第1章
人の国1 地上のもの
青い空。白い雲。
緑に覆われた大地。
風。湿った土の香り。
鳥の影。虫の羽ばたき。
そうしたものを一通り味わいながら、シルヴィアはどこを目指すというでもなく歩き続けていた。
身につけているのは白色の一枚続きの衣服と剣のみ。寒暖について特に何も感じず、裸足だが傷付いてもどうとも思わない。自らの最も快適な環境をまだ知り得ないシルヴィアは、足裏を保護しなければ傷を負って動きづらくなるという気付きも、いまが薄物の女性用衣服でちょうどいい気候なのだという考えも持たなかった。喉の渇きと空腹も、感覚はあるが理解するには至らない。
どこかに人が住んでいて、人工的な道を進んでいけばいずれ何者か遭遇すること、水源の近くに人間が寄り集まって暮らす場所があるといった知識は【
行き先もなく、心当たりもない。剣を手にしたまま、感覚だけで淡々と足を進めている。
「…………」
だからこのとき、真っ直ぐ歩くだけだったシルヴィアが急に進路を変えたのは本能に他ならなかった。
感じるままに駆け出して、見つけた。
闇に覆われた巨人どもが、小さな群れを形成している人間に襲いかかっている。
それは漆黒の闇と影に覆われ理性を失った目をした生き物。暴力的な衝動に支配され、光に祝福された命を奪おうとするものたち。戦女神ジルフィアラの獲物、主神アンブロシアスの敵、魔神ディセリアルの眷属であり、憎悪と破壊の化身。
人の世では『魔物』と呼ばれるそれは【戦乙女】にとっても狩るべき存在だ。
獣のごとき疾走で巨人めいた魔物に肉薄したシルヴィアは、帯びた剣を抜き放つと同時にその闇を断った。
さらに背後に跳躍しながら中空で身を反転させ、地に落ちる勢いとともにもう一体へと剣を振り下ろす。
その刹那、シルヴィアは見た。
二体目の魔物を斬った、その反対側から剣を振り上げて魔を切った男の、強く輝く黒い瞳を。
視線が交差したのは一瞬だった。残存する魔物に向かおうと目を逸らしたシルヴィアだが、その場にいた人間たちがそれらをちょうど倒しきったところだった。
人間とは非力なものだと思っていたが、違うのか。魔物のすべてが【戦乙女】が戦わねばならないほど強力だということはないが、人間が容易に倒せるものでもない。すなわちこの場にいるのは戦闘に長けた者たちなのだろう。
新たな魔物が出現する気配がなかったのでシルヴィアは剣を収めた。そこへ大きな人影が指す。
先ほどの黒い瞳の男がシルヴィアを興味深そうに見下ろしていた。
年齢は恐らく二十代前半。男性。短い黒髪と黒い瞳の持ち主だ。状況から予測するに、普段から剣を使い慣れている者だ。戦いを日常とする者ならではの鍛えられた身体をしている。
「――何者だ?」
探る声に問われ、答える。
「【
男は顔をしかめた。
「それは戦乙女のことだろう。それともそれがお前の名なのか?」
「識別するための名称かと尋ねているなら、そうだ」
疑問に答えただけなのにますます変な顔をする。理由がわからず黙って見返していると彼の傍らに別の男が立った。明るい炎のような赤毛と緑の瞳をしている。
「ご無事ですか、レオン様! あの、こいつは……?」
「俺は無事だ、ランディ。他の者に被害は?」
ランディと呼ばれた赤毛の男はシルヴィアから視線を外して背筋を伸ばす。
「少々傷を負っていますが、問題ありません。すぐに出発できます」
「それなら何よりだ」と大らかに応じたレオンなる男はそうして再びシルヴィアに目を向けた。
「シルヴィア、と言ったな。近くに家があるのか? そんな薄着で、しかも裸足でどこへ行こうとしていた?」
「先頃こちらに降りたばかりなので居住地はまだない。目的地もないが、人の世で学ぶよう我が主に仰せつかっている」
「レオン様、あんまり関わり合いにならない方が……」
訝しむ視線のランディとは違い、レオンのそれは静かで揺るぎなく注がれている。シルヴィアを見定めようとしているらしい。
「我が主とは、戦女神ジルフィアラか? そしてお前はその創造物である【戦乙女】だと」
「そうだ」
「【戦乙女】にしては幼いな。俺が知っている話では妙齢の乙女の姿をしているんだが、そういうわけでもないのか?」
