第8話 母親とナイフ
暇堂さんにお世話になって一か月が経った。
もう五月が始まっている。
はやいなぁ、四月の初めに路頭に迷いかけたのがウソのようだ。
会社の倒産に感謝、というのもおかしいけど、そのおかげで今わたしはここにいることが出来る。それは、とてもありがたいことだ。
暇さんと過ごす暇堂の日々は充実していた。相変わらず見習いだけど、最近は時々暇さんがわたしに意見を聞いてくれたりもする。暇さんいわく「他の人の視点からのお悩み相談も必要だからね」とのことだ。
お客様からも好評をいただいて、わたしももっと頑張ろうという気持ちになる。
ある日の和室での営業中、暇さんが珍しいことを言った。
「都子君、ちょっと出かけて来たいのだけど、良いかな?」
「営業時間中に珍しいですね、かしこまりました。お店は閉店中にしておきますか?」
「いやいや、君は優秀なお悩み相談員見習いだよ。もしもお客様がいらっしゃったら都子君が対応してくれたまえ。もし手に余るようなら、僕が戻るのを待ってもらって」
わたしはひとりでお留守番!?
とっても緊張したけど、暇さんの任せてくれた気持ちがすごい嬉しい。
だって、ここは暇さんにとって、とても大事な場所のはずだから。
「わ、わかりました! 全力でがんばりますっ!」
「言っただろう。お悩み相談は落ち着いて対処しなきゃいけない。緊張しないでね」
暇さんがイタズラにわたしの眉間を指でもみほぐした。
ああ、もう。暇さんはこういう奇襲が本当に得意だ。
「は、はい。わかりました。落ち着いて、きちんと悩み相談に乗ります」
「まぁ、探偵いわく昼行灯な店だ。そんなに心配はいらないと思うけど。それじゃあ、僕はちょっと行ってくるね。留守番よろしくね、相談員さん」
暇さんがふっと微笑んで木戸を開けて暇堂を出ていった。
わたしひとりで店を開業させている……。
緊張するなと言われても、どうしたって気持ちが固くなる。
「出来るだけ、普段通りに過ごそう」
わたしは掃除をしたり、お茶葉を換えたり、今度の買い出しに必要なものをリストアップしたりして過ごした。
暇さんは、なかなか帰ってこない。ちょっとのお出かけってコンビニとかじゃないんだな。まぁ、だからこそ留守を任されたのだろうけど。
「うーん、あとは何かお仕事残ってるかな。洋室のほうにも行きたいけど、ここを離れるわけにもいかないし」
八畳の相談の間に、生活スペース。出来ることも限られていた。
そんなとき、ふいに玄関の木戸がノックされた。
暇さんのお遊び? 少し待つと、もう一度ノックされた。
(ええっ!? まさか、本当にお客様がやってきちゃったの!?)
焦る内心をなんとか沈め、わたしは努めて落ち着いた声で言った。
「あいていますよ」
迎えに出てもいいけど、ここは暇堂の流儀を通すことにする。
「失礼いたします」
春らしいカジュアルな服装に身を包んだ、二十代後半くらいの女性がやってきた。
キレイな人である。首の真ん中辺りでそろえたショートヘアーの女性。ただ、凛とした印象の奥二重の大きな目の下には、メイクでも隠し切れないクマがある。
「いらっしゃいませ、暇堂へようこそ。どうぞこちらに」
わたしは和室の高級座布団を用意して、女性を誘った。
「お茶をお出しします。暖かいのと冷たいの、どちらが良いですか? あと種類も緑茶、ウーロン茶、宇治茶などいろいろございますけど」
着座した女性は少し考えたのち「ウーロン茶を、冷たいので」と言った。
声は深く沈んでいる。うう、どうやら悩みの種はかなり深そうだ。
わたしがお茶を差し出すと、相談者さんは一口すすり口を開いた。
「あの、ここは悩みを万引き受ける、悩み相談の名店とお聞きしたのですが」
「はい! あいにく店主が今出払っておりますが、助手のわたし、三島都子でもよろしければ、お話お伺いさせてください」
