『枯れ専じゃない』ことを証明するため、女子高生は『先祖の記憶、遺伝する説』を推す。

金谷羽菜

前編

 この春、高校生になったばかりの安彦梨々あびこりりは、教室の窓枠に両手をつき、物憂げな表情で青い空を見上げていた。


「やっぱり、先祖の記憶って遺伝するのかな?」


 ポツリと、独り言のようにつぶやく。

 窓際の席で、いつものように文庫本を開いているのは、梨々の親友、浅長玲香あさながれいかだ。


「はあ?」


 彼女はパタリと文庫本を閉じ、視線を梨々に向ける。彼女の眉間には、深いシワが刻まれていた。


「朝っぱらから、なに寝言みたいなこと言ってんのよ? 登校中に、頭でも打った?」


「え?……あ、ゴメン! べつに、難しい話をしようとしてるワケじゃなくて」


 親友の顔が、不機嫌そうに歪んでいることに気付き、梨々は焦って首を振る。


 玲香は、勉強があまり得意ではない。

 そのことを日頃から気にしていているせいか、手には常に文庫本。

 裸眼で充分生活していけるほど、視力は良いクセに、度の入っていないメガネを掛けている。賢く見られたいからだそうだ。


 外見も賢そうに見えず、内面も賢くないという場合より。

 賢そうに見えるのに、実は賢くない――という方が、バレた時のダメージは大きいと思うのだが。

 とにかく玲香は、賢く見られたい系女子なのだ。 


 梨々も成績が良い方ではない。特に理数系は苦手だ。

 なのに何故、学校に着いて早々、遺伝などという小難しい話をし始めたのかと言うと――。



「昨日も、公園に行ったんだけど」


「ああ、そう。懲りずにまた、ストーカーしてたんだ?」


「ちょ――っ、やめてよ! ストーカーじゃないってば。見てていいかどうか、ちゃんと本人に訊いて、了解ももらってるんだから」


 梨々は両手を前に出し、真っ赤になって否定する。

 玲香は呆れた顔つきで頬杖をつき、


「あーそう。……けど、アンタもよく飽きないわね。絵ー描いてるとこなんか、見てて楽しい? アタシには、さっぱり理解できないわ」


 再び眉間にシワを寄せ、軽く首を振った。

 梨々はぷうっと頬を膨らませると、『いーでしょ、べつに』とそっぽを向く。



 ストーカーとは、穏やかではないが。


 彼女が想いを寄せている幼馴染の同級生、小川真人おがわまさとが、美術部の課題だか何だかで、このところ毎日、学校近くの公園で絵を描いているのだ。

 幼い頃から彼に想いを寄せる梨々は、少し離れたところから、その様子を見守っている、というわけだ。



「もうすぐ夏休みっていう、この浮かれた季節に。しかも、最高気温が毎日のように更新されてく、殺人級に暑い中。野外で、暗くなるまでひたすら絵を描いてる男を、ただボーッと眺めてるだけなんでしょ? ご苦労なことね」


 からかい口調でニヤついてみせた後、玲香はひょいっと肩をすくめる。

 梨々は微かに頬を染め、うらめしげに玲香をにらみつけた。


「うるさいなぁ。恋したことない玲ちゃんには、わからないのよ」


 言い返しながら、窓辺から自分の席(ちなみに玲香の後ろだ)に移動し、乱暴に椅子を引いて腰を下ろす。

 玲香は首だけ後方に向け、


「あら。したことあるわよ? 二次元限定なら、数え切れないくらい」


 さしてダメージを受けていないようで、ケロリとした顔で言い返す。


「二次元じゃなくて、現実の話!」


「現実だって二次元だって、恋は恋でしょ?」


「ちっがーう! 二次元の人に恋したって、ムナシイだけじゃない。想像の中でしか会えないし、触れないし」


「へーえ。梨々は、触れなきゃ好きになれないの? 小川くんには、いつも触ってるんだ?」


「なっ、何よそれ!? 触ってるワケないでしょ!」


 瞬時に赤面し、梨々はキョロキョロと辺りを見回す。

 誰かに聞かれたら――特に、片恋相手の小川真人に聞かれたらどうしてくれる、といった感じだ。


 玲香はククッと笑い声を漏らし、


「そーよねぇ? いつも見てるだけだもんねぇ? 相手は幼馴染なのに、ボディタッチすらできないなんて。触ろうと思えばいつでも触れる、現実世界なのにねー? そっちの方が、よっぽどムナシイんじゃない?」


