燃ゆる瞳を見つめて

佐倉 るる

朱凪とあたし



「わたし、みなとくんと付き合うことになったの」


 朱凪しゅなが色素の薄い茶色く大きな目を柔らかく細め、赤らんだ頬に両手を当てた。


「えっ」


 あたしは、手に持っていた菓子パンの封を開けようとしていた手を止める。


「だから、わたし、湊くんと付き合うことになったの!」


 教室の昼休みの雑音が、突然、ピタリと止んだ。


 どくんどくん、どくんどくん、と自分の心臓の音だけが、痛いほどよく聞こえる。


 ワタシ、湊クント、付キ合ウコトニナッタノ。


 彼女は、今、なんと言ったのだろうか?それは、どういう意味なのだろうか。


 ワタシ、湊クント、付キ合ウコトニナッタノ。ワタシ、湊クント、付キ合ウコトニナッタノ。ワタシ、湊クント、付キ合ウコトニ…。


 朱凪が放った一言が何度も頭でリピートされて、止まらない。


「ね!びっくりでしょ?本当は、もっと早く千夏ちなつに伝えようと思ったんだけど、こういうのって、直接話した方がいいかなって思って。湊くんは千夏の幼馴染なわけだし…。それでね、付き合った経緯なんだけどね、昨日の放課後ね、湊くんに『部活終わるまで待ってて欲しい』って…」


 朱凪の声がぼんやりと遠くに聞こえる。地元のラーメン屋さんにお昼を食べに行った時に、流れている興味もないラジオ番組を耳に入れているときみたいだ。

 聞いているわけじゃなくて、ただぼんやりとそこに音が流れているだけ。今、朱凪の声は、それだった。



 あたしには、大好きな人がいる。


 幼馴染の瀬谷せや湊。


 物心ついた時から、あたしと湊は、いつも一緒だった。保育園も、小学校も、中学校も、そして、今現在、通う高校も。

 湊のお母さんと、あたしのお母さんが、母親学級で仲良くなって、そこから瀬谷家と小泉家との親しい交流が始まったらしい。


 湊への恋心に気がついたのは、中学二年の梅雨。その日は良く晴れ、夏の匂いを感じさせる蒸し暑い日だった。


 あたしと湊は、部活の終わるタイミングが同じだった日は、よく一緒に下校していた。


「なぁ、お前らってさ、付き合ってんの?」


 同じクラスの中城にそう言われたのは、日が沈んでいく中で、湊と一緒に肩を並べ、閑静な住宅街を歩いている時だった。


「開口一番なんだよ。付き合ってねぇよ」


「またまたぁ。お前らよく一緒に帰ってんじゃん。俺、お前らと帰る方向同じだから知ってんだぜ」


「本当に付き合ってないよ。湊とは幼馴染で仲良いだけ」


「ほら、小泉こいずみは瀬谷を下の名前で呼んでんじゃん。たしか、瀬谷も小泉のこと下の名前で呼んでたよな?こりゃ、確実に付き合ってるだろ。クラスのみんなも言ってんぞ。お前ら『オシドリ夫婦』みたいだなって」


 値踏みをするように、酷くニヤついた顔で中城なかじょうが、あたしと湊を舐めるように見る。


 急に頬が熱くなった。みんなに、恋人同士に見られていたなんて。しかも、噂されてたなんて。

 途端に、視線を感じた。下校中の生徒がみんな、あたしと湊にゲスな視線を送っている。みんな、あたしたちを見て、ヒソヒソ話して笑っているのだ。


 それが、自分の自意識過剰な勘違いだと、今ならわかる。だけど、当時のあたしは、人の目が気になって仕方ない年頃だった。

 人の視線が、噂話が、今のこの状況が、恥ずかしくて、惨めで、いたたまれない。


「小泉、何照れてんだよ。まじでウケる」


 あたしが耐えられなくなって俯いた瞬間、

「マジで、付き合ってないから。ていうかさ、男女で仲良くしてたら『恋人』しかないわけ?俺は『恋人』じゃなくて、『友達』として、千夏と仲良くしてんの。つーか、男と女を『男女の恋仲』でしか測れないとか、逆に恥ずかしくないの?」

