第2話 視えない壁
ふと気がつくと、わたしの横には壁があった。
目に視えない壁。けれども、そこには確かにあってその向こうには白い空間がある。
手を伸ばすと、わたしはその白い室にいた。
下を見れば、色鮮やかな花々が咲き誇り、甘い香りが鼻に付く。わたしは花へ手を伸ばした。
「――ちがう」
それは花じゃない。
その花は生きていた。花びらをゆったりと羽ばたいて、ひらひらふわふわとわたしの周りを舞う。
そのうちの一疋がわたしの手に留まった。わたしはその綺麗なものがゆっくりと花びらを上下させるのを眺めていた。
ゆらり、ゆらり。ふわり、ふわり。小さく揺らいでいた花の蝶は不意に大きく羽を持ち上げた。――花びらの下には、ぎょろぎょろとした黒い目があった。
そしてその黒い目はぐるりと廻って見せるとにやり、と
わたしは無意識にそれを振り払っていた。何も感じていないのに、体が勝手に動いたのだ。
ぎょろぎょろ、ぎょろぎょろと黒目を動かして花の蝶はわたしから離れてゆく。甘い、甘い香りが空っぽなわたしをもっと空にする。
わたしはふわふわと漂って、気がつけばまた螺旋の階段に立っていた。
わたしは螺旋の先にある
ひたひた、ひたひた
ひたひた、ず、ず
足を引きずりながらもただ、ただ下っていく。のっぺらぼうな様相で進んでゆく。
わたしはわたしを追う。視えない壁の向こうでは真白の中で花開く蝶がひらひら、ひらひらと舞っては留まる。
甘い、甘い香りが壁をすり抜けて漂って、空っぽなわたしをもっと空っぽにする。
ぐしゃり
視えない壁に、色鮮やかな肉が張り付いた。ぎょろぎょろとしていた黒目もぷつりと爆ぜて、わたしを視ている。
ぐしゃり、ぐしゃり
次々と多様な色の花々が肉の欠片になって、視えない壁を色鮮やかに染めてゆく。その都度に、ぷちぷち、ぷちぷちと黒目も散って、わたしを視る。
わたしはそれに手を伸ばすけれど、触れられない。届いているのに、触れられない。
ぐしゃり、ぐしゃり
ぷちぷち、ぷちぷち
仕方がないから、わたしは壁の向こうへ行って、破片を手で拭う。それは生温くて、生臭い。手の中でうぞうぞと蠢いて、じっとりとわたしの手に絡みつく。
わたしがその肉を振り払うと、それは壁の向こうへ転がった。歪んで定まらない蹴込み板の上で脈動しながら、色鮮やかな肉は下りてゆく。
またひとつ、またひとつ。赤や青、黄や緑の入り混じった肉塊が視えない壁の向こうへすり抜けて、べとりべとりと蹴込み板へ叩き付けられる。
その上でまた小さく爆ぜて、より小さくなる。うぞうぞ、うぞうぞとそれらは蠢き初めて真闇の螺旋を彩ってゆく。
わたしはまた壁をすり抜けて、階段を蠢動する肉片を払おうとするけれど、触れられない。壁をすり抜けて手を伸ばして視ると、届かない。
わたしは肉片を踏んでわたしを追うことにした。
ひたひた、ひたひた
ぷつり、ぷつり
わたしの通った跡には動かなくなった肉片がべったりと張り付いてぎょろぎょろと黒目で宙を視ている。
けれども、わたしはその黒目を見ない。わたしは、わたしの前にいるわたしだけを見ていた。
あれは、わたしだ。何かから逃げているわたしだ。いったい、何から逃げているというのだろう?
わたしは這いながらぼんやりと考えた。けれども、頭は靄がかってぼんやりとして何もわからない。
だから、わたしはただ彼女の後を追うことにした。
ひたひた、ひたひた
ひたひた、ぷつり、ぷつり……
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