第162話:親の心、子の心

「あの……それで、この後の予定は……?」


 綺堂家のシェフの人たちが、僕たち和達家の味に負けじと気合いを入れて作った高級ビーフカレーライスをたっぷり堪能した僕や彩華さん、玲緒奈さんは、執事長の卯月さんに案内されるようにダイニングルームを後にした。これで、予定していた大まかな日程――玲緒奈さんの説得や綺堂家と共に食べる昼食という予定は完遂する事が出来たけれど、その後で何をすればよいか、僕はまだ彩華さんたちから案内されていなかった。

 少々とぼけた声になってしまったけれど、疑問に思ってそう尋ねた僕に、ここから先は彩華お嬢様に案内してもらう、と卯月さんから説明があった。綺堂家当主の玲緒奈さんではなく、彩華さんに案内役が代わった理由は、玲緒奈さん本人が教えてくれた。


「生憎だが、私はこれからこの屋敷を離れなければならない。一時のお別れだ」


 今夜、玲緒奈さんは都会にある巨大なタワービルへ赴き、そこで開催される晩餐会やそこに集まる人たちの対談をこなす予定が入っている。そのため、早めに出掛けて様々な準備を行ったり、事前に参加者と言葉を交わしておきたい、と考えたという。つまり、玲緒奈さんが述べた通り、ここで僕とはお別れ、という事だ。

 そして、玲緒奈さんは改めて僕の方をじっと見つめた後、低音を廊下に響かせながらメッセージを送った。


「……和達譲司君、君がこれから背負う事になる責任は非常に重大かもしれない。だが、それを君に負わせる事にしたのは、私が君を信用したからだ。君には、綺堂家当主であるこの私が認める、勇敢さや芯の強さ、そして誠実さがある。私からの『信頼』を、しっかり心に刻み込んでおくんだな」

「……はい……分かりました……!」


 玲緒奈さんから貰った『信頼』は、彩華さんの将来の事に関するものばかりではない。玲緒奈さんが『鉄道おじさん』であるという事実を始めとする様々な秘密を、彩華さんを始めとする皆に明かす事無く、ずっと胸に秘めてくれるだろう、という、あの部屋で交わした約束も含まれているはずだ。僕はこの屋敷に辿り着いてからというもの、あっという間に様々な重大な出来事、様々な思いを背負う事態になってしまった。

 でも、それは彩華さんが述べた通り、僕が素晴らしい人材である事を認めてくれた証でもある。これからは、1人の人間として、そして1人の『鉄道オタク』として、頑張らないと――改めて、僕は心の中でそう誓った。


「……玲緒奈さん……今日は本当に、ありがとうございました。これからは、彩華さんと互いに支え合いながら頑張っていきます」

「くれぐれも、無茶はするな。彩華共々、な」

「……はい!」


 そんな僕の言葉を聞いてゆっくりと頷いた玲緒奈さんの傍に、護衛役として卯月さんが近づいた。

 ダイニングルームでは執事さんを始めとする使用人の皆さんやシェフの方々が、沢山作ったあのビーフカレーライスを食べ始めている頃なのに、執事長の卯月さんはお腹を減らして大丈夫なのか、とつい心配になって尋ねてしまった僕だけれど、卯月さんは気にする事なく、『旦那様』=玲緒奈さんを見送った後にたっぷりお代わりも含めて食べるので心配はない、と語ってくれた。隣にいる玲緒奈さんも僕の発言に対して嫌な顔を見せる事は無かった。


「彩華、先程も執事長から聞いただろうが、これから『客人』の対応はお前に一任する。くれぐれも、失礼がないようにな」

「お任せください、お父様」


 そして、卯月さんと共に長い廊下を歩き、屋敷の玄関へ向かう玲緒奈さんを、僕は感謝の気持ちを込め、頭を下げて見送った。またいつか訪れた時に、『鉄道おじさん』として思いっきり語り合いたい、という気持ちも込めて。