 と、湊は、恥じるでもなく、照れるでもなく、胸を張って堂々と中城に言い切った。夕陽が、湊のまだ幼なさの残るなめらかな横顔を照らす。


「なにムキになってんの。少しからかっただけじゃん」


「じゃあ、そういうからかいは、やめたほうがいいと思うよ。クソつまんないから。千夏も、人の意見なんて気にしなくていいよ。言いたいやつには、言わせとけ」


 ああ、そうだ。湊はこういう奴だ。人にどう思われてるかなんて考えず、自分の信じる道を突き進む人。実直で、まっすぐな人。


 中学に上がって、みんなが『男』と『女』に変わっていって、友達という関係に変革が起こっている中で、湊だけは変わらなかった。湊だけは、あたしを『あたし』として、接してくれた。


 湊は、他の誰とも違う。あたしの、あたしだけの、大切な人。


 胸の奥が甘く疼く。もどかしくて、とりとめもなくて、体が熱を帯びてくる。


 さっきの惨めさとは明確に違う、心地が良くて、ちょっぴり苦しい感覚だった。


 あたしは、この瞬間、湊を「男」だと認識してしまったのだ。「好きだ」という気持ちが、胸の奥から洪水のように溢れ出てきてしまったのだ。


 思えば、自覚していなかっただけで、ずっとずっと、湊のことが好きだったのだと思う。

 小学校の頃、髪を切った日、湊に、

「短いの似合うね」

 と言われてから、ずっとショートカットを維持しているし、湊がハマっていた少年漫画は全てチェックしたし、『湊の一番の親友はあたし』と、クラスのみんなに豪語していた時もあった。


 そう、あたしは自覚する前から、心の底で、ずっとずっと湊のことが好きだったのだ。


 好きだ、と自覚してからも、あたしは湊と良き友達関係を続けた。いつか、この気持ち伝えられたらいいなと淡い期待を胸に抱きながら。


 そんな湊との『友達』関係に朱凪が加わったのは、いつからだっただろう。

 確かあれは、中学二年生の春。クラス替えから数日経った日のことだった。


「ねぇ、千夏ちゃんだよね?」


 昼休み、湊や同じグループで仲良しだったみんなとクラスが分かれてしまい、一人窓の外を眺めていたあたしに、朱凪が声をかけてきた。


「あ、うん。そうだけど…?」


「もしかしてなんだけど、仲良い友達とクラス離れちゃった感じ…?」


「あー…、そうだね。そんな感じ」


「あのね、実はわたしもなの…。クラス替えで仲良い子と離れるとか、最悪だよね…。このクラスのほとんどの子たち、一年の時の仲良しグループで固まってるし。…ねぇ、千夏ちゃんさえよければなんだけど、仲良い子と離れちゃった者同士ってことで、わたしたち、友達にならない?」


 朱凪が微笑んだ。開いている窓から風が吹き込み、朱凪の後ろのクリーム色のカーテンがそよぐ。


 天使のような子だと思った。


 色素が薄いのか、肌が透き通るように白く、髪の毛もほんのり茶色だ。あたしと違って、目鼻立ちがしっかりとしており、光り輝く茶色い瞳に吸い込まれそうだった。校則を守って、長い髪を二つに結っているのに、野暮ったさはなく、むしろ、それがとてもよく似合っていた。


 可愛らしい女の子。クラスでマドンナと言われて持て囃されそうな女の子。陸上部に入り、色っけもなく、不器用でガサツなあたしとは正反対だ。


「あたしなんかで、いいの?」


 思わず口をついていた。正反対すぎて、朱凪と仲良くなる未来が見えなかったのだ。


「あはは、なにそれ!いいに決まってるよ!わたし、大園朱凪って言うの。よろしくね」


 朱凪が右手を差し出した。二つ結びが揺れる。


 あの日から、あたしと朱凪は親友と呼べるほど、仲良くなった。そこに、いつの間にか流れるように湊も加わって、仲良し三人組が出来上がった。


 中学三年生の下校中。夕焼けの空が怖いほど赤く、あたしたちも紅に染められた日、あたしたちは、朱凪を真ん中に、三人で横並びになって、将来のことを話していた。


「そろそろ受験かぁ…。まさか、三人とも志望校が被るなんて思ってもなかったよ。あーぁ、三人で受かって、高校でもバカやりたいなぁ」


「やりたい、じゃなくて、やるんだよ。千夏ってこういうとき、弱気になるよな」


「そうだけどさぁ。湊と朱凪はいいよ?頭いいもん。学校内でも優秀で、間違いなく合格圏内。でも、あたしは内申点も成績もギリギリ。こないだの三者面談で、森本に『滑り止めは手堅いところ、ちゃんと受けろよ』ってどやされちゃったし」


