人の国3 王権の代理者
崖下の街と対岸の市街を見渡せる、川からの風に吹かれる一本道を進んだ先に、先ほどよりもいかめしい意匠の城門がある。門と見張り塔にいた者たちが城内に入るこちらに「おかえりなさいませ!」と笑顔で言った。
そういえば街の門番も同じように声をかけてきた。そういう風習が存在するのか、それともそのように声をかけるのが当たり前の知己の間柄なのか。
疑問を口にしようとして、だがシルヴィアはそれを一度飲み込んでみることにした。別の件で「行ってみればわかる」とレオンが言ったことを思い出し、時間を置けばわかることもあるのだという知識の正否を確認してみようと考えたのだ。
城門から一歩入れば、陽の光が広々とした前庭を明るく照らしている。
後続の者たちは「団舎に戻ります」と告げて別の細道に去って行った。
シルヴィアはレオンとともに、登城者がするようにぐるりとした道に沿って馬を歩かせ、城の入り口に至った。そこには貴人らしい身なりの男女が待ち構えていて、下馬したレオンに深く頭を下げた。
「おかえりなさいませ、殿下」
レオンがそこにいた者の一人に馬を任せ、シルヴィアを抱き上げて下ろす。
「いま帰った。ルヴィックはいるか?」
「はい。ここに」
城内から声の持ち主が現れた。金の髪と青い目をしていて、レオンと同じくらいの年齢と思われる男性だ。この場にいる誰よりも立派な身なりで、彼は土埃で汚れたレオンに恭しく頭を下げた。
「無事に戻られたようで何よりです。ランディから知らせを受けましたが、今度は何を拾って来られたんですか?」
「人聞きの悪い。何でもかんでも拾ってきているわけじゃない」
「【戦乙女】を名乗る少女を連れ帰る時点で説得力は皆無です。王太子ともあろう方が、何故自ら厄介ごとを持ち帰ってくるのか、是非納得のいく理由をお聞かせいただきたい」
笑顔と笑顔を付き合わせる二人を見比べて、シルヴィアは同一に括られる表情であっても質や温度に差があることを知る。そうして少しの間考え、レオンがこのルヴィックという男に責められていること、原因はシルヴィアで、シルヴィアの来訪は歓迎されていないと気付くに至った。
「レオン。あなたが現在直面している問題は、私が去れば解決するものか? ならばいますぐ立ち去ろう」
レオンはぎょっとし、ルヴィックも驚いたらしく目を瞬かせた。
「待て待て、早まるな。お前が悪いんじゃない」
「私の処遇について責められているのだろう。私が立ち去れば、あなたが追及される理由は消滅すると考えられる」
そう言って今度はルヴィックに向き直った。
「レオンは大変親切な人間だ。未熟な状態の【戦乙女】に助力しようという美しい善性で、私を招いてくれた。そのような人間に咎を負わせるのは忍びないので、私は立ち去る。そうすれば彼を責める必要はなくなる」
それを聞いていた者たちがぽかんとしていることも、レオンが顔を覆って視線を逸らしていることがどういうことなのかも理解しないまま、シルヴィアは踵を返す。
だがすぐさま行く手に立ち塞がったのは、非難されているはずのレオンだ。
「待ってくれ、シルヴィア! 悪いのは俺だ、俺が責められて然るべきなんだ。お前は関係ない」
「……そうですね」
彼の背後で同意したのはルヴィックだった。先ほどとは違い、淡い微笑を浮かべている。
「誤解を招いた物言いをしたこと、深くお詫びいたします。私が責めたのはシルヴィア殿についてではなく、あなたを必死に引き留めようとしているそちらのレオン殿下の素行です」
ルヴィックがレオンに視線を送る。
「その方は王位継承を控える身にも関わらず、討伐隊を率いたり凶悪な事件や騒動に首を突っ込んだりと、自重を知らない本当に困った王太子殿下なのです」
それを聞いていた他の男女は苦笑を浮かべ、あるいは笑い出しそうになりながら小さく頷いて同意を示した。
「【戦乙女】を城に招く、ましてや我が国に滞在させるということは、事前に政に携わる者の間で話し合うべき事項であって独断で決めていいことではない。ですからその身勝手をお諌めしなければなりません。そして僭越ながら私めがその役目を負っています。これは決して特別なことではなく、この国この城では日常であり、たとえシルヴィア殿が立ち去ったとしても別の事由でよく似たやり取りが始まります。殿下が、自らの行いを改めることがなければ」