出来るだけ、相手を安心させるように堂々と言った。
しかし女性は「助手……」と呟いた。まぁ、それはやはり気になるだろう。
わたしは女性の顔をじっと見て、声をかける。
「店主に、暇堂にご用件でしたでしょうか?」
「個別にそういうワケでは。ただ、お悩み相談の上手な方とお聞きしましたので」
相談の持ちかけ――。
果たしてわたしに対処出来るのか、それともスマートフォンで暇さんを呼びだすべきか。
しかし、私は任されたのだ。相手のお悩み相談に、チャレンジしてみるなんて精神じゃいけないけれど、今まで暇さんを見て来た経験をフル活用して挑むべきだ。
「そうですね、暇さんはいろいろと博識で敏感、お話達者ですから。あの、私で良かったらお話お伺いしたいです。あ、お客様、なんてお呼びすればよろしいですか?」
「綾峰美咲(あやみね みさき)と申します」
「綾峰さんですね。ちょっと、お疲れですか?」
私が自分の目元を指さすようにして言うと、綾峰さんは弱々しく微笑んだ。
「やだ、隠しきれてませんか? 恥ずかしいな」
うつむいた綾峰さんが、数度深呼吸をする。綺麗な瞳が、束の間物憂げな色を帯びた。
悲しい瞳。
私は、彼女の心の荷物を少しでも下ろす手伝いが出来るだろうか。
「何かとてもとても悲しいことが、あったんですね。背負いきれないような」
私の言葉に、綾峰さんが驚いたように顔をあげた。
「びっくりしました。そんなことまで、わかっちゃうものですか?」
「一瞬だけ、ひどくおつらそうな目の色をしてらっしゃいましたから」
「そういうの、人に気づかれてしまうものなのですね。三島さんが鋭いだけかな」
「いや、私なんてぜんぜん! 恥ずかしくなるくらい、勉強ばっかりの毎日です」
下を向きそうになる自分を苦笑でごまかして、背筋を伸ばした。これじゃあどっちが相談している側かわからない。しっかりしなくては。
「店主の暇さんは所用で出かけていないのですが、もし良かったら今日お話しようとしていたこと、聞かせていただけませんか。私も暇さんに任されてここにいる人間ですから、ちょっとでもお力になれればいいなって思いますし」
「そうですね。きちんとして真面目そうな三島さんになら、聞いてもらいたいかも。でも、話すことがとてもつらい。苦しいことなんです」
お茶のコップに手を置いたまま、綾峰さんは呼吸を整えるように深く息を吐いた。
「ご無理は決してなさらないでください。ただ、暇堂にせっかくいらしてくださいましたので、もしよろしければ」
「はい。話がしたくて、私はここに来たんだと自分でも思います。だから、少しずつ……」
暇堂にわずかな沈黙がおとずれる。
綾峰さんの肩が震えていた。
私はそっと、身を乗り出して自分の右手を伸ばし、その肩に乗せた。
「ありがとうございます。長くなっちゃうし、上手に話せる自信もぜんぜんなくって」
「うまく話す必要なんてまったくないんですよ。ゆっくりゆっくり、聞きますから」
「はい」
大きく深呼吸をして、綾峰さんが視線を宙空にあげた。目は店内の薄暗いライトだけを照り返し、視線の先には何も映っていないように思える。
小さな声で、綾峰さんが言葉を紡ぎだした。
「私、いわゆるシングルマザーなんですけど、今年で四歳になる息子がいるんです。啓介(けいすけ)っていう名前の」
「啓介くん。素敵なお名前ですね」
「啓介はとっても良い子で、いつも私のことを心配したりねぎらったりしてくれます。『お母さん、ありがとう』『お母さん、だいじょうぶ?』って」
「四歳でお母さんのことをそんな風に気遣ってくれるなんて、とっても優しいお子さんじゃないですか」
自分がそのくらいの年齢のとき、わたしはそんなにしっかりしていたかな?
