千夏とわたし

 


「わたし、みなとくんと付き合うことになったの」


 千夏ちなつに告げた時、端麗な切れ長の目が大きく見開かれた。千夏はわたしの二重を羨ましいと言うけれど、わたしは千夏の一重の目が好きだった。千夏の瞳からは、知的さや神秘さを感じるし、キリッとした一重が、強さをもつ千夏にピッタリだと思ったからだ。


「えっ」


 理解が追いついていないのか、千夏の動きが止まる。だから、わたしは同じ言葉を繰り返した。


「だから、わたし、湊くんと付き合うことになったの!」


 千夏は固まったまま、何も言わない。想定内の反応だ。


 わたしの口から溢れる言葉は、きっと、湊のことが好きな千夏にとって、心を切り裂く鋭い刃物なのだろう。わかっていてなお、告白された状況を説明するわたしは、本当に性格の悪い女だと思う。




 わたしには、大好きな人がいる。


 その人の名前は、小泉こいずみ千夏。


 その子は、ショートカットがよく似合う女の子だった。


 千夏と出会ったのは、中学一年の秋。少しずつ肌寒くなってきて、夏服から冬服への衣替え移行期間に入った時のことだ。


 だんだんと陽が沈んできて、教室が薄暗くなってきた頃、わたしは、一人、電気もつけず、特に入りたくもなかった美術部をサボって、読書をしていた。一番後ろの窓側の席。一人で学校生活を過ごすのに、最高の場所だ。


 中学に入ってから、六ヶ月も経ったというのに、わたしは、学校に溶け込めていなかった。

 成績がいいとか、髪の毛を茶色くして調子に乗ってるとか、何を考えているかわからないとか、そういうよくわからない理由で、クラスの全グループからハブられた。


 中学生なんて、そんなもんだ。中学という小さな世界で、小さな物差ししか持ってないから、そんな馬鹿らしい理由で人をいじめる。本当にくだらない。

 でも、くだらないとわかっていても、自分の所属する集団の人たちに無視され続けるのは、地味に堪える。

 「くだらない」と自分の心にバリアを張っても、たくさんの悪意の刃物を突き刺されたら、簡単にバリアは破られ、じわじわと胸の内を締め付けられてしまう。


 わたしの心が疲弊し切って、限界を感じていた時、千夏は現れた。


「あたしの席で何してるの?」


 ジャージ姿のまま、教室に入ってきた千夏は、開口一番、戸惑いの声を上げた。


「えっ?」


「そこ、あたしの席なんだけど」


「いや、わたしの席ですよ…?」


「……もしかして、泥棒?」


「いやいやいやいや!違いますよ!」


 慌てて否定する。彼女は何を言っているのだろう。


 長く伸びた前髪の隙間から、後ろのドア付近に立っている千夏が、訝しげにこちらを見ているのがわかる。


 もしかして、トイレに行った際に、入る教室を間違えたのだろうか?


 わたしは、慌てて、黒板の方を見た。前方ドアのすぐそばに貼ってあるデカデカとした時間割表は、わたしのクラスのモノだし、黒板の真上には『日進月歩』と、このクラスのスローガンが、貼ってある。


