第1話

 私は島崎若菜、今年で28になった。

 なんてことない、田舎で暮らす専業主婦だ。


 夫である島崎秀俊とは見合い結婚で、田舎特有の女は学業よりも早く結婚せねばならぬの流れのまま流され、高校を卒業と共に17歳も上の夫と結婚させらせた。

 要は体のいい厄介祓いだろう。

 実家は叔父夫婦に盗られた。両親は高校入学の前にあっけなく事故で亡くなった。


 夫はお世辞にもかっこいいなどと言われる部類ではない。しかし、それを補うかのように抱擁力と優しさに満ちた人であった。

 私もこの人なら、と納得して結婚したのだから後悔はなかった。

 そのはずだった。


 ……しかし、蓋を開ければ夫は結婚してから人が変わった。

 いや、正確に言うと夫が出世をした日からかもしれない。それまでは経済的に余裕がなく、私も働いていた。パートだったがフルで働いていたのでそこそこに稼いでいた為か夫の給料を超える時もあった。自分の小遣いなど考えもせず、給料の全ては家計に足していた。


 本当にある日突然。これが青天の霹靂というものか、と思った。


 最初は作った卵焼きが甘いと言われた時だ。私はそれが母から習ったものだ、と口ごたえをしてしまったのだ。それが夫の琴線に触れたのか、それからというもの作る料理は不味いと否定、気に入らなければ目の前で捨てる。これみよがしに買ってきた弁当を食べる、等。

 思い出すだけでも辛い。


 夫のモラハラは段々とエスカレートして行き、生活費は最低限の最低以下しかくれず、どうやりくりしても毎月が赤字。増額をお願いしても頭が悪いから計算も出来ないと罵られる毎日。仕方ないので足りない分は働いていた時の僅かな貯金からだした。

 しかしそれも長くは続かない。生活費が少ないのに夫は肉を食べたがる。

 けれどお金が無いので節約料理ばかりになると、食卓の貧相さに夫は大爆発するばかり。罵られるのが嫌なので自分の食べるものを減らして夫に食べさせた。


 当然着るものも夫にお伺いせねばならず、新品を買ったのは何時だろうか?生地がすりきれたものしか私は持っていないので必然的に外出も出来なくなった。

 それでもどうしようも無くなった時には夫に着るものや下着が欲しいとねだるしかなく、引き換えに一晩中罵倒され、結局夫がくれるものは姑の古着だったりする。

 下着だけでも、と懇願したがいちいち夫のチェックが入る。少しでも色があるものや柄物、派手な物を選べば浮気だなんだと暴力は当たり前。

 屈辱だった。しかしそれしかないので我慢しなければ裸で生活するしか無くなるのだ。


 正直、疲れ果てていた。


 そんな生活が10年続いたある日。

 夫が投げ捨てたスーツを拾いあげれば中から大量の風俗の名刺、そして会社の部下からの手紙が出てきた。


 内容は見ていない。

 しかし私が手紙とスーツを持っているのを見た夫は顔を真っ赤にし、大声を出しながら私を突き飛ばし暴れた。


 ぐちゃぐちゃになる部屋を、どこか遠くで眺めていると、いつの間にか部屋から追い出されていた。

 着の身着のまま、というか靴を履くことすら許されず、真冬の冷たい雨が降る中を当てもなくただ歩いた。


 悲壮感はなかった。

 これで、楽になれると思ったから。


 そして気が付くと、少し大きな川にたどり着いていた私は、荒れる川の濁流に躊躇いなく自ら飛び込み呑まれ人生を断っていたのであった。



 ――……そのはず、だった。



「起きたゾー!」

「人間、起きたのー!」


 幼い子供の、声?

 目を開ければ、知らない天井。

 ぐるりと視線を回すと障子から暖かな日差しが照らす、純和風の部屋。

 私は畳に敷かれたふかふかのお布団の中にいた。


 たしかに川へと飛び込んだはずなのに、どうして?


 まだ感覚だってある。息苦しさの中、これで楽になれるのだと心踊った記憶はそれほど遠くないというのに。


「あ、の……」


 声が掠れて出ない。

 起き上がることも億劫で、近くで座っている双子に視線を送る。


「どしたなの?」

「どうしたんだ?」


 舌っ足らずの物言いでこてっと首を傾げる女の子はおかっぱの白髪に赤い紐で造られた花飾りを着けている。

 もう一人は女の子と同じ見た目だけど声からして男の子と分かる。同じ髪型に黒髪で反対に青の紐で造られた花飾りを着けている。

 二人とも動くとシャランっと音が鳴るので、付けている花飾り……簪かな?鈴が着いているんだろう。普通の鈴の音じゃなく、水琴鈴の一種だろうか。聞いていて酷く心地が良い。