「そうなんです。啓介は私によくなついてくれて、すごく優しい子なんです。今日はこうしてお店に来ているので、ちょっと実家の両親にあずかって貰っているんですけど、いつもは本当に私にべったりで、愛しい子供です」
言い終えた綾峰さんの目から、つっと一筋の雫が流れ落ちた。
「綾峰さんっ!?」
「あの子はすごく良い子です。自慢の息子です。それなのに、私は啓介に『お母さん』って呼ばれるたびに、胸が張り裂けそうになるんです」
「お母さんと呼ばれるのが、なぜつらいんですか?」
綾峰さんの口がかすかに動く。耳の良い私でも声にならない返事。
私は時間をかけて、綾峰さんの心のなにかが動き出すのを待った。グラスのなかの氷がカラン、と冴えた音を立てたとき、彼女の唇が再び動き出した。
「啓介がまだ生まれたばかりのころです。ちょうど奥の部屋で啓介を寝かしつけたとき、インターフォンが鳴ったんです。郵便物が届く予定があったので、私は何も疑わずにドアを開いてしまいました」
ぶるりと、綾峰さんの全身が大きく震えた。
そんな仕草に、わたしはイヤな予感がしてしまう。
「入ってきたのは、マスクで顔を隠した大柄な男でした。私を壁に押し付けてナイフを当てて『騒ぐな、声をあげれば殺す』と言いました。金目のものを出せと言われて、私は背中にナイフを突きつけられたまま現金や通帳、あるだけの貴金属なども出しました」
突然ナイフを持った見知らぬ男に入り込まれる。
それは想像を絶する恐怖であろう。
「そんな事件が……。それで、強盗は金品を受け取って出ていったんですか?」
「いいえ。お金になるものを出し終えたとき、最悪なことに啓介が泣き出してしまったんです。強盗は抵抗する私を無理やり引っ張るようにして、啓介の部屋まで連れて行きました。そして、楽しそうに啓介のおもちゃや飾られた写真を見回していました。啓介に何か危害を加えたりしないかって、とっても怖くって……」
綾峰さんの右手の親指の爪が、左手の甲に強く押し当てられた。自分を苛むような行為に、私はそっと彼女の手に自分の手のひらを重ねた。
「そして、強盗は楽しそうに言いました。『子供は大切か?』って。当たり前だと言いました、お願いだからその子に何も危害を加えないで欲しいと私は懇願したんです。すると、強盗がマスクを外していやらしい笑みを浮かべて言ったんです。『お前か子供のどちらかだけは助けてやる』と――」
「そんな!」
綾峰さんの話を聞く限り、今も啓介くんは生きている様子である。強盗はいったい何をしたのか。何が、彼女をこんなにまで追い詰めてしまっているのか。
「子供を助けて欲しい、喉元までその言葉が出かかったとき、私は思ったんです。この子は、私なしで生きていけるのだろうか。今私が死んだら、この子だって助かりっこない。実家は離れていて、当時まだ結婚していた夫は単身赴任中だったんです。啓介を助ける人は私以外だれもいない。どんなに泣いたって、様子を見に来てくれる人もいない。犯人が約束を守るとも限らない。どっちにしろ、もうこの子に未来はないんじゃないか――」
ふっ、ふっ、と何度も苦しそうに息を吸い込んで、綾峰さんが語り続ける。
「啓介はこのままでは一人でなにも出来ない。衰弱していくだけだ。弱って弱って、苦しみながら死んでしまうんだ。そう思ったとき、私の口をついて出た言葉は『私を助けてください』という最低なものでした。本当に、母親として、ううん。人としてどうしようもないですよね。強盗は信じられないというような顔をしていました。驚きと呆れがない交ぜになったような表情をして『あんたはどうしようもないクズだ』そう言ってお金だけもって去っていきました」
胸が痛む。
今その瞬間に、突然やってきた理不尽な暴力を前にして。
自分を殺せと。誰かを守るためにそう言える人間が、いったいどれほどいるだろう。
ましてや、相手はお母さんがいないと何ひとつ出来ない赤子である。
暇さん、あなただったら綾峰さんにどんな言葉をかけますか?
考えなきゃ、三島都子。
私は今、彼女の心の傷に確かに触れている。
暇堂に見習いとして入って来てから今までずっと、すぐそばで暇さんを見てきた。
彼女なら、きっと――。
「綾峰さんは、最低なんかじゃないですよ。最低なのは、そんなことをした強盗です」
私の言葉に、綾峰さんは首を左右に振った。
「今でもありありと思い出せます。事件の時の強盗のあの目、あの言葉。私はどうしようもないクズで、母親失格で、人としても終わっていて。だから、啓介にお母さんって呼ばれるたびに、私は……!」
私は綾峰さんが手の甲に食い込ませていた指を、そっとどけてあげた。この人は四年間、ずっと心のなかで自分を罰し続けてきたのだろうか。
「三島都子さん、こんな私に、母親としての資格なんてあるのでしょうか?」
「母親になることに、資格なんて必要なのでしょうか?」
気付いた時には、口に出していた。
わたしが思う、綾峰さんに届けたいこの気持ちを。
「確かに、子供を産めば女性はどうしたって立場上は母親になりますよね。でも、それは肩書きじゃないですか。子供を産んだその瞬間、心まですべて母親になれるわけじゃない。子供と一緒に過ごす時間が、女性を母親にしていくんです。母親というのは、最初から完成されたものじゃありません。子供と育っていくものだと思います」
