第31話 価値観
おっと忘れていた。
「ええと彼は――」
「私は彼女の
贖身……?
曄琳ははてと首を傾げる。
(ああ、
ちょうど暁明も良家の男風な出で立ち、悪くない設定だ。
暁明が一歩前へ出る。
「よろければ中を見せていただけませんか。彼女がどうしてもと言うので、今日も――」
「そっちがいきなり押しかけてきたンだろ。どうしてもって言うンなら……それなりの誠意の見せ方ってもんがあるンじゃないのかい」
曄琳は顔が強張るのを感じた。横目で暁明の表情を確認する。よかった、怒った様子は見られない。
暁明は穏やかな表情を崩さず、ただ微笑んでいる。
「誠意といいますと」
「坊やには難しい話だったかね?」
「ふふ、どうでしょう」
暁明が懐を漁ると――銭の擦れる音がした。曄琳は慌てて男の腕を掴み、方蘇から距離をとる。
「しょ……暁明様」
少監、と言いかけて止める。方蘇が意味を理解できないとしても、役職名は外で不用意に出すべきじゃない。
「いいです、そこまでしていただかなくて」
「わざわざここまで来たのに?」
暁明は優雅な笑みを崩すことなく、懐から小ぶりな麻袋を取り出す。
「お金に困ってはいませんし、
「そういう意味じゃ。私の気持ちの問題といいますか」
「なら、精一杯働いて返してくださいね」
そうきたか。
暁明は曄琳の腕を外すと、方蘇へ袋を投げやる。鈍い音を立てて銭袋が地面に落ちた。音からして、多分方蘇が半年は生活していけるくらいの額は入っている。
「どうぞお納めください」
こんなに行動と口調が伴っていないことがあるだろうか。
方蘇が銭袋に飛びついたのを見て、暁明が目だけで曄琳に行けと合図してくる。曄琳は暁明に頭を下げると、急いで房屋へ入った。
狭い
曄琳は埃の落ちる床にしゃがみ、壁の前に座る。脆くなっている泥を叩き割り、かつて自分が塞いだ穴から掻き出す。方蘇が笛の存在に気づいていた様子はない。もし見つかっているなら、この泥の蓋も取り払われているはずだ。
曄琳は固唾を呑んで、ボロボロと落ちる泥を全て取り払い、穴の中に手を入れた。
肘まで突っ込んで手探りで中を漁る。
「…………あった」
指先が手触りのいい布に触れ、その中に細長い棒の存在を感じた。じわと涙が滲む。
穴から引き上げる。外袋は傷んでいたが、中の笛子は無事だ。泥を払い、そっと懐に入れる。
(あ……穴開けちゃった)
もともと開いていたものを曄琳が利用しただけなので、こちらに非はないのだが、再度開けたという行為に罪悪感が湧く。自分を売り飛ばした人間であっても、破壊行為はよくない。
方蘇の方を確認すると、麻袋の中を数えるのに必死でこちらに気づいている様子はない。暁明が手招きをしているので、穴にはそっと落ちていた布を被せて出てきた。せめてもの気持ちだ。
「律儀なことで」と呆れたように暁明が呟くのが聞こえたが、聞かなかったことにする。
戸口に戻り、方蘇に頭を下げる。
「もう終わりました。ありがとうございました」
「そう? また来てもいいンだよ」
下卑た笑みが曄琳ではなく、背後の暁明に向けられる。頼むからこれ以上恥ずかしいことはやめてほしい。曄琳は早く行こうと暁明の背を押す。
「ご遠慮申し上げます」
暁明がにこりと音がつきそうな笑みを返した。どうやら彼なりにしっかり腹は立てていたようだ。
曄琳は怖い者知らずの方蘇に頬を引き攣らせた。
門まで戻る道すがら、曄琳は先程のやりとりを思い出していた。顔色はすこぶる悪い。
(さっきのお金、とんでもない金額だ。とてもじゃないけど払いきれない……これは借金になる? 宮妓なら年単位で働かないと返せない額だ……)
