第10話

長かった前髪は眉の上まで切り、充血していた目は生き生きと輝いていた。



ほんの数日で人がここまで変われるとは思えない。



例え変わる事ができたとしても、その本質は変わらずどこかに影が潜んでいてもよさそうなものだ。



しかし、ユズの場合は全くそんなものも見られなかった。



まるで元々明るく活発な性格だったようにふるまっているのだ。



そしてユズ自身もそれが当然のことのようで、なんの違和感もなくクラスの中心にいた。



その光景を思い出すとまた足が速くなった。



一刻も早くこのアプリを海にも使いたい。



そして出会ったころの海のように、優しく勇敢な人になって欲しい。



よく晴れた空も、あたしのことを祝福してくれているように感じられた。



大通りを抜けて公園を通り抜けると、海の家はすぐ目の前だった。



あたしは来馴れた赤い屋根の家の前で立ちどまり、一度大きく深呼吸をした。



大丈夫。



今日はアプリがあるから、きっと海に殴られることもないだろう。



そう思うと自然と頬が緩んだ。



世の中には好きな人と一緒にいられるだけで幸せだと言う人もいるけれど、それは相手が良識のある人間だからだ。



海のようにどこに地雷が埋まっているかわからず、その地雷を踏んづけてしまった瞬間爆発するような人とは、一緒にいられない。



いくら好きでもそれだけでいいというワケにもいかなくなる。



あたしはそんな自分に嫌気がさしてきていたところだった。



海のことが好き。



離れたくない。



だけど殴られるのは嫌。



でも、それはあたしのせいもある……。



そんな進歩のない考えを延々と繰り返してきたのだ。



でも、それも今日で終わりだ。



あたしは胸を張って、チャイムを押したのだった。


☆☆☆


「お前、なに笑ってたんだよ」



それは海の部屋に招き入れられて開口一番だった。



「え?」



あたしは聞き返しながら、テーブルの前に座る。



ここがいつものあたしの定位置だ。



海はテーブルの向かい側に座ることが多い。



「家に来たとき、ニヤニヤしてただろ」



そう言われてあたしは軽く息を吐きだした。



玄関先でついニヤついてしまったところを、見られていたみたいだ。



「別になんでもないよ」



見られていたことに多少の恥ずかしさを感じて、あたしはほほ笑んだ。



でも、それが海にとっての地雷だったみたいだ。



海は突然あたしの胸倉を掴み、引き立たせたのだ。



突然のことでなんの抵抗もできずやられるがままになるあたし。



「俺のことを笑ったんだろ!」



「ち、違うよ!」



怒鳴られ、咄嗟に言い返す。



すると海の顔が真っ赤に染まり、目が吊り上がって行く。



「いつもいつも家から出てこない俺のことを見て、笑ったんだ!」



海はそう怒鳴るとあたしから手を離し、同時に蹴りが飛んできていた。



海の蹴りはあたしの腹部に入り、そのまま倒れ込んでしまった。



痛みに悶絶し、体をくの字に曲げて苦痛で呻く。



朝ご飯が出てきてしまいそうで、必死に唾を飲み下す。



涙が滲んで海の顔が上手く判断できなくなった。



「俺のことを笑いやがって! テメェそれでも彼女かよ!」



海は更に怒鳴りつけ、あたしの横腹を踏みつけた。



「ぐっ!」



と、鈍い声が喉から漏れた。



咄嗟に殺されると感じ、這うようにして部屋の隅へと移動した。



今日の海は普段以上に機嫌が悪いみたいだ。



きっと、両親からなにか言われたのだろう。



あたしは必死にバッグを手繰り寄せてスマホを取り出した。



「なにしてんだよ」



海があたしからスマホをうばおうと手を伸ばす。



しかし、あたしがアプリを起動する方が早かった。



音楽が流れ出した途端、海は動きを止めた。



ジッと食い入るようにあたしのスマホを見つめて、音楽に聞き入っているのがわかった。



あたしは痛む腹部をかばいからだ上体を起こした。



それでも海は反応しない。



まるであたしが見えていないように見えて、少し不安を感じた。



けれどそれもつかの間だった。



10秒ほどで音楽は止まり、同時にあたしは「優しくて勇敢な人になる」と早口で言っていた。



あたしの言葉に海は驚いたように目を見開き、そして瞬きを繰り返した。



「海……?」



恐る恐る声をかけると、海は「あ……」となにかに感づいたようにあたしへ視線を向けた。



すると次の瞬間あたしの手を取り、自分の方へと引き寄せていたのだ。



「ごめん星羅。大丈夫か?」



本気で心配したような声。



「え……?」



「俺、さっき星羅のこと蹴ったよな?」



「う、うん」



頷きながらも嬉しさと戸惑いが込み上げて来た。



これが海の本心なのかどうか、判断ができなかった。



普段から海はあたしを暴行したあと、極端に優しくなるのだ。



『悪かった』『ごめんな』そう繰り返してあたしを抱きしめてくれる。



だけど必ず『お前が悪かったんだ』という言葉を付け加えるのだ。

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