わたしの言葉に、綾峰さんが取り乱す。
「そんなこと言ったって! 啓介の笑顔さえ、私は真っ直ぐに受け止められない!」
「笑顔ですか。その啓介くんの笑顔は、あなた自身が四年間かけて育んだものじゃないですか。綾峰さん」
わたしの言葉に、綾峰さんが意外そうな顔をした、
「えっ」
「この四年間、あなたがつらい思いを乗り越えていった。心に葛藤を抱きながらも。そして、立派に啓介くんを育てることが出来たからこそ、啓介くんは笑うことが出来るんです。『お母さん』って呼びかけることが出来るんです」
綾峰さんは両手で顔を覆い、かぶりをふった。
「でも私は、自分の命を優先してしまったんです。あのとき、私は啓介の母親になる資格を失ったに違いないんです」
「そんなことないです。もしもあなたがどうしても、あのときの自分は母親じゃなかったって言うのなら、啓介くんを育てたこの四年の歳月が、あなたを啓介くんの母親にしたんです」
綾峰さんの大きな瞳が、涙で潤んでいる。
私は彼女の目をのぞき込むようにして、静かに言った。
「綾峰さん、あなたはなにも恥じることはない。胸を張ってください。今、啓介くんの笑顔があるのはたったひとりのお母さんである、あなたの力です。啓介くんの笑顔を、どうかまっすぐ受け止めてあげてください」
綾峰さんが、じっと私の顔を見る。目を背けずに、私は微笑んだ。
たくさんの涙を浮かべた綾峰さんが、私の手に手のひらを重ねてくる。そっともう片方の手で受け止めるようにして、何度も手を撫でた。
「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ。綾峰さんはちゃんとお母さんになれているんです。過去のことをつらく感じてしまうことだって、今、お母さんになれていることの証拠じゃないですか。啓介くんをなんとも思ってなかったら、こんなに苦しんだり胸を痛めたりしませんよ」
「三島さん……ありがとう、ございます……」
腕のなかで泣いている綾峰さんを、私はいつまでも手を撫で続けた。
「今日は本当に、ありがとうございました。心がとても救われました」
暇堂を出た綾峰さんが、階下まで見送りに出た私に頭を下げた。
「そんな、大げさですよ。私は今まで頑張って来た綾峰さんに、当たり前のことに気付いてもらっただけです」
「私、これからも頑張ります。そしてこれからも……啓介と一緒に」
微笑んで、綾峰さんが背を向けて歩き出す。
その背中が遠くなるまで見届けようと思っていると、数歩進んだところで彼女は足を止めてしまった。身体が、かすかに震えている。
「……ダメ。やっぱり、私、母親なんかじゃ……!」
「そんなことありません!」
今にも膝を折りそうな綾峰さん。私は思い切り駆け出して抱きしめた。
「今日の私の言葉、思い出してください。いやな思い出にくじけそうになっても、決して忘れないで。つらい思いに憑りつかれたら、思い出して。それでもダメなら、またここに来てください。暇堂の店主も私もいつでも、ここであなたを待っているから!」
「都子さん、私、またここに来てもいいのですか?」
身体を離すと、涙が綾峰さんのほほを伝った。
私は思い切り自分の胸を叩いた。自信を持ち、それを感じてもらうために。
「だいじょうぶです、いつでも待ってますから! だから『お母さん』、どうか啓介くんの素直な笑顔をあなたも受け入れてあげてください。それがお母さんの務めです」
頷くと、綾峰さんは涙をぬぐって駅へ歩き出した。
離れていく背中を見守っていると、不意に暇さんがやってきて横に立った。
「いやぁ、素晴らしい。なんとも感動的だねぇ」
「い、居たんですか暇さん!? からかわないでくださいよ!」
「いいや、実はね。僕は途中からだけど、都子君のお悩み相談を聞いていたんだ。木戸の前でこっそりとね。日差しが暑かったなぁ。でも、素晴らしい悩み相談だったよ」
意外な言葉に、私はまっすぐに駅のほうを見つめている暇さんの横顔を見た。
「えっ、暇さん、聞いてらっしゃったんですか? どうして戻ったのならすぐに入って来て下さらなかったのですか!?」
暇さんが、わたしの方を向いて真面目な顔で言った。
「相談内容がとても女性的だったからね。母親としての悩みなら、理詰めで偏屈な僕より都子君が適任だろうと判断したまでさ」
そう言われれば、暇さんがあの相談をどう返すか見当がつかない。
いつものようにけむに巻くのか、真っ直ぐに答えるのか。
「都子君、君も立派なお悩み相談の聞き手になったね。頼もしいよ」
そう言って、暇さんがわたしのほほをすっと撫でた。
ああ、またそういうことをする!
でも暇さんに少しでも認められたのなら、それはとてもとても嬉しい。
「さぁさぁ、暑いところで立ち聞きしてすっかり喉が渇いてしまったよ。和室に入って冷たい麦茶でも飲むとしよう。行こうか、都子君」
「はい!」
わたしたちは連れ立って、暇堂の和室に戻っていった。
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