 意地の悪い視線を梨々へと送り、念押しするかのように、もう一度ククッと笑った。


「うるさいなぁもうっ! 玲ちゃんのバカッ!!」


 教室中に梨々の声が響き渡った瞬間。

 ガラリと戸が開き、担任の教師が入ってきた。





 昼休み。

 梨々と玲香は、いつものように机をくっつけ、お弁当を食べながら談笑していた。


 話題は、今朝の続きだ。

 いや。続きと言うより、今朝、梨々が話そうとして話せなかったことについて、と言った方が正確か。


 玲香は、卵焼きを口元へ運ぶ手を途中で止め、 眉間にシワを寄せて首をかしげた。


「はあ~? 昨日、公園でチラッと見掛けたじーさんにときめいちゃったぁ?……アンタ、いつから枯れ専になったの? 愛しの幼馴染はどーすんのよ、捨てるの?」


「捨てないよ!!――ってか、捨てるって何よ捨てるって? 拾ったことなんてないし、拾われたことすらないんだから、その言い方はおかしいでしょ!」


 梨々は箸を握り締めながら抗議し、玲香は『やれやれ』といった風に肩をすくめる。


「だって、『昨日ね? 公園のベンチに座ってるおじいさんがいたんだけど、その人を見たとたん、ビビビッって、体に電流走るみたいな感覚がしたの』なーんて言い出すからさ。『小川くんからじーさんに乗り換え? 梨々、枯れ専だったのかー』って、思っちゃったワケよ」


「乗り換えないよ! カレセンでもな――っ、……んん? 〝カレセン〟ってナニ? 割れ煎なら知ってるけど」


 卵焼きを咀嚼そしゃくして飲み下すと、玲香はフッと口元をほころばせた。

 まるで、『なんだ、そんなことも知らないのか』とでも言いたげだ。

 梨々は内心ムッとしたが、こんなところで口論になっては、朝の二の舞いだ。グッと堪えた。


 玲香は次のおかずへと箸を伸ばし、口元に笑みを浮かべる。


「枯れ専ってのは、『枯れた男性専門』の略。要するに、枯れてる男の人……確か、四十代から五十代以降の年上男性のことだったと思うけど。そういう、経験豊富で落ち着いてる年代の男性が好きって人のことを、枯れ専って言うの。割れせんべいとは全くの別物よ」


「へー。かなり年上の男性を好きになっちゃう人のこと、枯れ専って言うんだ? 初めて知ったー」


 梨々が感嘆の声を漏らすと、玲香は満足げにうなずいた。すごく得意そうだ。

 勉強では梨々に敵わない(と言っても、微々たる差なのだが)ので、教えられることがあったのが、単純に嬉しいのだろう。


「あっ。でも、違うんだってば! 私は枯れ専とかじゃなくて!」


 梨々は慌てて否定し、箸を握ったままの拳を机に叩きつけた。

 玲香はモグモグと口を動かし、マグボトルに入ったお茶で、残りのおかずを一気に流し込む。

 すっかり空になった弁当箱に蓋をし、両手を合わせて『ごちそうさまでした』とつぶやくと、梨々に向き直った。


「枯れ専じゃないなら、どーしてときめいたのよ? タイプだったからじゃないの?」


「私のタイプど真ん中は真人くん! 幼稚園時代から一ミリとも変わってない!」


 握り締めた箸をブンブン振り回し、梨々は真顔で力説する。

 玲香はマグボトルのお茶を一口飲み、 呆れたようにため息をついた。


「それは知ってるって。嫌ってほど聞かされてるし。……で? タイプじゃないなら、どーしてときめいたの?」


「だから! それがあれよ、あれ。遺伝ってヤツよ」


「は? 遺伝~?」


「うん。あ、えっと。遺伝って言うか……」


 梨々は言いよどみながら、チラリと玲香の様子を窺う。

 玲香の顔には、『難しい話なら聞かないわよ?』と書いてあった。


「えーっと、だからね? 私はこう考えたの。そのおじいさんを見たのは、昨日が初めてだったし、顔が好みだったワケでもない。なのにときめいた。ものすごーく。ビビビビッって電流走っちゃうくらい。これっておかしいよね?」


「うん、まあ。おかしいっちゃ、おかしいかな?」


「おかしいわよ。好みでもないのにときめくなんて。私が、すぐ誰かを好きになっちゃう恋愛体質だって言うなら別だけど。昔から真人くん一筋だし。彼以外、好きになったことないし!」


 ここが大事だと言わんばかりに、梨々は机をバンバン叩いて主張する。

 玲香は『ハイハイ』とうなずき、親友の話を黙って聞いていた。


 興奮冷めやらぬ様子で、 頬を紅潮させた梨々が、次いで放った言葉は。


「だからこれ、私の気持ちじゃなく、過去の人――先祖の記憶が、関係してるんじゃないかと思うの!」


 両手で机を叩いて締めくくると、梨々は得意げに胸を張る。


 玲香は、じいっと梨々の顔を見つめていたが、やがて、マグボトルをおもむろにつかんだ。グイッとお茶を飲み干し、ふうっと息を吐く。

 再び梨々に視線を戻し、ジト目で一言。


「何それ?」


「えーっ? だから、先祖の記憶よ! わっかんないかなー?」


 親友の素っ気ない反応に、梨々は不満そうに唇をとがらせる。

 玲香はマグボトルをバッグにしまい、机横のフックに掛けると、さらに冷めた目を梨々に向けた。


「先祖の記憶って何? ワケわかんない」


「私だってわかんないけど! でも、そうとしか思えないんだもん。タイプでもない人見てときめく理由が。遺伝とか、先祖の記憶が絡んでるとしか、思えないんだもん!」


「いきなり遺伝とか先祖の記憶とかって考えるアンタが、一番ワケわかんないって。普通は、『ああ。アタシ、こーゆー趣味もあったんだな』ってなるでしょ? そっちの方が、遺伝だの何だの意味不明なこと言い出すより、よほど自然よ」


