第29話 疑念
彼女が仕えていた姫の名は
先月まで後宮女官として勤めていた玉温は、楽の腕が認められ、今回女官の身ながら
「本当に、ご迷惑をおかけしました」
五娘の代わりだと言い、玉温が深々と頭を下げる。先程取り乱したのが嘘のように落ち着いている。
居室で二人、曄琳と玉温は向かい合って座っていた。
五娘捕縛に関与した人間は、この場に曄琳だけだ。
日暮れが近いこともあり、先程までの騒ぎが嘘のように後宮は静まり返っている。ささくれだった木枠の窓から橙の光りが影を落とす。
曄琳は慌てて玉温の頭を上げさせる。
「おやめください。私に謝る必要はありません。あなたは何も――」
「いいえ。碧鈴様は事実をおっしゃっただけです。私は周りの姫様方よりずっと年上ですし、庶民出身の女官あがりも、事実なのですから」
そう言って穏和に微笑む玉温に、曄琳はなんと声を掛ければいいか悩んだ。
玉温は年は十五、確かに他の姫に比べれば年上だ。ゆくゆく淳良と子を儲ける可能性を考えると、際どい年齢差ではある。しかし、それでも十二分に若くはある。
「それに、腹が立ったからといって他人を害していい理由にはなりませんもの。五娘が私のために怒ってくれたのは、とても嬉しい。でも……彼女が悪い」
「……ええ、おっしゃる通りです」
(碧鈴様に聞かせたい……!)
よく出来た人である。
曄琳は何も言えなくなる。
ゆったりと微笑む玉温の手が近くの茶杯に手が伸びる。固くなった指先に、黄色く変色した分厚い指の皮。いかに彼女が管楽の練習に勤しんでいるかが見て取れた。
玉温は曄琳の視線に気づいたのか、手をぱっと握り込めると、恥ずかしそうに目を伏せた。
「ごめんなさい。あんまり綺麗な手じゃなくて」
「そんなことありません。それを言ったら、私の方が酷いですよ」
曄琳が手の甲から手のひらを返してみせると、玉温がふふと笑った。年が曄琳と近いこともあり、少し打ち解けてきた様子だ。
「私の家は……あまり裕福でなくて。母も随分年を重ねましたが、まだ女官として宮廷に仕官しています。働かないとやっていけなくて」
雪宜からちらと聞いた。彼女の家は貧しく、給金と手当で
(楽の才能がある者は妃嬪の中では優遇される。それは本当みたいね)
でなければ、彼女のような家の出が妃嬪にはなれまい。
玉温はこの度の関与の嫌疑が晴れるまで自室で謹慎処分となっている。曄琳は意識を外に向ける。外には二名の宦官が見張りとして張り付いているが、彼らの息遣いは落ち着いており、緊迫した様子は伺えない。玉温はほぼ無罪と見られているようだ。少し安心した。
「楽人に卑賤の区別はありません。妃嬪も同じかと」
「ありがとうございます。お優しいのですね」
玉温が心底嬉しそうに笑う。
「四華の儀について母からよく聞いていたので、自分が出られるなんて夢見たいです。四夫人に選ばれずとも、私は幸せです」
曄琳ははたと動きを止める。
四華の儀が行われたのは、先帝時代――十五年以上前だと聞いている。母親から聞いていたということは、玉温の母親は先帝時代の後宮を知っているのか。
曄琳は「あの」と躊躇いがちに口を開く。
「お母様は当時後宮で働かれていたのですか?」
玉温は肯定する。
「ええ、そのようです。
尚宮。口の中で言葉を転がす。
曄琳はどこまで聞くべきか悩む。
楚蘭が当時後宮でどんな風に生活していたのか、ずっと知りたかった。ここでしか知れない楚蘭の話を聞けるなら、聞いてみたい。
黙る曄琳の様子を見て、玉温が膝を擦ってにじり寄ってくる。
「何か、お聞きになりたいことがあるんですか?」
「あ、えっと……」
「
「え……?」
――今、なんと言った。
