第3章

天望の繭1 兆し

 ――泣き声がする。しくしく、さめざめと、とめどない悲しみに涙を止められずにいる。


 声の主を探してみると、離れたところに立つ誰かが顔を覆って悲嘆に暮れていた。泣くことしかできないでいる者の悲痛さを感じ、聞いているシルヴィアも哀切を覚える。

 どうした、何があった? そう尋ねようと足を踏み出すのに、身体はぴくりとも動かない。手を伸ばしても、声を上げようとしても、何もできない。そうしているうちに泣く者の悲しみは増していく。


(いけない、このままでは)


 たどり着こうともがくシルヴィアの耳に、声が届く。


『――お許しください、[   ]』


 こんなはずではなかったのにと、許しを乞う声だ。






「お前それ、『悪いことをしたから謝らないと』って思ってるんじゃねえの?」


 早朝訓練後の第一食堂。騎士団舎に最も近いそこで朝食のパンにかぶりつくランディを胡乱な目で見やり、シルヴィアはため息をついた。


「……君に相談したのが間違いだった」

「なんだよ! どう思うかって聞くからちゃんと答えてやったのに!」

「それもそうだな。すまない」


 尋ねておいて、ぴんとくる回答ではなかったからと邪険にするものではなかった。反省して、朝食のスープの皿を拭ったパンを咀嚼する。


 決闘騒動から十日経っていた。シルヴィアは下された処罰に従って、レオンを主とする希望者に戦闘訓練を行っている。同時にこれまでおざなりにしていた討伐隊の通常任務にも就き、隊士や騎士団の者たちに仕事以外のことをも教えられながら以前よりも穏やかな日々を送っている。手応えがあるのは、ランディたちから「上手く出来過ぎだろ……」「神に贔屓されすぎ」「人生何回目?」と評価されているからだ。

 ランディとは訓練が始まった初期に和解した。当初の敵意と怒りを解くに至った理由について尋ねたとき、彼はあの頃のシルヴィアが自分たちを馬鹿にしているように思えたのだと話してくれた。だが決闘という騒ぎを引き連れてきた理由が「侮辱された異国人の女官を守るため」だったこと、不利な条件下で圧倒的強さを見せたことで、シルヴィアの人となりがわかって嫌悪感が解消されたという。


『神サマのお前には無駄に見えても、俺たちはそうやって蟻や亀みたいに遠い道のりを進めているかどうかもわからない速度で行くしかねえんだ』


 だから人間の、薄紙を重ねるような日々を否定するなと言い、シルヴィアも納得して謝罪した。無知から来る無理解がランディや騎士団の者たちを傷付け、怒らせたのだと、何度打ち倒しても「もう一回!」「次は勝つ!」と立ち向かってくる彼らと接することで理解できるようになっていた。

 しかしランディがシルヴィアにどのような認識を持つに至ったかは教えてくれなかった。食い下がろうとすると「しつこい!」と真っ赤な顔で叫ばれ、再び仲違いしたくなかったので引き下がった。しかし決して悪いものではないことはランディや隊士たちを見ればわかるので、まあいいかと思い、情報取得の優先順位は低い。


「シルヴィアー」

「うん?」


 呼び声に顔を向ければ、黒剣隊の隊士が当番表を記す黒板を持った手を左右に振っている。名をトロンといい、剃り込みにした頭髪とのんびりした口調が特徴だ。俊敏で目端の利く若者で、任務の際はよくシルヴィアと組まされている。


「業務連絡ー。当番交代だって。お前今日非番だからー」


 非番、すなわち休暇だ。魔物の討伐を行う黒剣隊は少数精鋭で、当番制の業務は通常大きく変わることはない。変更があるとすれば欠員が出たときだ。


「どうした? 負傷者か、誰か病欠か?」

「いいやー、殿下がシルヴィアをお呼びなんだー。業務開始時刻になったら執務室まで来るようにってさ」


 シルヴィアは首を傾げた。どのような用向きか考えても思いつかないが、何かあったことだけはわかった。

 朝食を食べた後、時間があったので団舎内の清掃を手伝った。ちょっと跳べば高いところの拭き掃除ができてありがたがられるので、率先してやるようにしている。主に男性が行っている薪割りはシルヴィアにもできるが、高所の掃除は彼らには不可能だ。ただ事情を知らない他部署の官や来客を驚かせてしまうことは稀にある。

「そろそろ行けよ。絶対殿下をお待たせするんじゃねえぞ」とランディに言われ、道具を片付けて本城に向かう。

 部屋を守る衛兵に来訪を告げると、ルヴィックが現れた。


「おはよう。レオンが呼んでいると聞いたが、在室か?」

「おはよう、シルヴィア。入って」


 丁寧だったルヴィックの口調がだいぶ砕けたのは、シルヴィアとの訓練に夢中になって執務を放り投げるレオンを度々迎えに来ていたことに原因がある。叱り付けるときなど感情が昂ったとき、幼馴染みだという二人の口調はかなり気安くなる。言葉の荒さはルヴィックの方が上の立場に感じられるくらいだ。