 そんな2人は私が声をかけたから近付いてきて枕元の左右に座り込み、顔を覗き込んでる。


「顔色わるいのー」

「青色だなー!」


 喋らない私に痺れを切らしたのか、小さな手がぺちぺちと頬を優しく叩くが痛くない。ひんやり冷たいその手のひらに心地良さを覚える。


「にんげん、めざめたの」

「オヤシロ様に報告ダ!」

「そうなの、そうするの」

「そうだ、そうするゾ!」


 オウム返しのような会話を聞きつつ、キャッキャ、と愉しげに部屋を出ていく双子を視線だけで見送りながら、ゆっくりと身体を起こす。

 ギシギシと悲鳴を上げる身体。億劫だと感じるのは体力がなくなったからか。

 こんなに身体が、起きることを拒否するなんて、私は一体どれだけ眠っていたんだろう。

 身体はボロボロだけど、よく眠ったのだと分かるくらいにスッキリとした思考。いつもなら夫が気になって眠れず常にモヤがかかったかのようなのに。


 時間をかけて、頑張って上半身だけ身体を起こすと遠くから双子の軽い足音と、廊下を軋ませどしどしと重い足音が聞こえてきた。


(きっと、ここの家主様だわ。たしか……オヤシロ様?って言われてた。)


 オヤシロ……大谷氏?それとも八代、屋代……などと言う名前だろうか?

 いくつか名前の候補を想像しつつ、こちらに近付いて来る音が大きくなる。

 せめて、と、身だしなみを整える為にボサボサの髪を手ぐしで梳かしていると、襖が勢い良く開かれた。


「起きたか、人間」


 オヤシロ様、と呼ばれていた人物が上から目線で言葉を投げかけるけれど私はそれどころじゃなかった。


 逆光でよく見えないが、一目見てわかる。目の前に居る人物、いや、オヤシロ様と呼ばれるその姿は――……狐、だった。


 一言で狐と言っても、人間ベースだけども。


 銀髪の長い髪を緩くまとめ肩に垂らし、その目も髪と同じ色をしていて目元には赤の厄除け。そして髪の色と同じの狐耳と九本の尻尾。着流しを緩く着付けているので胸元が見えそうで少し視線をやるのに困った。


 そしてなにより、綺麗な顔立ちをしていた。


「おい、聞いているのか?」

「っ、……」


 喉の乾きに上手く喋れず、頷くだけしか反応が出来ない。


「……これを飲め」


 私が喋れ無い事がわかったのだろう、部屋に入り私が寝ている布団の横に座るとどこからともなく、ぽんっと水が入ったグラスを手の中に出した。


 そのグラスを目の前に差し出されるも驚きに目を丸くして受け取れないでいると、面倒くさそうにオヤシロ様?は舌打ちをする。


「飲め」


 ぶっきらぼうな言い方と低い声に一瞬ビクッと身体を揺らしてしまうと、オヤシロ様は眉を寄せた。命令形だったし、綺麗な顔立ちが不機嫌そうに言うから二割増くらいに怖かっただけなんだけど……。


 そんな私の心情など分からないのは当たり前で、オヤシロ様は自分の横でじゃれつく双子をあしらいつつ、布団の横に座り直すとグラスを持ち上げる。


「毒など入ってない、飲め」


 きっと私が怪しんでるのだと勘違いしたんだろう、再び命令されると、ぐいっと口元に寄せられるグラス。

 傾けられるそれに、零れると思い慌てて閉じていた唇を開けるとゆっくりと冷たい水が喉を潤す。

 ……飲ませてもらっている恥ずかしさ。


 しかしそんな羞恥より乾きの方が上回ってたので飲まされるまま、コップ一杯全て飲み干した。

 するとどうだろう、今まで感じていた倦怠感などが全て無くなっていた。


「すごい、私の身体じゃないみたいに楽になった……」

「そうだろうな。これはあの世の水だから」

「……へ?」

「正確に言えば違うが。現世の者が隔世のものを入れ込んだのだから身体がこの環境に慣れたんだろう」


 ……何を言っているか分からない。

 言葉はわかる、けど、意味がわからない。


「ヨモツヘグイ、した……の!?」

「それに近しいな。そうしないとお前は消えていただろうし」

「え、え、それって……あの!」


 ヨモツヘグイ。

 現世の者があの世の物を食べると現世に戻れないというものではなかっただろうか?

 そんな行為をした私は、これからどうなるのだろうか?現世に帰れない、いや、それ以前にここは隔世と言っただろうか。それはあの世と同じなのか?


「落ち着け、説明してやるから」


 困惑する私に、オヤシロ様と呼ばれる狐は面倒くさそうにため息をついた。






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