借金返済で脱走できず、だなんて嫌すぎる。踏み倒す、厚意として受け取るという発想は、曄琳にまるでなかった。
(ここは少監の言う通り、言われている仕事を精一杯働くしかないか。とりあえずは
思考に没頭していた曄琳は、前を行く暁明が足を止めたことに気づかなかった。気づいたときには藍染めが目の前にあり、慌てて立ち止まる。
「っと、申し訳ありません」
「何故そんなに後ろを歩くんですか?」
振り返った暁明は心底不思議そうな顔をしていた。
曄琳は思いもよらぬ質問に目を瞬かせる。
「え……私は家人という設定なんですよね? 横並びはおかしいです」
「家人? なぜ家人なんです」
「だって、養母に
設定は守らねば。いつどこで誰が見ているかわからないのだから。
あれこれ思考中でも、それくらいの頭は回る。曄琳がきっぱり返すと、暁明が眉を寄せる。
「はい? いえ、私は宮妓の贖身――」
言いかけて、そして止まった。
「………………いえ、家人という設定で構いません。あなたがいいのなら、それで」
曄琳は首をひねる。
宮妓の贖身――しばらく意味を考えて、曄琳はポンと手を打った。
宮妓の身請け、つまり妻として迎えるということだ。暁明はあの場で曄琳を
曄琳はなんと返すのが正解か悩み、ヘらりと笑う。
「申し訳ありません、気が回らなくて。こんな貧民街育ちの女に気を遣っていただいてありがとうございます」
藍染めの男と簡素な衣を纏っただけの女。
どう見ても釣り合わないが、暁明なりに気を遣ってくれたのだろう。
と、暁明が不機嫌そうに目を細めていることに気づいた。急いで言葉を付け足す。
「ごめんなさい。ご気分を悪くしたなら――」
「身なりや生まれから自分を貶めるのは間違っていると思いますよ」
思わぬ返答に曄琳は固まる。暁明は茶化している風ではない。
「どんな家で育とうと、生まれがどうであろうと、あなたがあなたであることには変わらない。何かの枠に当て嵌めて考えるのは、世界を狭めますよ」
正論だ、と思ったが――今の曄琳には別の意味を持って聞こえた。
楚蘭のこと、自身の生まれのこと。最近の悩みはそればかりだ。
この人が曄琳の何を知っているのか、どこまで知り得ているのかなんてわからならない。しかしこの見透かされたような台詞は確実に曄琳の心に響いた。
曄琳はぱっと顔を伏せた。
どうしよう、なんだか泣きそうだ。
「そも、私がそのような判断をするような人間に見えていたことが癪ですね」
――ああ、なるほど。そっちの方が本音か。忍び笑いが漏れる。しかし今の曄琳にとってはどっちでもよかった。この人も思ったより子供っぽいところがあるのだと知れたのも収穫だ。
口元が緩む曄琳を見つけ、暁明が更に目を細める。
「何故笑うんです」
「いえ、ありがとうございます。……ちょっと、嬉しかったです」
「はい?」
面食らったような暁明が曄琳の顔を凝視する。
遠くで鐘が鳴っている。昼を過ぎたようだ。
「行きましょう。帰るのが遅くなっちゃいます」
曄琳が暁明の斜め後ろに寄る。今度はそこまで離れず歩くつもりだ。
暁明はしばし曄琳の顔を見つめていたが、そうですねと髪を払って歩き出す。
「この時間ならもう馬車に姚人が来ているはずですね」
「馬車…………えっ、ここ王城から歩いて半日はかかるんですが!?」
「言ってませんでしたか。姚人は足が速い上に疲れ知らずです。体力馬鹿なんですよ」
もし今日姚人とふたりだったら――脱走を
曄琳は引き攣った笑みとともに息を吐いたのだった。
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