第9話 枯れ木と狼

 私、金森命華かなもりめいかは貧乏だ。


「すいません。金森ですけど……はい、支払い期限を1ヶ月待ってもらえないでしょうか?……はい、すいません。お願いします」


 金融企業への電話を切った後、私は思わずため息が出た。

 父は零細企業の社長だったが経営は火の車だった。父は債務を返済するために頑張って働いたけど5年前に過労死で亡くなった。

 幸い借金の大部分は母が自己破産して消えたが、今度は母が病気で倒れた。

 私は2年前に大学を中退して平日は事務職、休日はコンビニバイトをしつつ、母の介護をしている。


「ご、ごめんね命華。苦労、ばかり、かけて」


 母がベッドで悲しそうな顔をしている。

 いけない。もっと元気そうな顔をしないと。


「大丈夫だよ、母さん。収入も増えてきているし、母さんはしっかり休んでね」


 父が亡くなってから母は私を大学に行かせるために仕事を掛け持って一生懸命働いた。

 しかし疲労が祟ったのか脳梗塞で倒れて体に麻痺が残ってしまった。辛うじて歩くことはできるがゆっくりしか動けないし、呂律も上手く回らなくなっている。

 さらに最近は心も体も弱ってきたのか体調を崩しがちだ。

 この前も肺炎になって入院が長引き、また借金することになってしまった。


「それじゃあ仕事行ってくるね。昼ご飯と夜ご飯は冷蔵庫に用意してあるからチンして食べてね」

「あ、ありがとう。いって、らっしゃい」


 私は見送る母に笑顔で手を振って家を出た。

 今では私が一家の大黒柱だ。

 今まで頑張ってくれたお母さんのためにも仕事を頑張らないと。



 ふぅ。私は大きく伸びをして時計を見た。終業時間を30分過ぎている。

 オフィスのみんなは帰り支度をしている。


「それじゃあ金森さん、申し訳ないけど仕事お願いね。お先に失礼します」

「はい、お疲れ様でした」


 職場の先輩が軽く頭を下げて帰っていった。

 私はまだ居残りだ。私は率先して仕事を受け持つようにしている。残業代が美味しいのだ。

 周りの社員が帰って1人パソコンで事務処理をしていると、中年の男性がデスクに近づいてきた。上役の色沼しきぬまだ。


「やあ、金森さん。今日も残業かい?」

「はぁ……どうも」


 私はこの人が苦手だ。いつもジロジロとねちっこい目で私を見てくる。

 前に給料の前借りができないか交渉しているところを見られて以来、ずっと目をつけられている。


「まだお母さんの病気良くならないんだって? 大変だよねぇ?」


 そういうと色沼は私の肩に手を置いてきた。馴れ馴れしく触らないで欲しい。

 それになぜ母の病状について知っているのだろう?

 私は軽く肩を振って抗議した。


「あの、仕事に集中したいんですけど」

「ああ、ごめんねぇ。でも相談ならいつでも乗るよ。例えばお金の相談でもね」


 そう言うと色沼は薄く笑って去っていった。

 はぁ……とにかく仕事を終わらせよう。今日の残業時間は1時間でいいや。



「ただいま」


 家に帰ると真っ暗だった。まだ20時なのにもうお母さんは寝ちゃったのかな?

 部屋の明かりをつけると母が床に倒れていた。


「お母さん!?」


 母は苦しそうに呼吸している。額に手を当てると凄い熱だった。また肺炎が再発したのだろうか?

 どうしよう……そうだ救急車を呼ばないと。


 幸い電話をすると救急車は直ぐに来てくれた。

 救急隊員の方が母を救急車に運び、私も一緒に救急車に乗った。

 病院まで行き、みんなが忙しく作業する中、私には母の手を握るくらいしかできなかった。

 どうしてこうなったんだろう。


 ぼんやりしていると、いつの間にか医者が母の容態を説明していた。

 やはり病気は肺炎で、母は健康状態が悪化して癖になっているらしい。

 この状態が続くようなら覚悟して欲しいとも言われた。


 母は何日か入院することになった。

 私は家に帰りベッドに倒れた。


 明日はもう休もうかな。

 いや駄目だ。また入院代がかかるから残業して稼がないといけない。

 それに、それにお母さんが死んだらどうしよう?

