第30話 貧民街へ
(こんな気持ちで外に出るなんて。もっと晴れやかな気分で出たかった)
今日は滿月。貧民街に連れ出してもらえる日だ。
しかし
(
ぼうっと門まで足を動かしていた曄琳は、既に門の下に人陰があることに気づいた。相手もこちらに気づいたのか、首だけ回して確認してきた。
「…………………………あれ?」
「どうしました」
そこには姚人ではなく、
「少監がなんでここに」
「姚人は別用を言いつけているので、途中から合流します」
「そう、ですか」
何か問題でもといいたげな視線に、曄琳は無言で明後日の方向を向いた。
(藍染め……いかにも自分が金持ちだと言ってるようなものだわ)
服の形は庶民に溶け込めそうなものだが、藍色という選択はあり得ない。
藍は庶民には到底手の届かぬ染料。そんな藍を使った衣が安い訳がない。暁明は大抵をそつなくこなすのにこういった機微は上流階級の人間のそれで、どうにも理解しがたい。無知とは恐ろしいものである。
これから貧民街へ行くのに悪目立ちしそうで、曄琳は気が重くなった。
◇◇◇
曄琳のもと住んでいた場所までは歩くと半日以上かかると事前に伝えていたこともあり、暁明は馬車を手配していた。藍染めの件もあり
人目を避けるため
――懐かしい。
曄琳はじっと流れる景色を見つめる。
屋根に
宮廷の瓦屋根に白塗りの整然とした佇まいを見慣れてしまうと、なんとも言えぬ虚無感を覚えてしまう光景であった。
まさに
「まだ先でしょうか」
暁明が問うてくるので、曄琳は是とだけ答えて外の景色を眺めるのに戻った。
ここに来るまでの間、二人に会話らしい会話はなかった。暁明は普段立ち入らぬ区域故に物珍しいのか、外の景色に
無駄な会話がなくてありがたかった。もし相手が姚人だったら、もっと騒がしい道中になっていたに違いない。行きの相手が暁明でよかったと、不本意ながら思うのだった。
しばらく進むと、もといた貧民街の入口に近づいてきた。曄琳がそろそろだと言うと、暁明が馬車の床を二度蹴った。合図に気づいた御者が馬の手綱を引いて車を止めた。
砂利に乗り上げたような音がして、車輪が完全に止まる。立ち上がると長時間の移動に耐えた尻が痛かった。
外は脳天を刺すような日差しが降り注いでいた。熱気に思わず顔を顰めた。さっさと目的地に移動した方がよさそうだ。
先に降りた暁明に続き、曄琳も荷台から降りた――のだが、長く馬車に揺られたことで平衡感覚が馬鹿になっていたようだ。降りた勢いで少したたらを踏むと、暁明に腕を掴まれた。
支えられたのだと気づいて見上げると、探るような目をした暁明と視線が絡まる。
「寝不足ですか?」
「え?」
「隈」
トン、と己の右目の下を指で叩く暁明。
――ああ、隈か。曄琳は自身の目を擦る。
「昨晩は、その、寝苦しくて」
適当な嘘で誤魔化すが、暁明の探るような目は変わらない。
「昨日は先に掖庭宮から引き上げましたね。私は戻ると伝えていたはずですが」
「待っていろとも言わなかったじゃないですか」
「ええ、そうですね」
彼の目は藍がかっていた。初めて気づいた。
「
妙なところで鋭い。それとも、自分がわかりやすいだけだろうか。
曄琳は暁明の手を腕から外すと、先立って歩く。
「行きましょう。ここにいると暑さで倒れちゃいますよ」
背後でため息が聞こえたような気がしたが、無視することにした。
貧民街も街とつくからには、
懐かしいような、不安なような。そんな気分で暁明とふたり、門をくぐり抜けた。
(母様の痕跡は房屋には残ってないし、遺品も
暁明には忘れ物を取りにいくとしか伝えていない。ここで変に隠すような態度をとれば、暁明に怪しまれかねない。
曄琳は手汗を拭うと、目的の養母の住む場所へと向かった。
路地裏の奥、日の当たらぬ戸口は昔と変わりがない。曄琳はなんと声を掛けるか迷って、「ごめんください」と戸を揺らす。自分の住んでいた家にごめんくださいはないだろうに。思わず心の中で呟いた。
中に人の気配はある。
薪木の音、釜の音、そして億劫そうに立ち上がる足音。そういえばそろそろ昼時だ。朝を食べていないことに気づいて、空腹だなぁとぼんやりと思った。
「あンだよ、何か用……て、アンタ……」
養母――
縮れた黒髪に、染みと日焼けで赤茶けた肌。数日水を浴びていないのか、湿気に混じってツンと汗の匂いが鼻を刺す。
なんにも変わってない、と曄琳は方蘇を見下ろす。曄琳を売ったことで多少金は入ったはずなのだが、生活が上向いた様子は見受けられなかった。
「お久しぶりです」
「アンタ、なんで……王城に、行ったんじゃ」
「忘れ物をしたので取りに来ただけです。すぐに帰りますから」
曄琳が中に入ろうとすると、方蘇に阻まれる。
「アンタの物はここにはなンにもないよ。出てっとくれ」
「なら、せめて確認だけでもさせてください。笛子がありませんでしたか?」
「ないよ、そンなもん」
取り付く島もない。方蘇は胡乱な目をして曄琳の背後に目を向ける。
「後ろの男は誰だい」
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