日の織々2 戦乙女の怒り
図書館に行く気はとっくに失せていて、特に行き先を決めず歩き始めてしばらく。気付けば人気のない城の北の端にいた。北門に続く道から少し外れた、緑豊かな細い道の向こうにまだ足を踏み入れたことのない美しい小さな建物が見える。
(離宮、だったか)
城の中心部から遠い、忘れられたような場所にあるが、雑草のない小道は頻繁に人が行き来することを示していて奇妙に感じられた。城の端は見回りを行う者以外の痕跡は多くないと知っていたからだ。
何があるのか確かめてみようと足を踏み出したそのとき、背後の離れた場所から緊迫した声を拾った。【戦乙女】の耳でなければ拾えない、かすかなもの。
「――――」
踏み出そうとした一歩、それで反対側へと駆け出した。
しばらく走り、目についた屋根の上に跳躍して地上に目を凝らし、耳を澄まして声の主を探す。
「私がこうして誘ってやっているんだぞ。意地を張るのもいい加減にしたらどうだ」
(あそこか)
人通りのない通路、死角に当たる柱の影。シルヴィアが聞いた声の主が三人の男に囲まれているようだ。
「異国の地だとお前のような若い娘は何かと苦労するだろう? 俺ならよくしてやれるぞ。これでも男爵だからな。妾の一人くらいは持たねばと思っていたところだ」
「…………」
囲まれてなお反意を示すことなく黙って俯くのは、シルヴィアのもう一人の世話係。東の民の血を引くカンナだった。
「だんまりかよ。これだから異国人は」
「俺たちの言っていることがわからないのかもなあ?」
「止めてやれ。言葉じゃなく常識がわからないだけだろう?」
男たちが顔を見合わせて嘲笑する。嫌悪感を催す嘲笑を浴びせられて、カンナは目を伏せ、深く、深く俯いていく。まるでそこにある穴に自ら落ちて行こうとするかのごとく。
「私も理解できない」
足音すらさせずに背後に立ったシルヴィアに、彼らはぎくりと顔を強張らせて振り返り、カンナもまたはっと顔を上げた。
「このように人目のないところで、一般的に脆弱とされる女性一人を、優位な身体能力を持つ男性三人で囲い込んで嘲笑することが常識なのか?」
「シルヴィア」
俯いていたカンナはどこかほっとしたように、しかし一方で不安げに黒い瞳を揺らす。シルヴィアは男たち一人ひとりに視線をやり、彼らの怯み、あるいは後ろめたそうな顔つきを眺めて、カンナに尋ねた。
「この男たちの相手をすることはカンナの業務なのか?」
カンナは黙り、俯いて、それ以上動くことはなかったが、シルヴィアは状況から答えを推測して判断を下した。
すなわち、仕事ではない。ゆえに彼女の手を取ってこちら側に引き出す。
そのまま歩き出すシルヴィアだったが反対側から「あうっ!」と悲鳴が上がった。振り返れば男がカンナの腕を乱暴に掴み上げている。
「どこに行くつもりだ? まだ話は終わっていな、あぐっ!?」
素早く二人の間に割り込んだシルヴィアは手を振り上げ、カンナを掴む男の手を弾き飛ばす。
「話とは、先ほどしていた妾のことか? あなたはカンナを扶養したいのか?」
男は痛みと動揺で顔を引きつらせている。同行者の二人は「こいつ」「話通じねえ……」と怯んだ様子で、答えが見込めないと悟ったシルヴィアはカンナを見上げた。
「カンナは彼の誘いを受けようと思うのか?」
「……思いません」
小さく、はっきりとした不承諾の言葉を聞いて、シルヴィアは満足して頷き、男たちに言い放った。
「カンナは断った。話は終わりだ」
彼女たちの関係やこのようなやり取りが発生している理由はわからないが、シルヴィアの優れた耳がかすかなカンナの嫌がる声を拾っていたし、介入する前の状況は不健全だったという判断に確信を持っていた。正しい状況の把握のために詳しい話を聞くのなら、この場を離れてからにするのが最善だろう。