 主君にそんな口を利いてシルヴィアには丁寧すぎるのは色々差し障りがあろうと、普通に話してくれるようこちらから提案した。すでにサアラやカンナはそうしているからと言い添えたおかげか彼はそれを受け入れて、年若い小姓を相手にするような距離感の話し方をするようになったのだ。


「殿下、参りましたよ」


 ルヴィックの呼びかけに部屋の主が振り返る。


「なんだ、こっちから来ると思ったのに」


 レオンは執務室の窓辺に立っていた。以前シルヴィアが逃げ込んだそこだ。


「流石に非常識だと理解した。そんな期待はしないでほしい」


 笑っているから冗談なのだろう。レオンは軽口が多く、本人も自覚していて、時々本心を混ぜるなどよく悪ふざけをする。それでも不快に思わないのは、求められたときには完璧に為政者としてお立ち居振る舞いができるからなのだと、近頃理解に至った。


 たとえば先立っての決闘騒ぎだ。


 フレッド・デュリスという名のカンナに無礼を働いたあの男は、決闘と差別的行為を行った罰として地方の砦へ派遣されることになった。サアラとランディ曰く「左遷」で「甘ったれの坊々には敵地同然」という厳しい処分だったらしい。フレッドの父親であるデュリス伯爵が抗議に来たそうだが、レオンはそれを跳ね除けた。いかに伯爵が庇っても見過ごせない余罪が数多あったのだそうだ。

 全員に聞き取りを行うと宣言した通りに行動したレオンは、フレッドや他の者の差別的な言動を把握した上で、度が過ぎる者たちには降格や減俸、慰謝料の支払いを命じていた。フレッドもそのうちの一人で、カンナのような被害者が大勢いたらしい。


『そのように信を置けぬ者を、王族を守る近衛騎士にすることはできん』


 王太子その人に信用できないと言われ、たとえ減刑になったとしても家名に泥を塗るだけだと悟ったデュリス伯爵は為す術もなく引き下がったという。


『後々大きな問題を起こしそうなやつらばかりだったからな。まとめて片付けるいい機会になった。おかげでだいぶすっきりしたぞ』


 こうした素早い処分は前々から証拠集めに動いていたから。

 フレッドの件に合わせて他の者にも同様の罰を下したのは、当事者はもちろん、権力を持つ親族や関係者を大人しくさせる見せしめの意味もあったから。

 そんなことをシルヴィアの罰である訓練を行わせながら話して聞かせ、晴れた空のごとくからりと笑ったレオンだった。


 シルヴィアのような人外の者を受け入れる寛容さといい加減な性格の持ち主であるレオンは、まるで札を返すように冷徹で容赦のない為政者の行動力と決断力を兼ね備えた人間であると知るに至った出来事だった。


「私に何か用か?」


 レオンの目配せを汲んでルヴィックが退室していく。二人きりになると、レオンは珍しく気持ちを整えるような深いため息を吐いた。


「ああ、頼みがある。できれば、いまから」

「私を非番にしたのは君だ。時間は十分にある」

「皮肉を言うとは、なかなか成長しているじゃないか」


 早く用向きを言えとシルヴィアが呆れた目を向けたそのとき、出て行ったはずのルヴィックが戻ってきた。何故かカンナを連れていて、彼女を室内に促してから立ち去った。


「遅くなって申し訳ありません、殿下」

「いや、こちらこそ仕事の邪魔をしてすまない。お前にもしばらく時間をもらいたいんだが、構わないか?」

「もちろんでございます。何なりとお申し付けください」


 カンナは優雅な仕草で軽く膝を折る。


 シルヴィアとカンナ、いまのところ両者に共通する事柄は例の決闘騒ぎだが、呼び出しにしてはいまさらという感じがする。それにレオンの口が重いのが妙に気にかかった。


「レオン、何か困っていることがあるのか?」

「いや……そういうわけじゃない」


 苦笑して首を振るが、やはり気が進まなさそうな印象は変わらない。


「お前たちに、会いたいと言っている人がいる」

「そうか。誰だ?」


 その人物こそ彼を思い悩ませている理由なのだと思い、率直に尋ねる。

 レオンは一度言葉を切った。そして覚悟を決めた様子で静かに口を開いた。


「――エマリア・セラフィーラ・ヴィンセント。ヴィンセント王国第一王女で、俺の実の姉だ」


 ここに来て初めて耳にする人物の存在に、シルヴィアは訝しく眉を寄せた。

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