第165話:幻の綺堂コレクション

「……ん?」


 新幹線のグリーン車の座席を転用したソファーに腰かけ、隣にいる彩華さんと一緒に貴重な鉄道の本や雑誌を読み続けるという贅沢ぜいたくでロマンスな時間。それをたっぷり堪能し続けていた僕たちの耳に、誰かがこの彩華さんの部屋の扉を優しく叩く音が聞こえてきた。

 その丁寧そうな音色から、扉の向こうにいるのが綺堂家に仕える執事長である卯月さんだと気づいた彩華さんは、入っても良い、と大声で呼んだ。その直後、豪華そうな扉はゆっくりと開かれ、黒を基調としたスーツ姿が似合う卯月さんがゆっくりと部屋に入ってきた。そして、一礼をした後、僕たちにこのような忠告をしてきたのである。


「お嬢様、和達さん。お楽しみのところ大変申し訳ありませんが、そろそろ和達さんの帰宅の準備を始めた方が良い時間かと思われます」

「……えっ……!?」

「……あ……い、彩華さん、外……!」


 その言葉で、僕と彩華さんはようやく気付いた。いつの間にやら、窓の外に広がる森や線路網を覆う空が、赤く染まり始めていた事に。

 つい先程彩華さんの部屋の中に入ったばかりだと思っていた僕たちは、顔を見合わせた。彩華さんとの会話や貴重な本の熟読などに夢中になり過ぎた結果、完全に時間の経過を忘れていたのである。まさにそれは、『楽しい時間ほど早く過ぎてしまう』という例え通りだった。

 そして、残念そうな感情を顔に出した僕は、それ以上に愕然とした表情を見せた彩華さんに驚いた。何やら非常に深刻そうな雰囲気を醸し出していたのだから、当然だろう。


「あああ……やってしまった……。完全に予定を乱してしまうなんて……。私は立派な鉄道オタクなのに……綺堂家の令嬢なのに……」

「だ、大丈夫だよ、僕が戻ってくるのが遅すぎたのも原因だから……」

「ううん、譲司君は悪くないわ……。そもそも、今日のスケジュールに無理があったのかもしれない……!」


 頭を抑えてあまりにも悔しそうな様子に、一体どういう事なのか、と尋ねた僕に、彩華さんが返したのは、『鉄道オタク』である僕にとって、あまりにも驚くべき内容だった。


「譲司君に……『綺堂コレクション』を見てもらう予定だったのよ……!」

「……き……綺堂コレクション!?!?」


 綺堂コレクション――それは、巷の鉄道オタクの間で長い間噂になっている、不思議な鉄道コレクション。日本中の鉄道車両は勿論、老舗のメーカーが製造した線路、希少な信号機、レトロな踏切、更には列車のヘッドマークやモーター、行先表示用の装置など、実に多種多様な要素を収集し、どこかに集めているという話が、あちこちで囁かれているのである。しかも、その中には書類上『解体』され、存在しないはずの車両も現物が保管されている、なんていう眉唾のような話も含まれていた。

 でも、彩華さんが『梅鉢彩華』ではなく『綺堂彩華』である事、そして綺堂家の人々と本格的に交流する機会を得た事で、僕の心の中でこれらの噂が信憑性を帯び始めていた。経済を片手で動かすという噂の綺堂グループを率いる綺堂家が、産業遺産を後世に残すという実益と自分たちが大の鉄道オタクだから、という理由の趣味を兼ねたコレクションを集めても、何らおかしくなかったからである。そして、こうやって綺堂家の屋敷にお邪魔して以降、僕は屋敷の外に築かれた線路網、保存されている蒸気機関車、芸術品のように展示されている鉄道関連の部品など、様々な収集品をこの目でしっかりと確認する事が出来た。

 あの時、綺堂コレクションと関係しているのか、という問いに、卯月さんは『ご想像にお任せします』と返した。でも、これではっきりとわかった。綺堂コレクションは想像でも噂でもなく――。


