しのぶずり:思考とノートをめぐる話
加藤守雄『わが師 折口信夫』という書籍は本当に印象的なところだらけである。
書名で検索したときに出てきやすい話とは別のところに焦点をあててみよう。
これはただの逃げでしかないし、しっかりと論じろと言われても仕方がないことかもしれないが、ご寛恕いただきたい。
ここで紹介するのは、折口の天才的な部分だ。
折口の講義の様子は次のように語られる。
「小走りするような内股で教壇に上ると、一オクターブ高い声で講義が始まる」
「小さな手帳を手にして、想のおもむくままと言った風に話してゆかれる。わき道へそれたようなので、ノートしないでいると、いつの間にやらそれが本論の一部になっていた。私のノートには空白がいくつも出来た」(加藤 一九六七:一二四)
明治文学論というタイトルで講義をせよと筆者に告げた折口は「準備」と称して、口述筆記をはじめる。
「大体のプランを立てて下さるか、さもなければ、明治文学史のアウトラインを話して下さるのだろう、とばかり思いこんでいた私は、始めから文章になっている先生の言葉に、面食らった。かえって筆がついて行かない」
「明日の講義全部を口述して下さるつもりらしい」
「ノートしてゆくうちに、次第に先生のことばに心を奪われて行った」
「手にしていられるのは年表だけだし、先生の書庫には近代文学の資料なんてひとつもない」(加藤 一九六七:一六四-一六五)
私は常々、自分よりはるかに頭の良い人を見るたびに、その人の頭をかち割って脳みそを見たくなる衝動をかられる。
これは、もちろん、なかなか理解されない欲望だというのはわかっているけれど、折口のこのエピソードとかみたら、皆様も家に眠っている金属バットを磨きだしたくならないだろうか。
そういえば、こちらは出典をもはやおぼえていないエピソード(たしかD. エリボンの本で読んだような気がする)にフーコーがウプサラに赴任した頃の話というのがあった。
準備時間が数時間しかない中で、超人的な能力を発揮したフーコーは誰もが絶賛するような講義をやってのけたというものだったはずだ。
私が大学で学びはじめた頃は、パワーポイントというものが普及していなく、多くの先生はひたすらしゃべりたおすだけであった。
それをひたすら自分なりにノートにまとめていくのだが、やはり、なかには折口のように関係ない話だと思っていたら、がっつり本筋になっていて、ノートに空白ができるということもあった。
そういえば、『わが師……』は著者の初講義(といっても前夜の折口の口述筆記ノートを読み上げるだけ)に折口が聞きに来て、感想を述べる場面があるのだが、それがまた面白い。
著者は完璧の璧の字をたずねられて、壁と答えてしまうという間違いをしでかしたのだが、それについて折口は次のように述べる。
「黒板には絶対に字を書いちゃいけないよ。書いたものは証拠が残るからね。字なんか間違えたりすると、学生は単純だから、それだけで学力を批判する。その点は中学生と変わらないよ」(加藤 一九六七:一六八)
折口もなかなか大変だったらしい。
さて、少しずつパワーポイントなどというものが普及しはじめたあとも、口述にこだわる人たちに出会うことはあった。
スライド一枚あたりの文字数や所要時間などを考える私たちをあざ笑うようにやや早口で原稿を読み上げる人たちがいた。
その意図をきくと、彼らには彼らなりの理由があった。
一つは、自分の思考をしっかりと噛み締めてほしいというもの。パワーポイントをすらすらめくられたら、わかった気がするかもしれないけれど、ただそれだけだ。
二つは、自分自身の文章・論理能力の修行という観点。読み聞かせてわかるレベルでなければ、その論考の論理的つながりは疑わしいというのだ。
当初は懐疑的であった私も深く感銘を受けたことをおぼえている。
流れてくることばを自分なりにかみしめて、場合によってはノートを取っていくというのは、思考の訓練にとてもよろしいものだ。
ただ、最近はそれはどうにも受け入れられないようだ。
最近もノートを取ると、物事の理解が進むよという話をしてみたら、珍獣を見るかのような目で見られた。
もったいないよねと思いながらも、私は基本的にへらへらとしているので、そこらへんはもはや気にしない。
「だよねぇ。うんうん」
私は今日もへらへらしている。
引用文献
加藤守雄 一九六七 『わが師 折口信夫』、文藝春秋。
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