第2話 現実を受け入れて

(は? カピバラが喋っとる? いやヌートリアか? いやどっちでもええわ! 何やのこれー!)


 そう思えるだけ、渚沙なぎさはまだ冷静さを保っていたのかも知れない。カピバラだろうがヌートリアだろうが、動物が喋るなんてありえないはずでは無いか。それでもあまりの衝撃で、その場にへなへなとへたり込んでしまった。


 するとその動物は渚沙のそばに降りて来た。カピバラだかヌートリアだか、どちらにしてもそんな可愛い動物であるはずなのに、渚沙は「ひっ」と戦慄せんりつの声を上げ、肩を震わした。


「お前、あやかしが見えるのだカピな」


「……は? あやか、し?」


 動物が喋ることにも大いに驚いているのだが、あやかしだなんて非現実なワードが出て来て、渚沙はますます混乱する。


 渚沙は目を白黒させて硬直するしか無かった。この展開は一体何だ。渚沙はどうすれば良い。どうすれば乗り切れる? すると目の前の動物、どう見てもヌートリアあらためカピバラは、「ふむ?」と不思議そうに首を傾げた。


竹子たけこが見えると言うことは、あやかしが見えると言うことカピ?」


「……え?」


 もう渚沙は「あ」とか「え」とかしか口にできない。頭の中は「何やこれ!」しか浮かんでくれない。思考したくでも真っ白だ。


 そもそもあやかしとは何だ。渚沙はまた呆然としてしまう。あやかしとは、渚沙の中では幼いころに見たアニメの世界だ。顔の片側を髪の毛で隠した隻眼の少年が、頭に目玉が顔の父親を潜ませて、悪いあやかしなどを退治するというお話だったと思う。


 いや、これはアニメの世界では無い。現実に、カピバラが目の前で喋り、暗に自分があやかしだと言っているのだ。


 ……そもそもこれは現実だろうか。もしかしたら渚沙はJR阪和線に乗り込んでから寝込んでしまい、大仙陵古墳に来たことも今も、夢なのでは無いかと思い始める。


 そうだ、きっとこれは夢だ。夢の中では確か、……確か頬をつねるかして、痛かったら現実、痛く無かったら夢。古典的ではあるが、やってみるしか無い。


 渚沙は意を決して、思いっきり右の頬をつねってみる。すると。


「痛ったぁ!」


「何をしているカピか」


 つねった右頬を両手で抑えて悶絶もんぜつしている渚沙を、カピバラは呆れた様な表情で見ていた。カピバラの表情の変化などは実際には分かりにくいだろうに、渚沙は不思議とそう思ったのだ。


「これ、現実?」


「現実だカピよ。お前はあやかしが見える人間なのだカピ」


「え、知らん知らん知らん。あやかしとか初めて言われた。見えたことなんかあれへん。え、何やこれ」


 ようやくまともな言葉が口から出て来た。いや、これがまともなのかどうかは怪しいところだが、とりあえずせりふにはなっている。


 渚沙の目線はあちらこちらに動く。拝所があり、お濠があり、古墳の緑が広がる。ここまでは普通の人間の世界である。そして正面に佇むカピバラに戻り、途端に何かの力によって夢か現か分からない世界に投げ込まれた様な気分になる。


「あや、かし?」


「そうカピ」


「カピバラやんな? あやかしなん?」


「長く生きて、でもまだ生きたくて、カピ又になったのだカピ。カピバラのあやかしなのだカピ」


 意味がまるで分からないのだが、ひとまずこれが現実だということは、どうにかこうにか受け入れようとしている渚沙である。が。


「いや、やっぱり意味分からへんねんけど、あやかし? おるん?」


「いるカピよ。竹子が見えるのに、お前は今まであやかしを見たことが無いのだカピか?」


「あれへんよ。あやかしって、私ん中ではアニメとか漫画とかやもん。え、ほんまにどうゆうことなん?」


 まだ受け入れ切れない渚沙に、カピバラは「やれやれカピ」と溜め息を吐いた。


「竹子はカピバラのあやかしなのだカピ。そしてお前は、あやかしが見える人間なのだカピ。ただそれだけなのだカピ」


 そうきっぱり言われてしまっても、渚沙は困惑してしまうだけである。


「でも、私今まであやかしとか見たことあれへんで。それやのに何でこんないきなり」


 渚沙は焦る。だがカピバラは冷静に口を開く。


「あやかしはそこかしこにいるカピ。けど、お前の目にはきっと日常に溶け込んでいたのだカピな。あやかしにはいろいろな姿のモノがいるカピ。人混みに紛れているモノもいるカピ」


「……そうなんや」


 これは現実で、目の前には喋るカピバラがいる。周りには少数ではあるが観光客がいて、こちらには目もくれない。カピバラのことは見えていないのだろうし、このままだと渚沙が不審人物になりそうだ。


 その時、渚沙の肩が背後からぽんと叩かれた。振り返ると、案内ボランティアのおじいちゃんだった。細面で白い毛髪が豊かなおじいちゃんは、気遣わしげな表情である。


「お嬢ちゃん、大丈夫か? 体調が悪そうやけど」


 この大仙陵古墳には、ボランティアで古墳の案内をしてくれる人が詰めている。首からそうと分かるパネルを掛けているので、一目で分かるのである。渚沙はおじいちゃんにどうにか笑顔を向けた。多分引きつっていただろうが。


「だ、大丈夫です。ちょっとふらついただけなんで。もう平気です」


「そうか? もししんどかったら言うんやで? タクシーとか救急車とか呼んだるからな」


「はい。ありがとうございます」


 おじいちゃんは安心してくれたのか、ぶらぶらとその場を離れて行く。おじいちゃんにはきっとカピバラは見えていなかった。もし見えていたら大ごとになっているはずである。周りにも気付かれて、大騒ぎどころの話では無くなるだろう。


 渚沙はあらためてカピバラを見る。普通の大人のカピバラである。動物園などで見る様な個体と何ら変わらない。モリージョが無いのできっとめすだ。


「ほんまに私にしか見えてへんねんなぁ」


「そうカピね。探せば他にもあやかしが見える人間がいるかも知れないカピが、少なくとも竹子があやかしになってからはお前が初めてカピ」


「そうなんや」


 渚沙はようやく現実を認識しつつあった。自分はあやかしが見える体質で、このカピバラはあやかしである。


 おや、そうすると、あの噂は何だったのだろうか。


「あんな、私、ここにカピバラが棲んどるって噂聞いて、それで見に来たんよ。もしかしたらあやかしが見える人が他にもここに来て、あなたが見られたってこと?」


「その可能性もあるカピが、ここには生きてる生身のヌートリアもいるカピ。それが見間違えられた可能性が高いカピ」


「なるほどなぁ」


 渚沙はようやく納得して息を吐いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る