 ここは紛れもなく、わたしのクラス、一年三組だ。


「あの、大変言いにくいんですけど…、教室を、間違えてるのでは…?」


「えっ?ここ何組?」


「三組です…」


 千夏は慌てて教室から体を出し、クラスプレートを確認する。


「うそ、やばっ!ほんとだ!ごっめん…!勘違いでめっちゃ疑っちゃった…。ほんとごめん。不愉快だったよね」


 千夏は両手を合わせ、これでもかというほど頭を何度も下げ、必死に謝る。


「えっと…、あ…、大丈夫…です」


 わたしは目をそらしながら言った。


 当時のわたしは、オシャレにも興味がないのはもちろんのこと、人と話すことが苦手だった。

 自分に自信がなかったからだと思う。自分に自信がないから、前髪を長く伸ばして目を隠し、自分に自信がないから、人とのコミュニケーションをできるだけ避けた。


 だから、この時もわたしはドギマギしてしまい、自分の机で、縮こまることしかできなかった。


「もしかして、貴女も部活サボり?」


「え、あ、まぁ…」


「やっぱり!実は、あたしもなんだ!トイレ休憩中に抜け出しちゃったー。あたし、陸上部に入ってるんだけど、これまたブラック部活でさぁ…。走るの好きだから、陸上部で良かったって思ってはいるんだよ?でも、大会前になると、大会に出ない人たちも、大会に出る人たちと同じメニューやらされる羽目になるから、本当に最悪なんだよね。マジでブラック部活」


 千夏は、おしゃべりなインコのように、聞いてもないことをペラペラと喋り、いつの間にか、わたしの前の席の江田の席に勝手に座っていた。


 さっき、わたしのことを泥棒とか言ってたくせに、自分は他所様のクラスの他人の椅子に座るのか、と心の中で突っ込む。


 千夏は椅子を反対にして、机を挟んでわたしと向かい合った。甘ったるい制汗剤の匂いが、鼻にくる。


 わたしは少しだけ、椅子を後ろに引いた。こんな距離で同級生と話すのは久しぶりだから、どうも、落ち着かない。


 不意に、おでこに柔らかい何かが触れた。


「…わぁ、すっごく綺麗な茶色」


 千夏が身を乗り出し、わたしの前髪を取って、横に流したのだ。千夏の真っ黒な瞳が、わたしの目を捉える。


「ちょ、ちょっと!」


 わたしは、思わず、立ち上がった。前髪がハラハラと定位置に戻る。


「あっ、ごめん…。失礼だったよね。でも、すごくな綺麗な瞳だなって思って、つい…。目もすごく大きくて、羨ましい…」


 羨ましい?この目が?ハーフのなりそこないとずっと言われてきたこの目が?コンプレックスでしかないこの目が?


 初めて褒められた。初めて、綺麗と言われた。


 胸の奥が熱くなる。


 わたしの目が、きれい。


 心の中で復唱する。


 長い間の沈黙。教室の分針の動く音が響く。


「ねぇ、キミ、名前なんていうの?」


「えっ…と、わたしは…」


「あ、いた!千夏ー、何やってんのー!休憩中にいなくなるなって、高垣顧問、めっちゃ怒ってたよ!」


 ジャージを着た活発そうなショートボブの少女が、わたしの声を遮る。


「あーやっば…。行かなくちゃ。色々疑ったり、失礼なことしちゃって、ごめんね。お話楽しかったよ!またね!」


 千夏が大きく手を振り、駆け足で廊下に出ていく。


 少女の制汗剤の匂いだけが、そこに取り残された。


 校庭にいる千夏のことを、教室から見つめるようになったのは、その日からだった。


 もう秋だというのに、千夏は短パンを履いて、いつも全力で走っている。

 余分なモノを削ぎ落とした、シンプルで鍛えられたふくらはぎの曲線が、美しい。キリッとトラックをみつめて真剣に走る姿が美しい。時折、汗を拭う仕草が美しい。千夏の姿は、『美』そのものだった。