「その認識でおおむね間違いない。私は番外だ。我が主の想像し得ない何らかの不具合によって規定よりも早く目覚めてしまったので、このように身体が幼いらしい」
「なるほど。それは色々と困ったんじゃないか? 子どもの見た目だと何をするにも制限があるだろう」
「先にも言ったように降りてきたばかりでそのような不自由にはまだ遭遇していない。すると人の世は幼い身体で活動するのに不向きなのだな。有用な知識を得た。感謝する」
そのときランディがレオンの腕を強引に引いた。
「普通に会話しないでくださいよ!? こんな綺麗な顔で、子どもの見た目でごっつい剣を持って、この喋り方はどう考えてもおかしいですって!」
「戦女神の創造物なら納得がいく。地上に降りる戦乙女は豊富な知識と戦う術を備えているそうだぞ」
「だとしてもこんな西端の小国に降りてくるわけないでしょ! 何しに来るんですか、こんな『善き力』の薄いど辺境に!?」
西端、と聞いたシルヴィアは知識の引き出しを開ける。
この世界には主神アンブロシアスを中心とした神々の力が満ちている。人はそれを『善き力』と呼び、様々な恩恵を受けていた。人間の最も大きな発明が『魔法』と呼ばれる術だ。神々の力を利用して擬似的に奇跡に近しい事象を発生させるため、異端を意味する『魔』の呼び名を用いられている。
その魔法も、善き力がなければ使うことはできない。神々の力の濃度は川の流れや大気の動きのようにところによって不均衡なものだった。主神を奉じる者たちが集う御神山ルトが最も力が濃く、離れていくにつれて薄くなる。その他、神と人の行いによって力が失われた土地、あるいは与えられた場所がある。
そして善き力が行き渡らない地域は魔神ディセリアルの侵攻を受けやすい。主神アンブロシアスと敵対し、世界を滅ぼして作り直そうと目論むディセリアルは自らの力を敷くために神々の目が届きづらい場所に狙いを定めるのだ。
ここが西の端というのなら、ディセリアルの眷属である魔物の出現は日常茶飯事なのだった。彼らが戦闘に慣れていることに納得がいった。
シルヴィアは空を見上げた。太陽の位置からおおよその方角を導き出すと、東へ向かって歩き始める。あっとレオンが声を上げた。
「おい、どこへ行くんだ?」
「目的地はない。方角を尋ねているなら、東だ」
世界を学べ、人と関われと命じられているので、まず学ぶ機会を増やす。ここが西の端だというなら、東には大国があり大勢の人間がいるはずだ。
するとレオンはランディの腹部に肘を入れた。
「ほら、西の端の善き力の薄い田舎国などと余計なことを言うからだぞ」
「ぁ痛っ! 言いがかりです、田舎国とは言ってません!」
「まあ事実だけどな。民よりも出現した魔物の数の方が多いかもしれん」
からからとレオンは軽やかな笑みをシルヴィアに向けた。
「確か、目覚めた【戦乙女】は人の世に降臨し、世界と関わることで心身を高め、来る日に神々の国へ戻るんだったな?」
「人間にどのように伝えられているか詳細は知らないが、その認識は大きく誤っていないと思う」
「だったらシルヴィア。この国に来ないか?」
レオン様! とランディが叫んでいる。
だがシルヴィアを見るレオンの瞳は輝き、明るく活き活きとしていて――何故だろう、目が離せない。
「東の国々に比べれば劣るところは数多ある。だがこの地にあるものは強く優しいものばかりだ。魔物という災いこそあるが、豊かな自然に恵まれ、鳥や獣は自由に、人々は素朴な人柄と温かみのある心を持って毎日を営んでいる。日々の糧、手仕事、風土に根ざした街や村々はこの国のかけがえのない宝だ。だから俺はこの国を戦乙女に知ってほしいと思う」
レオンは右手を差し出した。
「この国に来てほしい。お前がどのくらいこの世界にいるのかはわからないが、その間にヴィンセント王国を知ってくれるのならこんなに嬉しいことはない」
勝手に右手が動こうとする。
自らに起こった不可思議な現象にシルヴィアは疑問を抱く。だが不具合なのか判別がつかない。右手を観察しながら握ったり開いたりを繰り返すが問題なく動く。魔のものに操られたような気配もなかった。
