人の国5 初めてのお着替え

「【戦乙女】には一般的な知識と常識が与えられているが、私はそれを応用できるほどの経験がなく、技術も育っていないのだと思い知らされた。心を突き動かされて身体が動くことも初めてだが、まさか逃げ出すとは、これほどまで自分が未熟だとは思わなかった」


 室内に招き入れられ、乱れた着衣の上からレオンの上着を羽織らされたシルヴィアは、促されて長椅子に座り、我が身に降りかかった出来事を説明した後、はあ、と息を吐いた。

 妙に気分が沈んで、戦ってもいないのに疲労感がある。顔を上げる気力が起こらないので、まさかレオンが必死に笑うのを堪え、ルヴィックも微苦笑しているとは思わなかった。

 話を聞いているレオンは白い上衣に袖なしの黒の中衣ベストを身につけ、ゆったりした黒の脚衣に黒革の長靴という姿だった。ルヴィックが着ている襟高の上着を脱いだ姿だと思われる。レオンの中衣もルヴィックの上着もきらきらした釦がついていて、彼らの靴も革の色味に合わせた糸で刺繍を施してあった。


「あー……シルヴィア? そう落ち込むことはない。俺だって女官だの侍従だのに群がられて着せ替え人形にさせられるのは苦手だ」


 その言葉に希望を見出したシルヴィアはぱっと顔を上げた。


「あなたでもか?」

「ああ。逃げ出したいと思うし、幼い頃は本当に逃げた。何度もな」


 それを聞いて、シルヴィアの重い胸の奥から溢れた息が大きく吐き出された。レオンは笑ってシルヴィアの前に跪く。


「ドレスを着るのは苦手か?」


 こういう服だ、と投げ出した布切れのようにシルヴィアの身体に引っかかっている衣服を示される。


「初めて着るのでわからない。だが……なんというのか……」

「それじゃあ、最初に着ていたもののように足元が筒状に広がる形に忌避感はないか?」


 シルヴィアは考え、こっくりと頷いた。あれは戦女神ジルフィアラが与えてくれたものだ。眠っている間に身に着けていたからか違和感なく身に纏っていた。


「なら、締め付けるものや派手な装飾を避けたいのかもしれないな」


 レオンはそう呟き、ルヴィックに「誰でもいいから小姓を呼んでくれ」と言った。しばらくもしないうちに緊張した面持ちの少年が室内にやってくる。


「お呼びでしょうか、殿下!」

「うん。ちょっとその場でゆっくり一回転してくれるか」


 少年は困惑顔を返したが、ルヴィックにも頷かれて、戸惑いながらおずおずとその場で回って見せた。


「シルヴィア。彼の服装はどうだ?」


 意図するところを理解し、シルヴィアはもう一度じっくり少年を観察してみた。

 腿の辺りまである上衣を革帯で締め、細身の脚衣に足首まで覆う靴を履いている。ひらひらしている部分は最低限で、機能性に優れた衣服だとわかった。


「その衣服の下は、このような補正着を着けているのだろうか?」

「ちょ、シルヴィア!」


 胸元のそれを引っ張り上げた途端、飛んできたレオンがシルヴィアに上着を巻きつける。


「どうした、レオン?」

「素肌を見せるな。理由は後で、オリエたちに聞いてくれ」


 危なかった、とため息をつくレオンの後ろではルヴィックが立ちはだかり、彼に視界を塞がれた少年は顔を真っ赤にしていた。どのような危険があったのかわからないが、オリエに聞けと言うならそうするしかない。

 少年を退出させた後、ルヴィックが服を持ってきた。その後ろにはオリエとカンナとサアラがいて、シルヴィアの姿を見るなりほっとした顔をする。


「こちらにいらしたのですね。安心いたしました。申し訳ございません、殿下。わたくしどもの不手際で、シルヴィア様をご不快にさせてしまいました」


 オリエが言い、カンナとサアラが頭を下げる。


「今回は仕方がない。シルヴィアは思いを言葉にすることに慣れておらず、お前たちはそうした者を相手にした経験が不足していただけのことだ。これからはシルヴィアの意向を汲むようにしてやってくれ」

「かしこまりました」

「シルヴィアは、どれだけ時間をかけても構わないし、わからないならわからないと言っていいから、なるべくいま自分が何を望み何をしたいのか、気持ちや考えを伝える努力してほしい。それがお前自身と周りの者たちのためになる」


 言われたように思考し、シルヴィアは頷いた。


「その能力の向上は最優先事項だと私も感じた。積極的に行おうと思う」


 これでいいかと尋ねていないのに、まるでそれでいいと言うかのようにレオンは笑みを返してくれた。そうして女官たちに隣室を指し示す。


「お前たち、隣の部屋を使っていいからシルヴィアに着替えをさせてやって、……うん? どうした、シルヴィア」

「隣室に行かなければならないのか?」


 どのように言い表したものか、女官たちが悪人でないことはわかるがレオンの目がないと何か起こったときに対処できない気がするのだ。


「この部屋では、だめか?」


 レオンの顔を見て、だめなのだと悟る。こちらが察したと彼もわかったのだろう、視線を落とすシルヴィアの頭を撫でて言った。


「ああ、できれば隣に行ってほしい。危険があるならそうするが、そうはならないとわかっているからな。大声を出せば聞こえる距離だから、何かあったら呼んでくれ。すぐ駆けつける」