荒々しい手段で引き止められる状況を防ぐため、先に行くようカンナの背に手を添えて促したが、予想通り「待て!」と制止の声が上がった。カンナに妾になるよう持ちかけた男だ。
「戦乙女だなんだと持て囃されているようだが、この国の人間ではないお前が勝手な真似をして許されると思うのか!?」
「その審判は裁判官、もしくは国王が行うものだろう。状況を鑑みつつ過去の判例をもとに判決が下されるはずだ」
図書館に通い、この国の知識を得たので大きく誤っているということはないはず。その正しさが相手を煽ることを知らずに淡々と告げ、踵を返そうとすると今度は直接的に肩を掴まれて引き止められた。
「痛てぇっ!?」
もちろん掴まれた瞬間に払い除ける。同時に困惑した。
(……ここまで力を加減してもそんなに痛むのか……)
だいぶ加減したつもりだが、人間でも比較的頑丈とされる成人男性はシルヴィアの認識以上に弱いものなのかもしれない。ますます自らの在り方が悩ましく思わずため息をついたシルヴィアだったが、そのとき足元にぴしゃりと何かが投げつけられた。
何だと思ってつまみ上げてみると、手袋だ。
「決闘だ!」
カンナに拒絶されシルヴィアに手を払い退けられた男が、指を突きつけながら怒りの形相で叫んだ。
「さぞ不自由しているだろうと情けをかけてやろうと思ったのに……もう我慢できん! 異人どもに大きな顔をさせてなるものか! お前たちの居場所はここにはない。この国にいたいなら『いさせてください』と俺たちに許しを越え!」
「シルヴィア、挑発に乗ってはいけません。許可のない決闘は禁じられています」
カンナがシルヴィアの袖を引いて囁く。
決闘が日常的に行われていたのは数十年前までのこと。現在はお互いの正当性を主張するために国王の許可を得てから行われ、命の奪い合いは禁じられるようになったと書物で読んだ。
承知しているが目の前の男は諦めそうにない。むしろカンナがシルヴィアを止めることを見越してかにやにや笑っている。
蛇のように眇められた目はシルヴィアとカンナの素肌に張り付かんばかりに粘ついている。強い嫌悪を覚えているはずのカンナは、それでも冷えた指先でシルヴィアの衣服を掴んで引き止める。この場が収まるなら堪えるべきだと考えているのだろう。
だがそれは、いま凌げたとしても、これからも続くことを意味するのではないか? また一人でいるところを囲まれ、不愉快な思いをさせられ、黙って俯いて過ぎ去るのを待つほかないという。
「無礼を働いたことを謝罪するなら、決闘は取り下げてやる。従順な者には褒美をやらねばならんからな。存分に可愛がって、異人にふさわしい態度とはどういうものか、ちゃんと躾けてやろう」
このような侮辱を受け続ける、そのような未来を甘んじて迎えるべきではない。
『可愛がる』『躾け』というそれが嬲り者にする宣言だと正しく受け取ったシルヴィアは、目にも止まらぬ速さで手にしていた手袋で男の頬を叩いた。
ばしっ! と地に叩きつけるよりもいい音がした。
「我が名においてその勝負受けて立とう。場所と武器を指定しろ」
「止めてください!」
呆然とする男に言い放つシルヴィアの腕にしがみついてカンナが首を振る。
「殿下からお咎めを受けてしまいます。あなたの立場が危うくなってしまう」
「それがどうした」
「シルヴィア!」
「私の立場はカンナの尊厳と引き換えにはできない」
東国の者らしい柳のような目が大きく見開かれる。
「カンナ。踏みにじられることに慣れ、弱者に甘んじていることを当たり前だと思ってはいけない」
呆然とするカンナから視線を外し、言葉を失っていた男に改めて告げる。
「さあ、不戦敗になりたくないのなら早く決闘の条件を指定しろ」
煽るつもりで言い放てば、相手はまんまとそれに乗って「いまからだ!」と息巻いた。
「俺を怒らせたらどうなるか思い知らせてやる!」