「どうした、手が痛むのか?」
「いいや。勝手に動いたと感じたのだが気のせいだったようだ。問題なく自らの意思で制御できている」
これも未熟なまま目覚めることになった影響なのかもしれない。今後同じことが起こる可能性を考えて十分注意しなければならなかった。
レオンは黙ってこちらを見ている。返事を待っているのだと理解し、シルヴィアは口を開いた。
「私はあなた方の知る【戦乙女】に比べて性能が劣っていると考えられるが、問題ないか?」
するとレオンは考えるように腕を組んだ。
「それは、問題なのか? 俺にはよくわからんが、戦女神の創造物でもそれぞれ違いがあるものじゃないのか」
胸を突かれた気がしたが、敵意も武器も魔の気配もないから思い違いのはずだ。だというのに何故か速さを増す鼓動を感じつつ、シルヴィアは頷いた。
「少なくとも髪や瞳の色、容姿は、我が主が異なる形にしておられる」
「なら劣っていると言う性能とやらも個性だろう。それに戦乙女が人の世を学ぶというなら、性能部分も成長させれば問題ないんじゃないか?」
先ほどからレオンはシルヴィアには予想もつかないことを口にする。
世界と命と自らを知るために地上に降りるのが【戦乙女】のさだめ。ならばその目的に現在は劣っている性能を高めることも加えればいいとレオンは言うのだった。
黒い目を瞬かせていると彼は途端ににやりとした。
「ならばなおさらこの国をおすすめするぞ。魔物が頻繁に出現するから戦いには事欠かないからな」
「なるほど。検討に値する貴重な意見だ」
シルヴィアは頷いた。
「その誘いを受けよう。よろしく頼む」
「そうか、来てくれるか!」
レオンはそれまで以上に声を弾ませると、頭を抱えているランディを振り返った。
「聞いたか、ランディ。今代の【戦乙女】を招く栄誉にあずかったぞ!」
「何者かわからないのに勝手に決めて……何があっても知りませんからね!?」
「先ほどから名乗っている。私は【
先ほどレオンが話していたのに聞こえなかっただろうと思って言ったが、ランディは緑の目を険しくした。
「口では何とでも言える。レオン様が決めたことだから黙るが、俺はお前を信用したわけじゃない」
「あなたの言う通りだと思う。私もあなたのことをよく知らないので、信用できない」
途端にランディは奇妙な顔になって言葉を失い、レオンはぶはっと大きく噴き出した。何が起こっているのかわからないシルヴィアは、真っ赤な顔で肩を怒らせたランディがきつくこちらを睨んで背を向け、周囲にいた他の者たちに迎え入れられているのを眺める。
「ランディは俺を心配してああいう言動をするんだ。気を悪くしないでやってくれ」
「別に気分は害していない」
そうだろうなとレオンは理解できない理由で笑い、手を伸ばしてきたかと思うとシルヴィアの頭をぽんぽんと軽く叩いた。
「何故殴る?」
「すまん! 痛かったか? 加減したんだが……」
「いや、痛みは感じなかった。だが苦痛を与えない殴打の理由がわからない」
慌てたように触れた手を跳ね上げたレオンは、それを聞いてほっと肩の力を抜き、目を細めて温かさを感じる笑みを浮かべた。
「これは撫でたんだ。殴ったんじゃない。親愛の表現の一種だ」
「そうか。理解した」
レオンはくすくすと笑っている。
「何故笑う?」
「それは帰りの道すがらに説明してやる」
そう言ってシルヴィアの頭をまたぽんぽんと叩き、周囲の者たちをぐるりと見回した。
「そろそろ出発する。準備は?」
「完了しております!」
他の者たちから応答があり、ランディが引いてきた馬の手綱をレオンに託す。だがランディはシルヴィアと目が合うと露骨に顔を背けてしまった。レオンはくくっと笑いを噛み殺すと、シルヴィアを軽々と抱き上げて騎乗させ、自らはその後ろに跨がって手綱を取った。
「負傷者に限らず変調を来した者は速やかに申告するように。では王都に向けて、出発!」
同じように馬に乗った面々に大声で告げ、レオンは馬を駆ってシルヴィアを見知らぬ地へと誘った。
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