 わたしは、遠くから、彼女を見ているだけで、生きる希望をもらえた。つまらない毎日に光が差した。


 千夏ばかり目で追っているうちに、千夏のそばには、いつもある男の子の存在があることに気がつく。みなとだ。

 わたしの目が千夏を追っているのと同様、千夏の目はその男の子を常に追っている。千夏は、湊のことが好きなのだ、とわかるのに、そう時間からかからなかった。


 あの二人が結ばれてほしいな、と思った。わたしに日々の幸せを与えてくれている千夏には幸せになってほしい、と心から願った。


 そのうち、わたしは千夏の持つ美しさに感化され、わたしも千夏の美しさに近づきたいと思うようになった。


 表参道の有名な美容室に行って、髪の毛を整えた。スキンケアをするようになった。動画を見ながら、運動をするようになった。

 千夏の社交性も見習い、今まで最低限しかしてこなかった会話を、もっと膨らませて、雑談をするようになった。


 わたしは、千夏に近づけているだろうか。


 そんなことを思いながら、生活しているうちに、男子の視線が変わり、女子の態度が変わった。

 いつの間にか、わたしの周りには『友達』がたくさんいるようになった。


 でも、誰も千夏の代わりにはならない。


 遠くで見ているだけではなくて、千夏と友達になりたい。千夏のそばで、笑いたい。そう強く願うようになった。


 今までお手入れしていなかったから気がつかなかったけれど、どうやら、わたしは『可愛い』と言われる部類の女の子だったらしい。

 だから、柔らかい話し方に変えた。わたしの可愛いが、最大限発揮されるように。いつか、千夏と会った時にまた、可愛いね、綺麗だね、って思ってもらえるように。


 二年生に上がり、クラス表の紙を見たときは、思わず紙を握りしめてしまった。

 『二年二組三番大園朱凪。五番小泉千夏』。

 紙にはっきりと二人の名前が書いてある。


 多分、彼女だ。そうであってほしい。


 わたしは一歩一歩力を込めて教室へ行く。そこにはわたしの憧れの存在である千夏がいた。だけど、臆病なわたしには、大好きな存在である千夏に声をかける勇気がなかった。


 でも、でも、わたしは絶対に千夏と友達になりたい。もしかしたら、わたしのこと覚えててくれるかもしれない。可愛く、奇麗になったねって言ってくれるかもしれない。声をかけても損はないはずだ。


「ねぇ、千夏ちゃんだよね?」


 クラス替えから何日かたった昼休み、一人窓の外を眺めていた千夏に、意を決して声をかける。


「あ、うん。そうだけど…?」


 千夏の戸惑うような表情を見て、すぐに、千夏は、わたしのことを覚えていないことが、わかった。


 しょうがない。


 千夏が何も覚えていないのは、しょうがない。

 わたしにとっては、特別な日だったとしても、千夏にとってはただの三百六十五日のなんの変哲もない一日だったってだけ。


 これから少しずつ、距離を縮めていけばいい。


 その日から、わたしは毎日千夏に声をかけ、千夏と仲良くなった。自他ともに認める『親友』というポジションを獲得した。嬉しかった。千夏に「朱凪が一番の友達だよ」と言われたときは、家に帰って喜びの涙を流した。


 でも、どうしてだろう。わたしの心は満たされない。もっともっと、千夏の『特別』な存在になりたい。『一番』になりたい。わたしの千夏への思いがとまらない。


 わたしの心は少しずつ、すり減っていった。


「ねぇ、ユキ、昨日のイリーナの配信見た?」


 わたしに向ける笑みと全く同じ笑みを向けられる女達。


「え、ほんとに?湊が似合うっていうなら、これからも前髪分けようかな…?」


 愛のある『特別』な微笑みを送られる湊。


 ここに、わたしだけの『特別』は、ない。


 千夏との距離が近づくたびに、満たされてはすり減って、満たされてはすり減って…。しまいには、もう満たされもしない。

 最初は、千夏と友達になれて幸せでいっぱいだったはずなのに、千夏と仲良くなればなるほど、心に空洞ができた。


 友達になれた。親友になれた。今だって、親友として、千夏の隣にいる。でも、その先は?わたしたちに、その先はあるの?