 想像すると涙が出てきた。

 どうしてこうなるの?私もお母さんも頑張っているのに、どうして?

 昔は幸せだったのに何が悪かったのだろう?

 誰か助けてほしい。お父さん。どうして死んじゃったの?誰か助けて。


 同じような疑問が頭に浮かんでは消えていく。

 私は思考の渦巻きの中に吸い込まれて意識を失った。



 私は森の中を歩いていた。

 なんでこんな場所にいるんだろう。ああ、そうか夢か。

 明晰夢を見るのは久しぶりだな。

 とても綺麗な場所だ。もうずっとここにいたい。


 やがて開けた場所に出た。

 そこは色取り取りの花畑で、中心には葉のない小さな木がある。

 なんとなく私は木に近づいた。この木はすごく和む。

 木に触ると木の肌が動いたような気がした。そうか木も呼吸しているんだ。

 私は嬉しくなって顔を上げた。そして泣いた。


「どうして泣いているの?」


 木の幹から緑色の髪の子供が出てきた。

 私は夢の中だから何も驚かなかった。ただただ悲しい。


「だって、水をあげているのに葉が育たないんだもん。毎日毎日あげているのに。このままじゃお母さんが枯れちゃう」


 私は堪えきれず声を出して泣いた。

 涙が止めどなく溢れる。私は両手で目を押さえて蹲った。私の中から水分がなくなってしまう。

 だけどもしかしたらこの涙を注げばお母さんは元気になるのだろうか?


「違うよ。全てはいずれ枯れるんだ。でも周りを見て」


 木の周りにはたくさんの花が咲いている。

 全ては枯れて土になり、それを糧にしてまた咲いていく。

 世界はこれの繰り返しなのだと私は理解できた。


「でも私は枯れてほしくない」

「メイカは我儘だね。でも優しい。この花の蜜を飲めば治るよ」


 顔をあげると、木には色取り取りの花が咲いていた。なんて綺麗な木なんだろう。

 緑の子供は落ちてきた大きな白い花を掴んで私に渡した。

 子供は殆ど無表情だけど柔らかい声で言った。


(覚えていて。僕はずっと君を見守っているよ)



 目を覚ますと、カーテンの隙間から朝日が差していた。


「……夢か」


 なんだか不思議な夢だったな。

 でも昨日と比べて大分気分が良くなった。

 お母さんの容態は悪いけど頑張ろう。私が元気なところを見せないとお母さんが心配してしまう。

 今日も仕事を頑張って、病院にお見舞いに行こう。


 それから就業時間まで、私は意欲的に働いた。

 いつもより全然疲れない。それどころか活力が溢れている気分だ。どうしてだろう?


「それじゃあ、金森さん。悪いけどお先に失礼します」

「はい、お疲れ様でした!」


 先輩たちが帰っていく。

 今日も残業をするつもりだ。本当は早くお見舞いに行きたいけれど、少しでもお金を稼いで花と桃でも買っていきたい。


 仕事に集中しているとオフィスには私一人になった。

 時計を見るともう遅い時間だ。そろそろ出ないと面会時間を過ぎてしまう。

 帰り支度をしているとドアが開いた。中年の男が入ってきた。上役の色沼だ。


「お母さん、また倒れたんだって?」

「なんで知っているんですか?」


 まだ会社の誰にも話していないのになぜ彼は知っているんだ?