「本当に……本当にあるんだね、綺堂コレクション……!」

「ええ、そうよ……そうなのよ……!」


 ――実際に存在する。それなのに見せられそうにない事を、彩華さんは相当悔しがり、そして落ち込んでいるようだった。

 どうしてそこまでこだわるのか、その理由を聞いて僕は彩華さんが自分の行いを猛省している理由が分かった。実は今回、僕による説得が例え失敗したとしても、僕を慰めるために『綺堂コレクション』の全容を見せたい、と彩華さんは父親である玲緒奈さんに相談していたのである。勿論、成功した場合でも、喜びの感情と共にコレクションの全容をたっぷり味わう予定であった。その後は色々と紆余曲折あったようだけれど、最終的に玲緒奈さんが折れる形で僕に『綺堂コレクション』を公開する事を承諾してくれたのである。

 そして、彩華さんはまず自分の部屋に招待し、しばらくの間・・・・・・僕と一緒に鉄道の本を読み終わった後、多数の収蔵品が待つ場所へ僕を案内する、という予定を立てていた。ところが、彩華さんは僕と本を読んだり会話したりする事にあまりに夢中になり過ぎてしまい、『綺堂コレクション』の事をすっかり忘れてしまっていた。気付いた時には、すっかり外は夕焼け空になりかけてしまった、という訳である。


「情けないわ……鉄道オタクなのに、私が決めた『ダイヤ』を私自身が滅茶苦茶にしちゃうなんて……」

「彩華さん……だ、大丈夫だよ……。ぼ、僕は一緒に本を見たり、彩華さんから母さんの話を聞けたりしただけでも、とても楽しかったんだから」

「うぅ、譲司君……」


 いつも堂々としている彩華さんが凹んでしまっている様子に慌て過ぎたせいで、僕は少々挙動不審になってしまった。そんな僕たちを見兼ねたかのように、卯月さんがこんな進言をしてくれた。

 それならば、今から『綺堂コレクション』を見るのはどうだろうか。ただし、この綺堂家に1日宿泊してもらう形になるが、と。


「え……じょ、譲司君が宿泊……!?」

「当然でしょう。あの規模のコレクション、1日ですべて堪能するのは不可能だと思います」

「そ、そうよね……。やっぱり数時間で巡れると思った私の考えが無茶だったわ……」

「ま、まあまあ……」


「……それで、和達さん。いかがなさいますか?」


 じっと僕の顔を見つめながら尋ねた卯月さんの言葉に、僕は大いに悩んだ。確かに、このまま綺堂家に泊まるという提案を受け入れれば、彩華さんと楽しい時間がより長く過ごせるかもしれないし、何よりあの幻の『綺堂コレクション』をこの目でじっくり確かめる事が出来る。既にスクラップになり消滅したと思っていたあの電車、この気動車、その機関車にも出会えるかもしれない。鉄道オタクとして、『特別な友達』として、非常に幸せな時間を過ごせるのは間違いないだろう。

 でも、本当にそれで良いのだろうか。今の僕にとって、それは必要な選択なのだろうか――。


「……」

「譲司君、どうする……?」


 ――そして、熟慮を重ねた僕は、結論を出した。


「……彩華さん、卯月さん……ごめんなさい。『綺堂コレクション』は、また次の機会にじっくり拝見させてください」

「……なるほど……了解しました」

「えっ、譲司君、それでいいの!?あの幻のコレクションを、思う存分心に焼き付ける事が出来る絶好の機会なのよ?」


 しかも、『特別な友達』と豪華な鉄道屋敷に泊まる事が出来る。そんな素晴らしいチャンスを逃して大丈夫なのか、と僕の判断に驚きを隠せない様子の彩華さんに、僕はその理由を語った。

 そもそも、今日この屋敷を訪れた目的は、彩華さんと一緒の学校へ転入するチャンスを玲緒奈さんから勝ち取る、というもの。まだ連絡が届いていない母さんや父さんは、きっと僕たちの事をとても心配しているはず。だから、今日は一旦家に帰ってその旨を伝えたい、と。


「そ、そうよね……。確かにそれは大事……あ、でも、電話で連絡をすれば……」

「うーん……確かにそうだけれど、やっぱりこういう重要な事は直接話した方が良いと思って……。それに、母さんはきっと今頃、みんなの夕食を作ってくれているだろうから……」