 そして、玲緒奈さんがこの広い鉄道屋敷を後にし、卯月さんも僕たちとは別の方向へ歩き去ったのを見た僕は、改めて彩華さんに尋ねた。これからどう過ごそうか、と。一応、僕の父さんや母さんにはお昼をご馳走になる事、もしかしたら午後まで綺堂家にお邪魔しているかもしれないという事は事前に連絡したけれど、その詳細な内容までは僕も把握していなかったのだ。

 そんな僕に、ドレス姿の彩華さんはまるで卯月さんのようにかしこまったポーズを見せ、わざと敬語でこう語った。


「それではお客様、わたくし、綺堂彩華のお部屋へご案内いたしましょう」

「う、うん……えっ!?!?」


 そこまでびっくりしなくても大丈夫だ、と彩華さんは宥めたけれど、僕が驚いたのは仕方のない事だった。確かに彩華さんは僕の『特別な友達』だけど、それを抜きにしても彩華さんは『異性』。友達の部屋にお邪魔するのも初めてなら、母さんを除いた異性が過ごす場所に足を踏み入れる事もまた初めての体験になるからである。今になって突然それを意識してしまい、顔の温度が高くなってしまうのを感じてしまった僕に、彩華さんはどこか悪戯げな笑顔を見せながら語った。


「私の部屋だからって気にする必要はないわよ。中身は先日お邪魔した譲司君の部屋と同じような感じだもの」

「僕の部屋……あ、でも彩華さんの部屋に比べれば僕の方が汚いかも……」

「ううん、私の部屋の方がごちゃごちゃしていると思うわ。だから、そんなに意識しなくても平気。そもそも、私たちは同じ『鉄道オタク』じゃない」

「う、うん……」


 それでも色々な要因で緊張してしまう僕に、彩華さんはしばらく思案するような表情を見せた後、こう提案した。たっぷり美味しい昼食を頂いた後の散歩も兼ねて、少しこの屋敷をぐるりと歩く形で遠回りしながら部屋へ向かわないか、と。

 確かにそれなら、気恥ずかしさや緊張が時間と共に心の中から薄れるかもしれない、と考えた僕は、彩華さんの言葉に乗る事にした。


 その後、僕は彩華さんと歩幅を合わせながら、東京駅を思わせる外観を有する、巨大な宮殿のような綺堂家の屋敷の中をゆっくりと巡った。あちこちに飾られた鉄道関係の絵画や彫刻、実物のヘッドマークに『サボ』と呼ばれる行先表示など、あらゆる場所に点在する鉄道関連の要素につい目が行く僕だけれど、やはり一番興味を引いたのは、左右から聞こえる鉄道模型の車両が線路の上を走る音だった。この屋敷全体に敷かれた鉄道模型の路線網は、専用のダイヤに従って自動運転を実施し、各所に様々な物資や軽食などを輸送する役割を担っているのだ。

 ただ、そんな綺堂家の鉄道模型には、1つだけ大きな欠点があった。


「う、うーん……」

「あれ、やっぱり見えづらいわよね……」

「そうだよね……」


 その鉄道模型の線路が通っているのは、各地に設置された部屋に通じる扉の上側。扉を開ける時に邪魔になるから、勾配が多いと列車が途中で止まってしまう可能性があるから、などの理由があったらしく、一応各地に模型車両がよく見えるようにひな壇のようなスポットは用意されているけれど、大半の場所では通過する音しか聞こえない構造になっているのだ。

 折角様々な車両が導入されているのに、その勇姿を見る場所が少ないのは勿体ない、まるで全線地下駅かつ巨大な扉型のフルスクリーン式ホームドアが設置された地下鉄のようだ、と互いに言葉を交わしつつも、何だかんだで通過する音だけ聞くのも悪くはない、という結論に僕と彩華さんは至った。