ルヴィックは最後の台詞をどの部分よりもはっきり発音する。だが顔を背けて決して彼を見ないレオンを観察し、シルヴィアは言った。
「レオンはあなたたちを困らせる難儀な人間か」
「はい」
「同意するな、ルヴィック。シルヴィアは言われたまま素直に受け取るんだぞ」
「嘘は言っていないと、殿下自身がご存知のはずでは?」
「レオン。あなたは善意溢れる人間だが、困っている人を無視してはいけない」
「ぐっ、う……!」とレオンは苦痛を感じている険しい顔で胸元を握り締める。
「行いを改めてくださいますか?」
「…………ぜ、善処……する…………」
それを聞いたルヴィックはそれまでの様子が嘘のような満面の笑顔だった。
「さて、存分に殿下をやっつけましたので改めて」との言葉に「やっぱりわざとか」とレオンが呟いたのを聞いてから、ルヴィックはシルヴィアに身を屈めるようにして言った。
「――ようこそ【戦乙女】。誉れ高き戦乙女を我がヴィンセント王国に迎えられること、大変光栄に存じます。女神を迎えるのは初めてのことですので行き届かぬところがあるでしょうが、この国での日々が幸福なものとなるよう、我ら一同、心を尽くしてお手伝いいたしましょう」
シルヴィアは彼と、控えている男女を見て、最後にレオンを見上げた。彼らのやり取りのすべてを理解したわけではないが、先ほどとは違ってルヴィックが歓迎しているのはわかった。
「私が立ち去る必要はない、という解釈で間違いないか?」
「はい。反対する者がいたとしても、殿下が責任を持って対処に当たります」
「わかった」と頷いて、レオンを見る。
「必要ならすぐに立ち去るので、そのときは教えてほしい」
「絶対そんなことにはならないし、むしろお前自身がずっとここにいたいと思えるようにしてやる」
呆れたように言いながら、レオンはシルヴィアの頭をぽんぽんと撫でて、その存在をルヴィックたちに示すように押し出した。
「戦女神の愛子の一人、シルヴィアだ。人の世に不慣れで知らないことが多い。みんなよくしてやってくれ」
「かしこまりました」と答えたルヴィックたち、そのうちの数名はシルヴィアの視線ににっこりと笑顔を返してくれた。
「まずは着替えだな。その間にお前の今後の方針を決めておくから、終わったら俺の部屋に来てくれ。ここまでで何かわからないことや聞いておきたいことはあるか?」
「ある」
いまのシルヴィアにとって、知識を得るための最も有効な手段が問答だ。機会があるなら積極的に用いたいと考えているし、いまがそのときなら逃すはずがない。
「あなたの親切に甘んじるのは成長に繋がらないと考えてしばらく観察と推測を試みていたが、確信が持てないでいるので尋ねたいことがある。レオン、あなたは『レオン様』で『殿下』で『王太子殿下』なのだな?」
レオンの口の端が小さく持ち上がった。
「そうだ」
その瞬間レオンのまとう空気が変わる。
「俺はヴィンセント王国第一王子。名をレオン・エヴァルト・ヴィンセントという」
黒い髪、黒い瞳、その出で立ちは国主というより戦士の印象だが、こうして相対しているとこれまで出会った誰よりも、レオンは国を治める者らしい気配をまとっている。それを人は王族の威厳、あるいは王者の風格というのかもしれない。自らの身の上を自覚し、名乗ることに慣れた態度だった。
一つの回答を得てシルヴィアは頷いた。
「私の滞在と許可について行ってみればわかると言ったのは、ルヴィックが与えたような諫言を想定しつつも、私の処遇を自ら裁量できると確信していたから。『王太子』が次期国主となる者を指す言葉なら、あなたは国主に継ぐ権力の持ち主だ」
そうして首を傾げた。
「私はこのように考えたが、正誤が知りたい」
問いと視線を受けて、レオンはしばらく沈黙していた。
「……その通りだ。気を悪くしたか?」
聞き逃すまいと視線を真っ直ぐ向けながら注意を払っていたが、レオンは急に眉尻を下げたかと思うと、シルヴィアには読み取りきれない複雑な笑みを浮かべた。するとますます疑問が深まる、いや新しく生じたというのが正しいか。
「気を悪くしていない。だが質問の理由と意図がわからない。何故私が気を悪くすると考えた?」
シルヴィアが言うと、レオンが「うう」と呻きながら片手で顔を半分覆ってしまった。ルヴィックが「自業自得です」と冷たく言い放つ。
