第2話

恐怖で心臓が音を立てる。



「そ、そんなことない!」



確かに海は無職だった。



同じ17歳だが、海は高校1年生の頃自主退学した。



通っていた学校と海とは空気が違い、会わなかったのだ。



それでもあたしはそんなこと気にしていなかった。



海と出会ったのは、海が高校を辞めた後だったのだから。



学校にもいかず停職にもついていないのはどうかと思うが、こうして海の部屋で2人のんびり過ごす時間は好きだった。



だから特に咎めることもなかったのだけれど……その実、海は1人で気にしていたのかもしれない。



「海は海で頑張ってるじゃん」



どうにかこの場の雰囲気を変えたくて、無理矢理笑顔を作った。



本当は恐怖心で体中の筋肉が強張っている。



しかし、海にあたしの気持ちは伝わらない。



微笑んだあたしを見てこめかみをひくつかせ始めたのだ。



「なに笑ってんだよ……俺のことバカにしてんだろ!」



海の声はついに怒りで震え始めた。



顔が赤くなり、目は吊り上がり、その見た目はまるで赤鬼だ。



あたしはゴクリと唾を飲み込んで、慌てて左右に首を振って見せた。



「バカになん……!」



そこまで言って、喉に言葉が張り付いた。



海の怒りが怖くて言葉を続ける事ができなくなった。



「なんだよ……やっぱりお前は俺をバカにしてたんだろ! 一番近くにいて俺のこと笑ってたんだろ!!」



海があたしの腕を掴む。



「……っ!!」



あたしはその手を咄嗟に撥ね返していた。



海が眉間に深いシワを寄せてあたしを睨む。



恐怖で失われてしまった言葉はまだ戻って来ない。



あたしが今の海を説得するのは無理だった。



焦りに背中に汗が流れて落ちていく。



「お前……っ!」



手を振りはらわれたことで更に怒りに顔を赤くした海があたしに再度手を伸ばす。



寸前のところでその手をすり抜けて、あたしは部屋から駆け出していた。



勝手知ったる海の家だ。



あたしは部屋を出て正面の階段を駆け下り、廊下を走って玄関にたどり着いていた。



後ろから海が大きな足音を立てながら追いかけてくる。



それはさながら大男が子ウサギを追うような構図だった。



子ウサギなんて、1度捕まってしまえばもう逃れることはできないだろう。



あたしは玄関先でもたつくのが嫌で靴を右手に握りしめ、そのまま外へと駆けだした。



それでも海の怒号は後ろから追いかけてくる。



一瞬振り向いて確認してみると、真っ赤な顔をした海があたしを追っているのが見えた。



しかし、その靴は完全にははかれていなくて、脱げかけていた。



それが幸いし、海はあたしを追い掛けている最中に転倒してしまったのだ。



あたしは一気に加速し、そのまま裏路地へと身を隠した。



素足のまま走っているので足裏がしびれるように痛むが、気にしている暇はない。



少しでも海から距離を離すことを一番に考えて懸命に走った。



「あれ、星羅?」



その声にハッと息を飲んで急ブレーキをかけて立ち止まった。



「コトハ!」



そこにいたのはクラスメートの小柳コトハだったのだ。



コトハは素足で走るあたしを見て何事かと目を丸くしている。



あたしは来た道を振り返り海が追いかけてきていないとわかると、コトハの腕を掴んでひと気のない空地へと移動した。



「ちょっと、なにがあったの? 顔真っ青だよ?」



「もう……大丈夫」



あたしは深呼吸をしてそう答えた。



いまだに心臓はバクバクと早鐘を打ち続けているけれど、とにかく海を巻く事に成功したようだ。



「もしかして海?」



コトハにそう聞かれて、あたしは俯いた。



汗のせいか涙のせいか、視界がボンヤリと滲んでいて自分が立っている場所に危うさを感じた。



「頬、腫れてるね」



コトハが気がつき、あたしの右頬に触れて来た。



それはさっきまでよりよほどひどく腫れてきているようで、コトハの冷たい指先が触れるだけで鋭い痛みが走った。



「殴られたの?」



その質問には答えられなかった。



肯定したら、コトハは海と別れるように説得しはじめるだろう。



それは……嫌だった。



初めて人を好きになって、その人と付き合う事ができたんだ。



それに、海はいつでもあたしのことを殴るわけじゃない。



ほんの少し、気分を害した時に殴るだけ。



海が気分を悪くする原因は、今日みたいにあたしにあるわけだし。



「何度も言ってるけど、海はちょっとおかしいよ?」



その言葉にあたしは顔を上げた。



コトハは真剣な表情であたしを見つめていて、その目に見つめられるとすべてを見透かされているような気分になった。



「いくら喧嘩をしたって、彼女を殴るなんておかしい!」



「そんなことないよ。あたしが悪いんだし」



本当は喧嘩なんかじゃないけれど、あたしはそう言った。



一方的に殴られただなんて言うと、コトハは海の家に押しかけて行ってしまうかもしれない。



「星羅、本当にそう思ってるの?」



コトハに聞かれてあたしは大きく頷いた。



そしてようやく靴を履いた。



沢山小石を踏んだようで、足の裏には血が滲んできている。



「驚かせてごめんね。あたしは本当に大丈夫だから」



そう言って笑顔を見せるとコトハは半分呆れたような表情になり、それから左右に首を振った。



「ううん。星羅がいいならいいけど……でも、相談はしてよ?」



「わかってる。コトハになら、なんでも相談できるもん」



「それ、本当に本当の言葉?」



コトハは今度は疑いの表情をあたしへ向ける。



「もちろんだよ」



あたしはそう言ってぎこちなく頷いたことも、コトハはきっと全部見抜いているのだろう。

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