「だって! 真人くん一筋のこの私が、他の人にときめくなんてあり得ない! 太陽が西から上るのと同じくらい、あり得ないんだってば!」


「自分が心変わりしたと考えるより、先祖の記憶がどーのって考える方が、まだ現実味があるってこと?」


「そう! そのとーりっ!」


 梨々は胸の前で両手を握り締めながら、何度もうなずく。

 玲香は深々とため息をつき、椅子の背もたれに寄り掛かると、足を組んで、再び梨々をジト目で見据えた。


「じゃあ、先祖の記憶が、遺伝子情報だかに組み込まれてるとして、よ? そのじーさん、もしくは、じーさんのソックリさんだかにときめいた先祖ってのは、誰なのよ? 見当ついてんの? じーさんにときめいたってんだから……もしかして、アンタんちのばーさん?」


「そんなの、わかるワケないでしょ。仮にそうだとしても、正解かどうかなんて確かめようがないし。ばあば、三年前に亡くなってるし」


「あ~、そっか。そーだったっけ」


 思い出したように、玲香は両手を打ち合わせた。


「――とすると、『先祖の記憶は遺伝するか?』、証明できる可能性はなくなったわね。詰みよ、詰み。この話はこれでおしまい」


 玲香は椅子の背もたれに寄り掛かり、両手を頭の後ろに回す。


「そんなことないわよ。ばあばが無理なら、直接本人に訊ねればいいんだから」


 梨々は不敵に笑って腕を組むと、玲香と同様、背もたれに寄り掛かった。


「え? 本人って……じーさんに?」


「当たり前でしょ。他に誰がいるの?」


 梨々の答えが予想外だったのか、玲香は目を丸くしている。


 長い間、片恋相手に対し、何のアクションも起こせなかったことからもわかるように。梨々は、積極的な性格ではない。

 その梨々が、『直接本人に訊ねる』などと言い出すとは……。


「善は急げって言うし! 今日公園に行って、おじいさんがいたら話し掛けてみる。明日、結果を報告するね? 楽しみにしてて!」


 ひたすら意外そうに、ポカンと口を開けたままの玲香を前に。

 梨々は両手を握り締め、意気揚々と宣言した。





 翌朝。

 梨々の顔を見るなり、『で? じーさんと話したの?』と訊ねる玲香に、梨々は満足げにうなずいた。


「詳しい話は、昼休みにね!」


 もったいぶって返事すると、ニマニマと笑いながら頬杖をつく。

 すぐに結果を知りたかったが、玲香はグッと堪え、大人しく昼休みまで待つことにした。




「で? 結局どーなったのよ?」


 いつものように机をくっつけ、弁当を食べている最中、玲香がしびれを切らしたように訊ねた。

 梨々は意味ありげに笑い、大きくうなずく。


「もちろん、話し掛けたわ。あのおじいさん、鍛冶屋敷一かじやしきはじめって名前なんだって。珍しいよね」


「は? かじ……なんですって?」


「鍛冶屋敷。か、じ、や、し、き、は、じ、め。――ね? 珍しいでしょう? おじいさん、私がノートとシャーペン渡したら、こういう字ですって、漢字教えてくれたの」


 梨々は机からノートを取り出し、開いて玲香の前に置く。

 そこには、美しく整った字で、『鍛冶屋敷一』と書かれていた。


「へえー。確かに、こんな苗字の人初めて。しかも、すっごくキレイな字」


 玲香は感嘆の声を上げながら、梨々のノートを覗き込む。

 梨々は得意げに胸を張り、


「でしょでしょ? おじいさん、めっちゃ達筆なんだよね」


 ニコニコと嬉しそうで、まるで、自分が褒められたかのようだ。

 玲香は呆れ、『なんでアンタが得意そうにしてんのよ?』とツッコむが、照れ臭そうに、ペロリと舌を出すのみ。


(この反応……。もしかして、ホントにじーさんを好きになっちゃったって言うんじゃないでしょーね?)


 訝しむ玲香だったが、梨々はただ、ニコニコと笑っている。

 おまけに、今日も会う約束をしているという梨々に、心配になった玲香は、『アタシも行ってもいい?』と訊ねた。

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