「あ、そうね……。ごめんなさい、大切な事を忘れていたわ……」

「ううん、気にしないで。それに、僕の中で、『綺堂コレクション』をもう少しだけ『幻』の存在にしたい、って思ったのも理由なんだ」

「幻……?」


 綺堂コレクションが実在する事は分かったけれど、その全容は未だに謎のまま。どのような車両や施設、部品が展示されているのか、どんな配置でずらりと並べられているのか、それを妄想しながらワクワクする時間も案外楽しいものだ。それに、何より今日は色々な事が立て続けに起きてしまった。今後、様々な出来事を経て落ち着いた頃に改めて屋敷を拝見し、じっくりとコレクションを見物した方がより楽しめるかもしれない――彩華さんや卯月さんに、僕は自分自身の思いを伝える事が出来た。


「……なるほど……。私、色々と焦り過ぎたのかもしれないわ。別に今日じゃなくても構わないものね」

「うん……。『綺堂コレクション』が実際に存在するという事を知れただけでも、僕は嬉しいよ」


「それで和達さん、その旨に関してですが……」

「どうしたんですか……?」


 僕たちの会話に割って入るように、卯月さんはこの僕に忠告をした。この『綺堂コレクション』は実在する、という旨は、決して外部に漏らしてはいけない、と。

 その理由は僕の察した通りだった。もし実際にこういった巨大な鉄道コレクションが存在する事がばれてしまっては、鉄道オタク界隈が大騒ぎになり、綺堂家の平和な日常にも影響が及びかねないからである。

 実際に言っても信じてくれる人は少ないと思うけれど、念のためこの機密事項は心の中だけに留めておいて欲しい、と彩華さんも頭を下げながら僕にお願いをした。


「……分かりました。『鉄デポ』の皆にも、内緒にしておきます」

「ありがとう、助かるわ」


 玲緒奈さんが『鉄道おじさん』である事、『鉄デポ』は玲緒奈さんを筆頭とした鉄道オタクのグループによって彩華さんのために設立された事、そして玲緒奈さんが当主である綺堂家が所有する鉄道コレクション『綺堂コレクション』が実在するという事。今日だけでも、僕はたくさんの綺堂家に纏わる秘密を知ってしまった。

 ごく普通の一般庶民、鉄道オタクの端くれだと思っていたはずのなのに、いつの間にかとんでもない立場になってしまったのかもしれない――僕は改めて自分の立ち位置を考えたのだった。


「それでは、和達さんはこれから帰宅する、という事でよろしいですか?」

「はい、お願いします」


 僕の答えに頷いた卯月さんは、送迎用の車を用意するため、一旦部屋を後にした。

 そして、残された僕と彩華さんは、互いの顔をじっと見つめ合った。


「……本当は、私も譲司君と一緒に行きたかったんだけど……」

「……ああ、そうか。玲緒奈さんは用事で出掛けているから、留守番をしないといけないし、転入試験へ向けた勉強の必要もある……」

「ええ、そういう感じね。それに、譲司君も疲れているだろうし、何よりお母様の美味しい料理が待っているものね……」

「彩華さん……」


 少し寂しそうな表情を見せた彩華さんに、僕は思いを伝えた。

 ここで一生の別れになる訳ではないし、むしろこれからたっぷり一緒に同じ時間を過ごせるはず。僕たちの懸命の頑張りが実を結んだお陰で、同じ学校へ行くチャンスを得る事が出来たのだから、と。


「彩華さん……これから頑張って勉強して、筆記も面接も乗り越えて、絶対に転入試験、合格しよう……!」

「……譲司君……」

「それで……もし出来れば……難しいかもしれないけれど、満点を目指そう」


 確証が持てず、少々情けない言葉になってしまった僕の様子を見た彩華さんの表情は、先程の寂しさが薄れ、普段の姿が戻り始めているようだった。


「……譲司君、『できれば』『難しいかも』じゃなくて、私たちなら『出来る』。そう考えてみない?」


 玲緒奈さんたちから掴み取った、夢へ向かう切符を最大限に有効活用して、最高の結果を残したうえで教頭先生の学校へ入学する。自分たちなら、それを実現させる力が十分にあるはずだ――。


「私は信じているわ。譲司君となら、どんな事も可能だって」


 ――きっと、彩華さんの母さん、綺堂一葉さんも、このような凛々しさや頼もしさを持つ人だったのだろう。娘である彩華さんの中にも、きっと『母さん』の思いは伝わっているはずだ。

 そんな事を感じながら、僕は決意の言葉を返した……。


「……そうだね……彩華さん!」

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