 色沼は気の毒そうな声を出しているが目は笑っていた。


「いや、ちょっとツテで聞いてね。それでお金に困っていると思ってやってきたんだ。また入院代かかるんでしょ?」

「そうですけど……どうしてあなたが気にするんですか?」


 色沼がニヤニヤ笑いながらまで近づいてくる。

 私は思わず後ずさるが、壁際の席なので直ぐに追い詰められた。

 助けを求めて周囲を見回したが、今この部屋には彼と私しかいない。


「少しお金を融通してあげようと思ってね。なに、少しサービスしてくれれば良いんだよ。君は若いのだから女の武器を使わないとね」

「ふざけないで」


 色沼の胸を押して遠ざけようとすると、強い力で腕を掴まれた。


「君ねぇ。私は仮にも上の立場なんだよ。私がその気になれば君をクビにすることもできるんだ」


 色沼が顔を近づけてきた。臭い息が顔に当たる。


「困るよねぇ、今そんなことになったら。ほらおいで、私が賢い生き方を教えてあげよう」

「やめて!」


 私は抱きしめようとしてくる色沼を渾身の力で突き飛ばした。

 色沼はバランスを取ろうとして腕を宙で回したが、転倒し、デスクに後頭部をぶつけて倒れた。

 起きてくる気配はない。


「はぁ……はぁ……」


 どうしよう。とにかく、そうだ、警察を呼ぼう。

 それにこんな場所にはいられない。人気の多いところに行こう。

 私は震える体を抑えて、部屋から出ようとした。


「え、開かない?」


 ドアノブを何度も回すが扉が動かない。押しても引いても駄目だ。

 鍵がかかっているの?でも鍵はこちら側からかかるはずなのに?

 誰か開けて!ドアを叩くと、今度は突然部屋の電気が消えた。


「ひっ、なに?」


 停電?こんなタイミングで?

 急に暗くなって目が慣れない。窓の外にある街灯が部屋の中をぼんやりと照らしている。

 すると窓を影が覆った。いや違う、色沼が立ち上がったのだ。

 色沼は逆光を浴びて不自然な姿勢で立っている。心なしか光の色が変だ。光の輪郭が焦げ茶色のような妙な色になっている。


 色沼が一歩こちらに近づいた。

 まずい。早く逃げないと。でもドアが閉まっている。どこに逃げればいい?

 考えていると低い唸り声が聞こえた。


「グルルル……女……肉……喰わせろ……」


 まるで獣のような唸り声だ。そして声も色沼のそれより遥かに低い。地の底から響くような身の毛のよだつ声だ。

 私は暗闇に慣れてきた目で改めて色沼の姿を見た。あの人、あんなに体が大きかったっけ?

 それに顔の輪郭も何か変だ。目が赤く光っており、飛び出た口はまるで狼みたい……そう、まるで狼男?


「ワオォォォォォン!!」


 色沼は天井に向かって大声で吠えた。

 顔の両横に掲げた手からたくさんの細い何かが飛び出す。爪だ。街灯の明かりが爪に反射して鋭利に光った。

 キャアアと叫び声が聞こえる。私は無意識に叫んでいた。

 狼男は一足で大きく跳躍し、恐怖で身動きが取れなくなっている私に襲いかかってきた。


「助けて!」


 私は頭を抱えて目を瞑って蹲った。

 まぶたの暗闇越しに狼男の気配を感じる。

 僅かな衝撃。空を切り裂く何か。そしてデスクが倒れたような破壊音。

 そして痛みは……痛みは来ない?私は恐る恐る目を開いた。そこには現実離れした光景が広がっていた。


「なにこれ?」


 私は半透明の木の中にいた。木は私を守るように私を中心にして生えている。

 そして吹き飛んでデスクと一緒に倒れている狼男。

 さらにもう一人、部屋の中に誰かがいた。

 ゴシックロリータのような服装をしてマスクを着けた少女だ。しかし可憐な見た目と違って手には凶悪そうな武器を持っている。棘のついた棍棒だ。


 彼女は私の方を一瞬見てから、武器を狼男に向けて言った。


「闇の狩人、シャノワール参上!」

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