玉温は困ったような顔で数度瞬きする。
「当時の後宮のことといえば、みな聞きたがるのが櫻花貴妃のことですもの。今の後宮では縁起が悪いと、忌み事のように口端にのぼらなくなりましたが」
そういえば彼女自身も少し前まで後宮女官だったか。
いや、それよりも。曄琳は狼狽する。
(母様は
初めて聞いた。
楚蘭は後宮のことを時折話してくれたが、自身のことは、妃の端くれ、大勢のひとり、などと笑いながら言うばかりだった。だから、てっきり大勢いる下位の嬪のひとりだと思っていたのだ。
しかし、彼女は貴妃という最高位の妃だった。
貴妃ほどの妃が出奔すれば、後宮は騒然とするに決まっている。追手も、捜索の手も、どちらも並の数ではないはずだ。しかも乳飲み子を連れての逃走。不貞の疑いがかかっていたとしたら、尚更だ。
(でも、私達は特に追手に見つかったことはない……)
隠れるのが上手かった? いや、そんなことはない。楚蘭は産後まもなく外に出たことで
一つの場所に留まっていれば、見つかる可能性は高い。しかも、都の外れの貧民街に隠れたのだ。これで見つからなかったという方がおかしい。
(何かが、おかしい)
水面に、ぽんと石が投げ込まれたようだ。
曄琳の頭の中でぐるぐると情報が錯綜する。
これではまるで――。
――楚蘭は逃げたのではなく、
「曄琳さん? どうしました?」
玉温が顔を覗き込んでいたのに気づき、ようやく曄琳の意識は浮上した。
「玉温様、もしよろしければ櫻花妃のことをもう少し詳しくお聞きしてもよろしいですか?」
「申し訳ありません。私はそこまで詳しくなくて……当時のことは母の方が詳しいと思います」
「なら、お母様とお会いすることはできますでしょうか?」
気づけば曄琳の口からそんな言葉が飛び出していた。玉温は面食らったように瞬くと、ゆっくりと頷く。
「え、ええ。大丈夫だと思います。連絡してみますね」
「ありがとうございます」
「日取りが決まりましたら、またお伝えしますね。曄琳さん、本当に大丈夫ですか? お顔色が……」
曄琳は無理やり笑顔を作って一礼し、居室を後にした。見張りの宦官が曄琳を一瞥するが、引き留められはしなかった。暁明が戻ると言っていたが、それを落ち着いて待っていられる気がしない。
曄琳は先に出る旨を彼らに言付け、殿舎を後にした。
(母様は一体何があってここを出たんだろう)
櫻花妃の噂。
楚蘭の口から聞いた話。
曄琳のこれまでの生活。
知り得た情報を組み合わせても、少しずつ掛け違いがある。王城内で楚蘭の話を聞くたびに、曄琳の知っていた母の姿が霞んでいく。
何が本当で、何が嘘なのかわからなくなっていた。
(ねえ、母様。私は本当に……先帝と母様の、娘?)
そこまで考えて、曄琳は頭を振った。
自分のことまで疑うようになってしまってはおしまいだ。しっかりしなければ。
パチンと頬を叩くと、空を見上げる。
紫と朱が入り交じる黄昏に、楽器の音がいくつか聞こえてきた。
「あれ……日暮れから練習は禁止されていたはずだけど」
四華の儀の規定では、確かそうなっていた。
曄琳は耳を澄ます。遠すぎて誰が弾いているのかまではわからない。もう少し近ければ、音色でどの姫かまで特定できただろうに。
隠れて練習しているのだろう。健気なことだ。
規定違反にはなるが、こうして咎められない範囲で練習している姫はいる。というよりも、ほぼ皆がそうだ。それを周りも黙認している。四華の儀まであと半月を切った。皆が必死なのだ。
曄琳はそっと通明門をくぐり抜けた。
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