相手が次々に提示する決闘の条件を聞いていたシルヴィアは、最後には薄い笑みを浮かべていた。今回の規則となる提示された決闘条件はすべて彼らにのみ都合のいい内容で、「なんて……」とカンナですら絶句している。だからこそシルヴィアは楽しくもないのに笑わずにはいられなかった。
「わかった。その条件でいい」
「その言葉、忘れるなよ!」
勝機を掴んだと思ったのか、怒りに震えていた男の顔は引きつっていたもののにやにや笑いが戻ってきていた。たじろいでいた他の二人もわずかに余裕を得て、決闘場に向かう勇足の仲間に続く。
少し離れて後を追っていたシルヴィアは背後から彼らを観察し、思わず笑みを吐いた。
歩き方や姿勢を見ればある程度力量が知れる。足を擦るように歩みを進め、わざとらしく胸を張り、あるいは逸らしている立ち姿は決して戦闘職の者のそれではなかった。
するとシルヴィアのさらに後ろを歩いていたカンナがぴたりと足を止めた。
「……わ……私、殿下にお知らせしてきます! シルヴィア、どうか早まった真似はなさならないでください。すぐに戻りますから!」
泣きそうながら強い目をして、宣言するが早く裾を絡げて駆けていく。そこへ逆方向から「早く来い!」と居丈高に呼びつけられた。男たちがカンナに興味をなくしたのなら安全性は確保されてているので、彼女を追いかけることはしなかった。
男が決闘場に指定したのは騎士団の訓練場だった。すぐ話をつけたらしく訓練場は空だ。だが先ほどまで訓練を行っていたらしい者たちは隅に追いやられて不服そうに言葉を交わしている。
「『顔だけ近衛』の坊々が何のつもりだよ?」
「さあ? 決闘とか何とか言っていたみたいだけれど」
「いつもの暴走かぁ……また揉み消されてお咎めなしかねぇ……」
それらの声もシルヴィアが訓練場に現れた途端に消え失せた。初日の一件以来姿を現すことのなかったのに決闘なる騒動とともにやって来たのだから驚くのも当然だ。
四方を建物に囲まれた内側にある訓練場は、観覧席を伴った闘技場としての要素を持つ。観客となるのは上官や同輩たち、または大仰なもてなしを必要としない貴人だという。
「武器を変えろ」
制止する者はなくタイタンやそれに準ずる上官は不在だと思われた。いたとしても静観するつもりなのだろう。男に言われ、シルヴィアは剣帯から魂と呼べる剣を鞘ごと外すと、目についた騎士のところへ行ってそれを押し付けた。
「預かってくれ。決して抜くな」
「……え? え!? ちょ、ちょっと!」
焦る騎士たちに背を向けて訓練場に戻ったシルヴィアに、男たちが木剣を投げつけた。投げ槍のように敵意をもって真っ直ぐ飛来したそれを、虫を掴むように掴み、そのまま柄を握る。ぎくりとした周囲から安堵の気配が漂ってきたのは、顔に当たると危ぶまれたからのようだが、シルヴィアにとってこの程度の投擲は止まって見える。
そうしてシルヴィアは真剣を握る三人の男と向かい合った。
「再起不能となるか、降参を宣言するまで戦う。この条件で間違いないな?」
「物覚えはいいようだな」
小馬鹿にしたように笑われる。お前よりは恐らく、と返してやろうかと思い、考え直したのは、駆けていったカンナのことを思い出したからだ。
(レオンが来る前に終わらせよう)
レオンはシルヴィアを言い包め、この男たちすら巧みに説得し、場を収めるだろう。それは困る。このような無駄な戦いを引き受けた意味が失われてしまう。
シルヴィアは可憐な唇で、低く告げた。
「――死んだ方がましだと思える恐怖を与えてやる」
それが戦闘開始の合図となった。規則も手順も無視して挑みかかってきた男たちに、シルヴィアは黒々と輝く瞳に笑みを浮かべた。それはあたかも慈悲を授ける女神のごとき眼差しだった。
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