第2話
時刻は夜八時すぎ。
直希は自分の部屋の勉強机に向かって宿題をこなしていた。
机の上に寝かせたスマホからは、ときおりページをめくる音と、ペンを走らせる音がかすかに聞こえてくる。
「……なおくん、もう終わったかな?」
静けさの中、ささやくような声がした。
声の主は黒崎ひかり。彼女はこの前別れたばかりの交際相手……いわゆる元カノというものにあたる。
「んーまだ」
「まだ? わたしは終わりましたぁ」
別れを告げられた日の次の夜、ひかりは何事もなかったかのように連絡してきた。
宿題がわからなくて困った。教えてほしい。話しながら一緒に勉強しようという誘いだった。
このアプリ入れて、と彼女にしては強引だった。作業通話などにも使えるアプリだというが初めて聞く言葉だ。
自分から誘ってきたくせに、彼女も使い方がよくわかっていないようだった。部屋を作ってどうたら、と苦戦していた。
最初はその日その時だけのことだと思った。
しかしここ数日、それが毎晩続いている。
「あ、あの……ね? わたし、思ったことがあって……なおくんにちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
スマホからおそるおそる控えめな声がする。
「どうやったらまた妖怪ボッチが人気出ると思います?」
「うーん、ちょっとわかんないっすね」
「やっぱり腐要素が足らなかったと思うの」
「たぶん違うと思うぞ」
「だからわたしが作ろうかと思ってるんですけど。ニャンニャンとコマシさんで」
「訴えられるぞ」
それきり沈黙に戻る。
作業通話といっても、基本的にこういう意味のない会話しかしていない。
しばらくするとがさがさと包装を破く音がした。続けて舌でなにかを転がすような音と、咀嚼音が聞こえてくる。
「……なに食べてるの?」
「チョコレートです」
「また? 食べすぎじゃ?」
彼女はすきあらばチョコレートを口の中に転がしているチョコレート狂だ。
それにしてもやけになまなましい音がする。
直希はスマホを机の脇に置いているだけだが、向こうはどういう状況なのかわからない。聞いてみる。
「それスマホ近すぎない? どういう状態?」
「んふふ、ASMRみあるでしょお~」
ずいぶんご機嫌のようだ。
通話中の彼女は、以前とは比べ物にならないほど饒舌だ。キャラが違う。もはや別人と話しているようだった。
付き合っているときは微塵も見せなかった顔だ。
きっと彼女の中で、直希は別の分類に入れられたということなのだろう。恋人ではなく、友達というフォルダに。
咀嚼音が落ち着くと、ぐずったような声がする。
「ん~……あした学校いきたくにゃい~……」
「なんで? あしたなんかあるの?」
「このまえ言ったじゃないですか。陽ギャがうしろの席なんだって」
陽ギャとは陽キャなギャルの略らしい。ひかりに言わせると「陰キャいじめてそうなタイプの女子」だそうだ。
直希たちはこのあいだ二学年に上がって、新しいクラスになったばかりだ。彼女とは去年一緒のクラスだったが、今年はわかれた。
ひかりは新しいクラスに早くも不満があるらしい。その陽ギャ女子から、毎日背中に圧をかけられているのだとか。
「あぁ、このままだとまた中学時代の悪夢が……」
「悪夢?」
「三十人のクラスで三人組作って、でわたし一人だけ余りまして」
「それは不思議だ」
「そしたら先生がクラスのみんなに怒り出して……う、うああっ」
「どしたの? 大丈夫?」
トラウマを発動してしまったらしい。
ひかりはかつて私立のお嬢様学校に通っていたが、耐えきれず途中で今の学校に転校したといっていた。
彼女の過去を掘るとそういうネタがどんどん出てくる。聞くかぎりではそこまで壮絶なひどい目にあっていた、というわけでもなさそうだが。
「後ろの席の子にいじめられそうってこと?」
「や、やだなぁ、そんなわけないじゃないですか。は、ははは……」
笑い声に力がない。
直希を陰キャというのならば彼女も間違いなく陰キャである。それどころかよりレベルの高い陰キャではないかと思う。
「わたしそこまで陰キャではないので。根はおもしろ明るくてですね……うぇいうぇい言ってるだけの陽キャより、絶対面白いこと言えると思うんです」
「その発想がもう陰キャでは?」
かなりこじらせている。
最初は勉強を教えてほしいという話だったが、次に相談されたのは「話がうまくなりたい」「緊張せずしゃべれるようになりたい」というものだった。
困ったことがあったら相談に乗る、と宣言してしまった手前、むげにするわけにもいかない。
「じゃあなんか面白いこと言ってみて」
直希はペンを走らせる手を止めて言う。しばらく間があったのち、スマホからこわばった声がした。
「ふ……ふとんがふっとばなかった!」
「ちょっと厳しくないかな」
「……い、今のはすべり芸っぽく、コメントとかで盛り上がってくれればウケるタイプですから」
「コメント? なんの話?」
「わたし、ブイチューバーとかそういうの向いてると思うんです。ボケもツッコミも両方いけます」
「いやいやさすがになめすぎでしょ」
「ぺろぺろ」
「え? なに?」
「そこは『ぺろぺろ助かる』でお願いします」
話についていけないときがある。
けれどこんなやりとりをするようになったのも別れたあとだ。付き合っているときは会話自体がほとんどなかった。
「でも自信あるならやってみれば?」
「あっ、いまの冗談です。無理です無理」
「もしかしたらいけるかもしれないよ、声かわいいし」
「ぶ、ブホッ! や、やだなぁまたそんなこと言って……」
「きっと僕みたいな陰キャを騙してガッポガッポ稼げるよ」
「そういうことは言ってないよ? 偏見がすごいね?」
認識が甘かったらしい。一方で彼女がそっち方面に明るいというのは初耳だ。
「けどひかりってそういうのよく見てるんだ?」
「いえ見てません」
「そのわりに詳しそうだけど」
「ちょっとお風呂入ってきます」
「急に逃げる」
都合が悪くなると席を立つ。いまいちとらえどころがない。
スマホからかすかに衣擦れの音がする。もしや自分の部屋で服を脱いでいるのか。いや上着だけか。
切り忘れなのかわざとなのか、ひかりはマイクをオンにしたままのことがよくある。そのため生活音がもろもろ丸聞こえになる。
足音がして、小さくドアの閉まる音がする。
スマホから音がしなくなると、部屋に静けさが戻った。直希は一人宿題の続きをする。
会話に気を取られているせいかまったくはかどらない。けれど早々に終わってしまったら終わってしまったで、変に手持ち無沙汰になるのもたしかだ。
しばらくすると、スマホごしに物音がした。ひかりが戻ってきたようだ。
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