第29話 ひかりとお弁当

「一回笑ってみて」

「い、いきなりわ、笑えって言われても……」

「はやく。笑うんだ」

「ひぃっ……」

 

 ひかりは笑うどころか頬を引きつらせた。

 けれど笑うことができないとか苦手だとか、そんなことはないはずだ。それこそ通話中は普通に笑っている。

 

「じゃあ今から、僕がめっちゃ面白いギャグ言うから」

「そ、それ……だ、大丈夫なやつです?」

「ふとんがふっとばなかった!」

「……」

「真顔だね。でもこれ君がやったやつだからね?」

「パクリはよくないと思います」

「そもそもがなんかのパクリでは?」

「ちがいます」


 声音が固くなる。少し機嫌を損ねたらしい。 

 けれどちょっとだけ通話のときの感じが出てきて、うれしくなる。


「うへへ、笑わないならくすぐって笑わせちゃうぞ~」

「いきなり変態おじさんやめてください」


 冷たくあしらわれた。

 ひかりは腰を浮かせて少しだけ距離を取った。弁当に視線を落として、箸でおかずを拾い上げる。

 直希は思案したのち、


「……ひかり、俺のために笑えよ」


 ねっとり陰キャボイスを耳元で囁いて攻めてみる。いい感じのキモさで笑いを取れる自信がある。


「あっ」

   

 ひかりの箸から卵焼きが落ちた。笑わせるどころか、あまりのキモさで動揺させてしまったらしい。


 卵焼きがひかりの手にした弁当の上に落ちて跳ねる。

 反射的に腕が動いていた。降ってきた卵焼きを、手のひらの中で受け止める。

 直希は無言で顔を上げた。すぐ近くで、ひかりの目と目があう。


「ふふっ」

 

 お互い同時に吹き出した。

 目の前で唇の端が上がって、目尻が垂れる。今度こそ初めて見る顔だった。


 ひかるんの笑顔は動画を繰り返して幾度となく見てきた。 

 まるで別人のようだ、とはいえ、本当に別人というわけではない。あくまでベースは今ここにいる彼女なのだ。


 不思議な目だと思った。まぶたを伏せているときは品のあるお嬢様のようで、開くと小さな子供のように丸くなる。


 ひかりはすぐ困ったように表情をこわばらせて顔をそむけた。直希は卵焼きの乗った手を差し出して聞く。


「これどうする? 僕の手が汚いかもだけど、三秒ルールでいける?」

「だ、大丈夫、き、汚くないです……」

「じゃあ、あーん」


 卵焼きをつまむように持ちかえて、ひかりの顔の前に近づける。彼女の唇はそれこそ焼きたての卵焼きみたいにふっくらとしていた。


 ひかりは軽くのけぞって目線を泳がせたが、やがておずおずと口を開いた。卵焼きが口に入る寸前で、直希は腕を手前に引く。

 

「……いじわるですか」

「ごめんごめん」


 なんとなくやりたくなってしまった。

 もう一度、卵焼きをひかりの口に近づける。少し手前で、止める。

 ひかりは唇を尖らせて喉を鳴らした。


「んー!」

「いやさすがに。さすがに次は」

 

 三度目の正直。

 ゆっくり卵焼きを近づけていくと、途中でひかりの口がぱくっと食いついてきた。


「あ、食べられた」


 ひかりはなにか言いたそうな顔でもむもむと咀嚼をする。


「かわいい。魚みたいで」


 無言でくるりと背を向けられてしまった。褒めたつもりだったのに。

 

(あ……)

 

 たわいもないやりとりだったが、それは唐突に来た。

 手を伸ばして、彼女の肩に触れて。背中から腕を回して、体を抱きしめる。

 

 そんな自分の姿を想像した。そうしたい衝動にかられた。 

 ずっと頬が緩みっぱなしなことに気づく。後ろ姿を見つめて、邪な想像をしている。第三者に見られたら相当まずい光景だ。


 あわてて表情を引き締めて周囲を警戒する。相変わらず人の影はない。幸い誰にも見られていないようだ。


 近づきすぎていた距離を離すように、ベンチに座りなおす。

 しばらくしてひかりもおそるおそる前を向いた。ちょっとやりすぎたかな、という顔だった。

 笑顔で受け入れると、ふたたび静かな昼食タイムに戻った。また会話がなくなる。

 

