人間だとは思えなかった。

 彼もアラベラを自分と同じ人間だと思っていないだろう。


 サディアスは自分と国王以外の人間は全て己に跪くべきだと無邪気に信じ込んでいる。

 彼に対する嫌悪感がアラベラに吐き気を催させた。不快感に涙だけでなく冷たい汗も出てくる。


 救いを求めるアラベラが思い出したのは、銀色の光だった。

 赤い、血潮のような瞳は優しかった。優しくそっと握られた手はあたたかかった。


 そう、今のように。


 アラベラは暗闇の中、自分以外の体温に気づく。

 右手の先にそれはあった。先程思い出した見事な銀色の髪も。


 ベッドの端にうつ伏せて眠る青年はアラベラの手を握っていた。

 そうしないと彼女が消えてしまうとでもいうように。


「貴男がわたくしを、助けてくれたのですか……?」


 アラベラはそっと言葉を発する。

 彼から与えられるぬくもりは真冬の森で見つけた焚火のようだった。

 

 アラベラが無言で見つめていると、青年の銀色の睫毛が震える。

 ナヴィスにはこんな美しい銀色の髪と睫毛を持つ人間はいない。


 アンドリュース公爵家の令嬢として、そして王太子妃として教育を受けていた彼女は相手の正体に気づいていた。

 この男性は恐らくヴェルデン王家の人間。

 今は瞳を閉ざしているが、それが美しい赤色をしていることをアラベラは知っている。

 そんな彼に剣を抜こうとしていたサディアスを必死で止めたことを思い出す。

 王宮内の一番豪華なダンスホール。そこから続くバルコニーにアラベラはこの青年と立っていた。

 しかし何故己があの場に居たかは思い出せない。


 誰かに連れてこられた気がするが、それが何者かは記憶に無かった。

 アラベラがうっすらと覚えているのは、自分を掴む手の熱。

 そして神秘的に輝く銀色の髪。

 こちらを見つめる紅玉のような瞳。

 彼に守る様に引き寄せられ、間近でその声を聞いた。


「いい加減にしろ」


 低く、威厳のある声だった。静かな怒りに満ちたその声を何故かアラベラは嬉しいと感じた。

 やっと気づいてくれた。やっと止めてくれた。

 やっと、誰かが彼を叱ってくれた。自分以外の誰かが。


 その時アラベラは何年も王太子と大人たちの間に立たされ続けた自分が救われる気がした。

 国王は自分が息子に嫌われるのを恐れていた。

 教育係や臣下たちはサディアスの機嫌を損ね立場に傷がつくことを恐れた。

 わたくしだって、ずっと怖かったのに。


 もっと、早く恐怖を口にすればよかった。国王陛下には無理でも、父には訴えるべきだった。

 サディアスに襲われて、もうこの人とは無理だと絶望を抱えてやっと話すことが出来た。

 アンドリュース公爵家当主である父は、婚約解消を嘆願してくれたけれど無理だった。

 それでも躾を許されない猛犬のようなサディアスと暫く距離を置くことが許されてアラベラは心底ほっとしたのだ。

 一時的な逃避に過ぎなくても、本当に嬉しかった。


 なのに、何も覚えていない。まるで何年も眠り続けていたように。

 鮮やかな記憶は目の前の青年の事だけ。

 彼はサディアスに怒り、そして普段は暴君そのもののサディアスは癇癪を我慢し必死に言い訳をしていた。

 それは相手が自分よりも身分が高い相手だったからだ。


 なんだ、相手次第でちゃんと我慢できるんじゃないか。

 ぼんやりとした意識の中、そう虚しくなったのを覚えている。

 でもサディアスの我慢は続かず、剣を抜こうとしたので結局アラベラが止めることになった。

  

 お止めくださいと、言葉を発した途端に叫ぶことの出来ない程の激痛が走った。

 心臓や眼球、体の柔らかな部分全てに鋭利な爪を立てられたような痛みだった。

 それでもサディアスを必死に制止した。

 ナヴィス国の公爵令嬢としてとして、サディアスの婚約者として。

 彼の行動は決して国の意思では無いと、明示する必要があったから。


 そうでなければ、従属国であるナヴィスが宗主国であるヴェルデンに反旗を翻したことになる。

 だって、サディアスが斬ろうとした相手は。


「ヴェルデンの誇り高き銀狼、オスカー・フォン・ヴェルデン……」

「呼んだか?」


 殿下と続けようとしたアラベラの声に別の声が割り込む。

 眠っていた筈のオスカーは柔らかな笑みを浮かべアラベラを見ていた。 

 

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