「わかった」


 着せかけられている上着の前をしっかり握り、女官たちに促されて隣の部屋に行く。

 部屋に入る前に振り返ると、レオンが軽く手を挙げて応じてくれた。

 それだけで、こちらに気を配ってくれていること、レオンという味方を得たことを確信でき、扉が閉まっても先ほどのように衝動に突き動かされることはなかった。


 壁の二面の棚に書物が詰め込まれているその部屋は、書斎と呼ばれるもののようだった。家具は大机と椅子、それから長椅子と小卓だ。卓の上には書籍が重なって置かれており、脱ぎ捨てたと思しき外衣が長椅子の背もたれにかかっている。


「先ほどは大変失礼いたしました、シルヴィア様」


 室内を見回していたシルヴィアの前にいつの間にか女官たちが跪いていた。


「逃げ出してしまうほど嫌な思いをさせてしまったこと、配慮に欠けたことをお詫び申し上げます。一つ一つ、確認しながらお着替えをお手伝いさせていただきます。よろしいでしょうか?」


 構わない、と言いかけて、それではだめだと思い直す。


(自分の気持ちや考えを、伝える。私は何がしたいか)


 オリエたちはシルヴィアの答えを待っている。レオンの言葉を忠実に守っているのだ。シルヴィアが逃げ出し、その理由を説明できなかったことでレオンに心掛けを説明されるに至ったのだから、今度は同じ失敗を繰り返してはならない。


「着替えは、問題ない。衣服は、着てみないとどのように感じるかわからない、ので、別のものがいいと言う可能性がある……」

「はい。かしこまりました」

「それから、衣服の着脱は自分で行いたいので、覚えたいと思っている」

「わかりました。お教えいたします」

「あとは……謝罪したい。逃げ出して、すまなかった」


 女官たちの顔から笑みが消えた。それぞれに目を見開き、瞬かせるなどして、後ろのサアラとカンナは目を見交わしている。想像と異なる反応に自らの過ちの可能性を察知し、シルヴィアは早口になった。


「謝罪は、間違いか? もっと別の言葉があるのか?」


 返ってきたものは、またシルヴィアの予想とは違っていた。

 女官たちが向けたのは、温もりを思わせる柔らかでいて太陽のように眩い笑顔だったのだ。


「いいえ。まったく、間違いなどではございませんとも」

「私は許されるだろうか?」

「許すも何も、悪いことは一つになさっておられませんから謝罪は無用です。ご自身に悪いところがあったとお考えになったシルヴィア様の謙虚な気持ちと、わたくしたちへの気遣いをありがたくちょうだいいたします。わたくしたちの方こそ、どうか先ほどのことをお許しください」


 シルヴィアはほっと息を吐き、尋ねた。


「もちろん、許す……こう答えるのは問題か?」

「いいえ。ありがとうございます、シルヴィア様」


 オリエはシルヴィアに微笑んだ。

 無残な状態の衣服を脱いで、新しい衣服に袖を通す。最初は手伝ってもらい、一度脱ぎ、教えられながら再び着る。裾や袖がめくれないよう、脚衣は短靴に綺麗に押し込むなど注意事項をしっかり記憶する。


「お髪が長いので、まとめてよろしいですか?」


 このように、と後ろで一つにして持ち上げて見せてくれる。問題なさそうだったので頷くとサアラが髪に櫛を通し始めた。


「本当に綺麗な銀の髪! 小姓の格好じゃなく、ドレスを着て凝った髪型にしたらどんなにお美しいか……」

「サアラ、お止めなさい」


 静かなオリエの叱責に「はい」とサアラは背筋を正したようだ。口を閉じてせっせと手を動かし、十分に梳かした髪をまとめて紐で結える。


「終わりました。ご確認ください」


 カンナの捧げ持った鏡に映るのは、高い位置に髪を一つに結び、紺色の上衣の灰色の脚衣、焦げ茶の短靴を身に着けたシルヴィアの姿だった。

 似たような格好をした少年を思い出し、その場でゆっくり回りながら姿を確認する。長い髪がゆら、ゆらんと揺れる様は馬の尾のようだが、衣服のひらめきはほとんどない。軽く、機動性に優れていて、ドレスに感じた忌避や恐怖とは無縁だった。


「いかがですか?」

「問題ない。衣服も髪も、機動性が損なわれないところが良いと感じる」


 よかった、と女官たちは今度こそ心底安堵したようだ。汚したときや替えの衣服、暑さや寒さを感じたときには言ってほしいという要望を承諾し、シルヴィアはレオンのいる部屋に戻った。

 まるで聞き耳を立てていたのではないかと思うくらいの素早い反応でレオンはシルヴィアを迎えた。直前の言動を気にかけてくれていたに違いなく、シルヴィアが落ち着いているとわかると目元を和らげた。


「着替えたな。どうだ、嫌な感じはしないか?」

「問題ない。あなたの見立ては正しかったようだ。ありがとう」

「ならよかった。色々あったと思うが疲れていないか?」


 シルヴィアは首を振る。


「疲労は感じていない」

「よし、それを信じていまから城を案内しよう。大国の王宮のように広くはないが、それでも新入りは一度は迷子になるからな」

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