 わたしにとっての一番は千夏なのに、千夏にとっての一番はわたしじゃない。友達としては、一番でいられるかもしれない。でも、わたしは、本当の意味で、千夏にとっての一番にはなれない。


 千夏はこの先、愛する人と結婚して、子供ができて、わたしよりその人たちを愛するのだろう。その人たちを優先するのだろう。わたしは、たまに出てくる親友のポジション。千夏の幸せを見守るだけの、ただの友達。


 千夏の幸せの先に、わたしはいない。


 わたしは、ただの友達から先には進めない。


 千夏の一番にはなれない。


 友達以上で、心に刻まれることはない。


 そのことが、寂しくて、辛くて、虚しい。わたしの心を蝕んでいく。


大園おおぞのは部活どうすんの?」


 激しい紅が世界を包んだ日、湊は薄い唇をキュッと引き締めながら、問うた。


 湊のまっすぐな目がわたしの瞳を射抜く。その目があまりに真剣で、わたしの体が少し強張った。

 わたしは、湊から視線を逸らしながら、帰宅部に入ることを告げると、湊は寂しそうに笑った。

 それは、初めて見る表情だった。いつもはこんな顔しないのに、どうしてそんな複雑そうな顔をするのだろう。


 ふと、千夏が目に入る。


 その瞬間、わたしの胸の奥に閃光が突き抜けた。


 憂いを帯びた、けれども、内側に強い闇を隠し持った鋭い瞳で、わたしのことを見つめていたのだ。いや、正確には、睨みつけていた。


 胸の鼓動が早くなる。


 どうして?どうして、なんで、そんな激しい目でわたしを見つめるの?


 もしかして、湊と話しているわたしに、嫉妬、してるの?


 動悸が激しくなり、苦しくなる。なのに、わたしの心の中は、なんとも言えない充足感で満たされていく。初めての感覚だった。


 だって、その目は、千夏が他の誰にも向けたことがない、特別な目だったから。わたしに強く執着する目。深くわたしに嫉妬する目。わたしにしか、注がない目。


 わたしは今、千夏の中で、『特別な存在』なんだ。


 ぞくり、と背筋が粟立った。


 「変わらない関係がいい」と、あの日、わたしは言った。これは、本心だ。ずっとこのまま、学生のままで、学校という狭い世界の中で、二人、仲良く過ごす。


 …だけど、そんなことは不可能だということをわたしは知っている。わたしたちは変わらなきゃいけない。


 だったら、どう変わる?

 深く、深く、千夏に見てもらうためには、わたしはどう変わればいい?


 わたしは大きく一歩を踏み出し、真っ赤な空に手を伸ばした。




 あの日、あの時、わたしは空に誓った。


 嫌われたっていい。千夏の心にわたしという存在を刻み込むことができるなら。わたしを『特別』にしてくれるなら。


 それが愛だとか恋だとか、そんなことはどうでもいい。ただ、わたしという存在が、千夏にとって『一番』になれば、それでいい。


 やっと今、その願いが叶う。湊という千夏の大切な人を奪うことで、わたしの願いが叶うのだ。


「ねぇ、千夏聞いてる?」


 千夏は呆然としていた。わたしの話など、聞いていない。


 こんなにわたしは幸せなのに、どうして千夏の心は今、ここにないの?わたしを見て、わたしを見つめて。そして、わたしで頭の中をいっぱいにして。


「あ、ごめん…。ごめん、朱凪。あたし、ちょっとトイレ」


 千夏は、ずっと食べたいと言っていたコッペパンを手からこぼして、教室の喧騒を駆け抜ける。


 わたしは、ゆっくりと立ち上がり、窓側へ行った。


 千夏のことならなんでもわかる。こんな時、千夏は走るだろう。走って、走って、泣くのだろう。


 しばらくすると、グラウンドに一本の可憐な花が咲いた。千夏がそこに存在するだけで、その場が華やぐ。千夏は一本の花だ。


 ほれね?わたしが『一番』千夏のことをよくわかってるでしょう?


 窓から千夏がグラウンドを走っているのがよく見える。燦燦と降り注ぐ太陽が千夏の小麦色の肌を灼く。


 やはり、走ってる千夏は、誰よりも美しくて、儚い。


 ごめんね、千夏。大好きな千夏を傷つけてごめんね。不器用でごめんね。歪んでてごめんね。

 本当に大好きなのに、千夏を傷つけることでしか、自分を刻むことができないわたしを、



 一生忘れないでいて。許さないでいてね。





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燃ゆる瞳を見つめて 佐倉 るる @rurusakura

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