 最後に残った白米の塊を口に運んだ。直希の弁当がきれいになるのと、ひかりが弁当箱の蓋を閉めるのがほとんど同時だった。


「そういえば飲み物、持ってこなかったな。買ってくる?」

「あ、わたしは、大丈夫です……」


 この場を動く気はないようだ。ウロウロして目立ちたくないのかもしれない。

 多少なら我慢するタイプのようだ。それは直希も同じ。ひかりは割り箸を大事そうに揃えて持ちながら言った。

 

「あのお箸、ありがとう……洗って返します」

「いやいいよ、それはもう捨てて?」

「お箸、いっぱい入ってるの買ってカバンに入れておこう……」

「そんな忘れる?」


 少しドジっ子なのだろうか。いうとひねくれるので黙っておく。


「あ、でも忘れたら、また一緒に……」

「ん? それは……」

 

 ひかりがよければいつでも……と言おうとして、目が合った。

 まるで子供が母親のご機嫌をうかがうような目だった。長いこと見つめ合ってしまう。


「ひかりが嫌じゃなければ……」


 変に伝わるとよくないと思って、言葉を選びなおす。けれどうまい言い回しが見つからず、飲み込んでしまう。そのうちにひかりが目をそらした。話はあいまいに終わった。


 一緒にご飯を食べるという当初の目的は終えた。けれどまだ休み時間は残っている。

 どこかに行くとも、教室に戻るとも、ひかりは何も言い出さなかった。直希も黙っている。

 通話ではとりとめもなくしゃべり続けているのに、今は何も会話がないのが不思議だった。

 

 弁当箱を片付けると、いよいよ手持ち無沙汰になる。

 急なことだったので、他に何も持ってこなかった。スマホもカバンにしまったままだ。それは彼女も同じらしい。


 ひかりは行儀よく腰掛けたまま、まっすぐより少し上を見ていた。

 こっそり目線をたどるが、なにもない。ずっと先の、空に浮かぶ雲を眺めているようだった。


 空には厚めの雲がまばらに漂っていた。

 太陽が顔をのぞかせるたびにグラウンドが明るくなる。暗くなる。

 ちょうどよい陽気だった。暑くもなく、寒くもなく。


「空を見るの好きなんです」


 ひかりは誰にともなく、突然そんな事を言った。横顔を見る。


「そうなんだ?」

「晴れてるのもいいんですけど、曇ってる空好きなんです」

「じゃあ、今はいい感じ?」

「もっというと、雨が降りそうな雲のほうがすきです。変わってるねって、言われるんですけど……」

「それは友達に?」

「……やっぱりいじわるだ」


 ひかりは口をすぼめるようにつきだして、少しうつむいた。

 嫌味ではなくリアクションがかわいらしくて、ついからかいたくなってしまう。謝りを入れると、ひかりは続けた。

  

「前の学校は、校則とかもすごく厳しくて。お昼外で食べたりとか、できなかったんです。女子ばっかりだったんですけど、きっちりグループができてて、いつも教室ピリピリしてるなって思ってて……」

「ひかりはのんびりが好きなんだ?」

「そう……かなぁ?」


 ひかりはあさっての方角へ首をかしげる。

 それからは特に会話という会話はなかった。直希は一緒になって空に浮かぶ雲を見上げた。 

  

 青い空を、白と灰色混じりの雲が流れていく。

 あれこれ考えていたことが消えて、直希はいつしか無心になっていた。やわらかい風がずっと流れていたことに気づく。春の匂いとはこんな感じだったかと思い出す。


 ゆっくり息を吸い込んで、吐き出す。隣に座る彼女と、呼吸が揃っていくような感覚がした。意識が遠く、空へ吸い込まれていく。静かだった。


「あ、やばっ」


 無機質なチャイムの音がなって、直希は我に返った。昼休みの終わりを告げる予鈴だ。

 空から地上へと視線を落とす。すっかり時間を忘れていた。グラウンドの隅っこにいることも。急がないと授業に間に合わないかもしれない。

 

「ひかり?」


 名前を呼ぶ。かたわらの彼女は、空を見上げたまま身じろぎ一つしない。おかしなゾーン状態に入ってしまっているかのようだ。

 肩に手を触れて揺する。

 

「チャイム鳴ってる」

「え? あっ……」


 振り向いたひかりは、恥ずかしそうに顔を赤らめた。かと思えば急にしかめっ面になって、口と鼻を両手で覆う。


「……くしゅん!」

「おっ、くしゃみ助かるぅ……なんてやってる場合じゃないな」


 笑いながら立ち上がった。直希を見上げたひかりの顔も、笑っていた。

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