「大丈夫だよ。わたし知ってるもん。千夏が勝負運がめちゃめちゃ強いってこと。だから、絶対受かるよ」


「それって、結局、運頼みってことじゃん!」


「あ、いや、そういうことじゃなくて!」


 あたしが笑う。朱凪も笑う。青春と呼ばれるような瞬間を過ごしながら、ゆっくりと家に向かって、歩き続ける。


「てか、大園おおぞのは高校入ったら、部活どうすんの?」


「えっ、なんで朱凪にしか聞かないの?」


「だって、 千夏は、今まで通り陸上部だろ?」


「ちょっと!勝手に決めつけないでよ!…まぁ、陸上部に入る予定だけど」


「だよな。千夏といえば、猛ダッシュってイメージだし」


「どんなイメージなの?それ」


「そういうイメージだよ。千夏は昔からランニング好きだったし。小学生のとき、鬼ごっこしてても、男子顔負けの体力で一回も鬼になったことないっていう伝説とかあったし。だから、千夏は猛ダッシュってイメージなの。…で、俺も、これまで通りテニス続ける予定なんだけど、大園はどうすんのかなって思ってさ」


 湊は、朱凪と仲良くなって、一年経っても、朱凪のことを苗字で呼んでいた。


 湊と朱凪が楽しそうに話していると、時折、足の辺りがずしりと重くなり、少し苛立つことがあった。


 あたしの方が湊との友達の暦が長い。あたしの方が湊と仲良い。あたしの方が湊のことをよく知っている。湊もあたしのことをよく知っている。湊は決して朱凪のことを名前で呼ばない。


 苛立つたびに、心の中で唱え、安堵する。


 朱凪のことも大好きなのに、こんな風に心の中で、朱凪に張り合ってしまう自分が嫌になってしまう。


「あー…。そうだなぁ…。帰宅部になろうかなって思ってるんだ。中学では、みんな部活に入らないといけなかったから、美術部に入ったけど、別に絵が好きなわけでもないし、特にやりたいこともないから…」


