第16話

「ありがとう海。嬉しい」



思わず抱きついてしまいそうになったが、グッと感情を押し込めて我慢した。



「学校まで送るよ」



「え……」



海の言葉にあたしは更に目を見開いていた。



高校を中退している海にとって学校いう場所は一番苦手な場所だった。



自分が続けることができなかった学校生活を、他のみんなは当然のように続けている。



それは海のプライドをズタズタに切り裂くものだった。



それでも、海はそんなこと気にしないと言った様子で、あたしの隣を歩き出した。



あたしが学校に行くことを嫌にならないよう、歩いている間中ずっと楽しい話をしてくれて、あたしを笑わせてくれる。



気が付くとあっという間に学校に到着してしまっていた。



それでも海と離れるのが名残惜しくて校門前で立ちどまってしまった。



「海、今日はありがとう」



「俺にできることなんてほとんどないんだ。これくらいしか……」



海はそう言い、情けなさそうに俯いてしまった。



あたしのためにもっとなにかしたいのだろう。



その気持ちだけで十分だった。



「十分だよ」



あたしは海の手を握りしめてそう言った。



「あたしの彼氏が海で良かった」



あたしはそう言い、海に手を振って校舎へと向かったのだった。


☆☆☆


「珍しく彼氏と一緒に登校してたね」



教室に入ってすぐコトハがそう声をかけてきた。



「うん。昨日ちょっと色々あって、心配してくれたみたい」



「そうなんだ? そういえば昨日保健室にいたよね。なにがあったの?」



その質問には答えられなかった。



コトハはきっと黙っていないだろう。



それにあんな出来事、友人のコトハにも知られたくはなかった。



教室内を見回してみると、まだ三好君と明智君は来ていないようだ。



でも、あの2人の姿を見るとどうなってしまうか……。



「ごめん、ちょっとトイレに行ってくるね」



気分を変えるために席を立ち、1人でトイレに向かう。



あの2人が来たってあたしには関係ない。



存在を無視していればいいんだ。



個室に入り、自分にそう言い聞かせる。



昨日あんなことがあったのだから、もしかしたら2人はこないかもしれない。



ブツブツと呟いていると、途端に個室の外から声が聞こえて来た。



「この中からなんか声が聞こえて来るんだけどぉ!」



それは香澄の声であたしはハッと息を飲んだ。



咄嗟に外へ出ようとしたが、遅かった。



ドアは何かで固定されビクともしない。



「ちょっと、開けてよ!」



自分の声がトイレ内に反響する。



「あははっ! 星羅ちゃんって人の顔が見えないと生意気だよねぇ」



香澄の声にあたしは押し黙ってしまいそうになった。



香澄の言う通りだ。



目の前に人がいればなにも言えなくなってしまうのに、こうしてトイレのドア越しなら気持ちをぶつけることができる。



「せっかくだからずっとそこにいればいいじゃん」



今度はマチコの声が聞こえて来た。



きっと、何人かとりまきたちも一緒にいるのだろう。



嫌な予感がしてあたしは背中に汗が流れて行くのを感じた。



「そこにいれば、言いたいことが言えるんだもんね!」



ナツコが笑っている。



「出して!」



あたしはトイレのドアを叩いて声を上げた。



その声に反応して外からは笑い声が返って来る。



どうにかドアを開けられないか、叩いたり体当たりをしてみてもダメだった。



一体どうやってドアを塞いでいるんだろう。



焦りと恐怖が湧き上がり、個室の上部へと顔を巡らせた……その瞬間だった。



青いバケツが視界に入ったかと思うと、冷たい水が頭上から振ってきたのだ。



それはあたしの全身を濡らし、異臭を放っている。



「あはは! くっさー!!」



香澄の笑い声が幾重にも反響する。



茶色く濁ったそれは汚水のような臭いがするが、水と一緒に落下してきた雑巾を見て少なからず安堵してしまった。



これは糞尿にまみれた水ではない。



掃除道具で汚した水だ。



こんな汚い水をかけられて安堵してしまう自分が情けなかった。



やがて外の笑声が消えて、あたしはトイレに1人残されてしまったのだった。


☆☆☆


その後、偶然トイレに入って来た他のクラスの生徒に助けられたあたしはまた保健室に来ていた。



今回は汚い水で汚れていたため、さすがに誤魔化すことはできなさそうだ。



部活用のシャワーを借りて体操着に着替えて保健室へ戻ると、険しい表情をしたコトハが待っていた。



保険の先生は気をきかせたのか、今は出ているようだ。



「昨日、なにがあったの?」



コトハがまっすぐにあたしを見据えてそう聞いて来た。



「昨日は別に、なんでもないよ」



そう言ってほほ笑んで見せたけれど、コトハはあたしから視線を外さなかった。



「先生たちも心配してたよ? 後から事情を聞かれると思う」



コトハの言葉にあたしは大きくため息を吐きだした。



そうなることは理解していたけれど、簡単に説明できることじゃない。



言いたくないという感情の方が勝ってしまうのは、あたしだけじゃないはずだ。

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