「……この歳になって悪戯の詳細を説明させられるのは、正直きつい……」
レオンは長い沈黙の果てに、肩を落としながら深く息を吐いた。
「……驚くことを期待して、あえて自己紹介しなかった。そうしたふざけた行為を不愉快に感じたんじゃないかと思ったんだ」
「理解したが、別の疑問が生じた。何故不愉快になる可能性のある行動を取った? あなたがそのようなことをする人間ではないと思っていたが、私の思い違いだったということか」
「…………」
シルヴィアは反対側に首を傾けて、黙りこくる彼の顔を見ようとした。こうするとレオンの顔がそのままよりも少しだけよりしっかりと捉えられるようになると発見したからだ。
「レオン?」
「その辺りで勘弁してあげてください」
不意に、ルヴィックがくすくすと笑って口を挟んできた。
「彼は悪戯と呼ばれる行為を非常に好み、得意としています。悪戯による驚きは人を不愉快にすることもありますが、楽しさや感動といった正の方向の心の動きにも繋がる。ですから少なくともあなたを攻撃する目的ではなかったと理解していただけますか?」
言葉の意味を咀嚼したシルヴィアは「おお」と感嘆を漏らした。
「そうか、悪戯には善悪があるのか。だから私はレオンの善い悪戯には不愉快にならなかった、そういうことだな」
「ご理解いただけたようで何よりです。では殿下、こういうときに何と言えばいいか、シルヴィア殿にご教授をお願いいたします」
笑ってシルヴィアを指し示すルヴィックからは自業自得だと言い放ったときと同じ気配が感じられたが、学びを目的とするシルヴィアはそれよりも『教授』という言葉に惹かれてレオンを見上げた。
「何を教えてくれるんだ、レオン?」
「…………」
自らの成長と気付きを得て、期待や喜びを表情に描き出しているのは誰の目にも明らかだっただろう。そんなシルヴィアに、レオンは、ゆっくりと跪いた。
「――心を騒がせ、混乱させるような真似をして、すまなかった。この通り謝罪する」
黒い瞳で見つめ、膝を突いた姿で頭を下げる。
謝罪の意味は知っているが、レオンがそうする意味や理由に適当な知識がなく、シルヴィアはレオンとルヴィック、周りのいる者たちを見て答えを探し、結局レオンに問いかけた。
「これが謝罪であると理解した。私はどうすればいい?」
「怒っていない、わだかまりがないと思うなら『許す』。そうでないなら『許さない』と応じるんだ。――許してくれるか?」
面白がる、けれど悲しげな瞳。
どこかで見知ったような、数少ない記憶に何かが引っかかるような感覚を覚えたが何一つ確信が持てず、シルヴィアはその理由を探すことを一度放棄する。そうしてレオンの言葉を受け止め、頷いた。
「許す。私は怒っていないし、わだかまりも覚えていないからだ。――これでいいか?」
「ああ。ありがとう」
レオンは目を細めて笑い、立ち上がる。素早くその手を掴んだシルヴィアは驚くレオンに言った。
「こちらこそ『ありがとう』。あなたのおかげで謝罪と感謝を理解できた。身を挺して学習の機会を与えてくれたあなたは、真に善き人間だ」
「あー……うん、そうだな……その言葉に恥じないよう日々心掛けるようにする」
頭を撫でられると同時に視界を軽く塞がれる。その影の向こうでレオンが「恨むからな」と言って、恐らくルヴィックが笑う気配がしたが、手が離れたのはその後だったので確かめることができなかった。
それからシルヴィアは笑顔で先導する女性たちに続いて城内に入ったが、行き先が別れるところでレオンに呼び止められた。
「シルヴィア。一つだけ訂正させてほしいことがある」
「なんだ?」
「ヴィンセント王国の国王は約一年前に逝去し、いまは王太子の俺が王の代理人をしている。だからお前の滞在を国主が認めないということはあり得ないんだ」
殿下、とルヴィックが静かにレオンを促す。
どこか陰りを感じるレオンに何か言うべき言葉があったのかもしれない。だがシルヴィアには思考も言葉も足りず、現状最適であると考えた最低限の言葉を口にするしかなかった。
「そうか。教えてくれて、ありがとう」
それが正解だったのかはわからない。
レオンは笑みを深めてシルヴィアが去っていくのを見送っていたので、きっと誤りではなかったのだと信じるほかなかった。
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