「そっか、じゃあもう三人で帰れないんだな…」


「…大丈夫だよ。帰宅部なんて、ただの暇人なんだし、本でも読んで、千夏と湊くんが部活終わるの教室で待ってる」


「お、まじ?やったね。…こうやって帰れるの、マジ幸せだもんな。高校に行っても、この三人でさ、仲良くできたら最高だよな」


「そうだね…。だから、三人で絶対受かろうね。わたしも千夏と、…みんなで、帰りたいもん。このまま、この関係が変わらないまま、同じ高校に通いたいな」


 朱凪が大股で、一歩前に躍り出て、空に向かって手を伸ばす。


 あっ。


 あたしは、息を呑んだ。朱凪を見つめる湊の横顔が、あまりにも美しかったから。切なげで、儚かったから。


 湊の朱凪を見る目が違う。それは、惚れた『女』を見ている目だった。誰にも公平で、誰にでも優しい湊の視線が、朱凪を見つめるときだけ、特別な視線に変わる。


 夕焼けが、紺と混じり合った鈍い紅に変わっていく。遠くで、笑うように一番星が瞬いた。


 あたしは表情を見せないように、二人より歩幅を小さくする。二人の斜め後ろ。朱凪の表情も、湊の表情も、よくわかる位置。でも、あたしの顔は誰にも見られない位置。


 口の中が乾き、目の奥が痛い。心臓が大袈裟に音を立てる。胸が引き裂かれそうだ。


 湊は優しい微笑みを、柔らかい声音を、朱凪に贈っている。


 いつも、いつも、湊を見ていたからわかる。わかってしまったのだ。


 湊は朱凪が好きなんだ。きっと、ものすごく。




 あの日も、今日みたいに全ての音が、声が、BGMのようにぼやけて聞こえてたっけ。


 ガサツで大雑把なあたしより、朱凪の方が可愛いって、わかっていた。

 あたしみたいに一人でなんでもできそうな女は可愛げがないって、わかってた。

 か弱くて、守ってあげたくなっちゃうような女の子が湊の好みだってことぐらい、わかってた。

 『選ばれるのは、あたしじゃない』って、あの怖いほど紅い夕焼けの日から、わかってたはずなのに。


 今まで、隠していた胸の内が疼く。行き場を失った感情が、疼き続ける。


 もし、湊が朱凪に告白する前、あたしが湊に告白していたら、何か変わっただろうか。


 ううん、きっと何も変わらない。湊はあたしをまっすぐ見て、「ごめん」と謝るのだろう。


 ねぇ、あたしに一体何ができたというの?


「ねぇ、千夏、聞いてる?」


 朱凪の声で、現実に引き戻される。


 その一瞬、朱凪の顔が、哀しみで歪んでいるように見えた。それは、笑いながら、今にも泣きそうな顔だった。


 朱凪、どうして、貴女がそんなに寂しそうな顔をするの。


 もしかして、あたしが湊のこと、好きなの知ってたんじゃないの?知ってて、湊と付き合うことにしたんじゃないの?


 なんてずるいの。なんで強かな女なの。あたしに近づいたのも、湊を狙ってたからだったんじゃないの?


 自分の中の黒い感情が、身体中から噴き出て、破裂しそうになる。


「あ、ごめん…。ごめん、朱凪。あたし、ちょっとトイレ」


 あたしは教室を飛び出していた。その場にいられなかった。無理だった。


「おめでとう、よかったね」「これからも同じように仲良しな友達として接してね」「あたしを仲間はずれにするのは、なしだよ」…。


 言うべき言葉はたくさんあるのに、どの言葉も喉につっかえて、出すことができない。


 出てくるのは、あたしの方が前から湊のことを好きだった、とか、あたしの方が湊のことをよくわかってる、とか、この泥棒猫、とか、ただ顔がいいだけの空っぽ女、とか、そんな惨めで、酷い言葉ばかりで、吐き気がする。


 あらゆる声が、感情が、言葉が、音にならない叫びが、喉の奥で堰き止められ、あたしの中にこだまする。


 がむしゃらに走ってたどり着いた先は、グラウンドだった。


 昼休みということもあり、サッカーをしている者やランニングをしている者など、いろんな人がいた。

 あたしは、トラックの真ん中に立つ。


「あっ、コッペパン」


 手元に先ほどまで持ってたコッペパンがなくなっていることに気がついた。おそらく教室に忘れてきてしまったのだろう。


 先週、売店に売られるようになったばかりのコッペパンだ。大人気すぎて、全然買えず、やっと買えたコッペパンなのに。


「食べたかったな」


 大失恋をしたというのに、最初に口に出る言葉がコッペパンのことなんて、自分でも笑えてくる。


 胸の奥がじわじわと炙られる。痛くて、苦しくて、燃えて、熱い。


 あたしは大きく深呼吸をして、制服のまま、トラックの中を走った。


 痛い、痛い、痛い。


 足が地面につくたびに、心の痛みが増す。涙を流したいのに、涙すら出ない。


 速く、もっと速く。


 何かに急かされるように、あたしは走った。


 止まってしまったら、現実を受け入れなくてはならなくなってしまう。何もかもが、終わってしまう。

 湊が幸せならそれでいいと思えるほど、あたしは大人ではなかった。湊と朱凪が付き合った今ですら、彼への気持ちを抑えきれない。こんなこと思っちゃいけないとわかっているのに、朱凪が消えればいいとさえ、思ってしまう。


 きっと、あたしはこの後、教室に戻って、いつものように笑うのだろう。

「おめでとう」と、思ってもいない祝福の言葉を湊と朱凪に言うのだろう。

 湊を好きな気持ちを捨てきれないまま、朱凪のことを恨みながら、あたしは、いつものように二人と過ごすのだろう。


 だけど、今は、今だけは、自分の気持ちに正直でいたい。苦痛を隠したくない。


 ああ、痛いな。二人とも、大好きだったのに。


 あたしは、息を殺して走りながら、憎たらしいほど青い空を見上げる。夏のじめっとした熱風があたしの身体を焦がした。


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