「まあ、確かにそうかもしれないわ……。ダイヤ通りに模型車両が走っている音を聞くだけでも、どこか満足しちゃうものね」

「凄く分かるよ、その気持ち……」


 僕は鉄道模型を活用した綺堂家の物資輸送システムが、まるで東京駅を思わせるこの屋敷の『血管』のように感じた。


 そんな会話をしつつ、屋敷の長い廊下を右へ左へ、彩華さんの案内に従って『遠回り』しながら進んでいる中、彩華さんは僕にこんな事を語った。お父様=玲緒奈さんと、気付かないうちにすっかり打ち解けているようだ、と。

 当然、それを聞いた僕は驚き、慌てた様子を彩華さんに見せてしまった。もしかして、僕の気付かない間に玲緒奈さんの自室で繰り広げた会話の一部がばれてしまったのではないか、と思ってしまったからである。でも、幸いそのような事はなく、そこまで驚くような言葉じゃないはずだ、と逆に諭されてしまった。ただ、その後彩華さんは、父である玲緒奈さんの内心を、自分は何となく察している、と述べた。


「玲緒奈さんの心……?」

「ええ、私は娘だもの。家族の心は少しでも理解しようと努めているつもりよ。お父様は本当は優しくて頼もしいのに、それをずっと隠して『厳しい存在』『威厳ある立場』であり続けている事も、ね」

「……!」


 それは、まさにあの部屋で玲緒奈さんが述べていた内容――彩華さんの父、綺堂家の当主、そして『鉄道おじさん』と幾つもの顔を使い分けて過ごしている事、そしてそれは全て自分が様々な思いを経て決めたものだと断言した事と同一だった。


「この膨大な鉄道模型の路線網から、様々な会社に勤める人々まで、私のお父様は『綺堂家当主』として様々な要素を司らなければならない。それでいて、私の前では1人の厳格な父親として、常に威厳を見せ続けなければならない……」

「……彩華さん……」

「無茶はするな、なんてさっき言っていたけれど、お父様の方こそ無茶していないかしら、なんて、つい考えちゃうのよね」


 自分の将来を決める議論の中で、つい玲緒奈さんの厳しい言動を前に言葉を荒げてしまった彩華さんだけれど、やはり内面では玲緒奈さん=彩華さんの父さんの事を慕っている。そして、常に彩華さんに厳しい側面しか見せない事を、ずっと心配している。

 そんな彩華さんの思いを知った僕は、その心を少しでも慰め、励ますため、助言を行う事にした。


「……きっと、大丈夫だと思うよ」

「そうかしら……?」

「あくまで僕の考えだけれど、きっと玲緒奈さんは、自分の意志でそのように振る舞うことを決めたんだと思う。綺堂家の当主になる事も、彩華さんの前で威厳ある父親になる事も。そんな心をずっと保ち続けているのは、玲緒奈さんの中でそんな日々に『楽しさ』みたいな何かを見出したからなんじゃないかな……」

「……楽しさ……?」


 良い例えが思い浮かばずに『楽しさ』という言葉を使ったけれど、要はどれほど苦難が遭っても、ネガティブな心ではなくポジティブな心で前向きに考える。僅かでもその生き方に対する面白さを見つけようとする。綺堂玲緒奈さんと言う存在は、そんな生き方上手な人なのかもしれない――僕は、自分の中で思い描いた『綺堂玲緒奈』という人物像を、彩華さんに語った。勿論、あの部屋で話した内容が玲緒奈さんの娘である彩華さんにばれないよう、あくまで『僕の意見』である事を前提に置く、などしっかり注意を払いながら。


「……楽しさ……ね。あんなに厳しいお父様も、そう言う側面があるのかしら……」

「あくまで僕の中の仮説だけれどね……」

「……まあ、お父様が信頼している譲司君の言葉だから、信じるのが一番かもね」

「ありがとう、彩華さん」


 でも、やっぱり一人娘としては、無理し過ぎないで欲しいというのが本音だ、と彩華さんは優しい声で語ってくれた。

 やっぱり、僕も彩華さんも、立場も性別も違うけれど、大切な親を思う気持ちは同じだ、という事を、僕は改めて確かめる事が出来た。


 やがて、そんな話をしていた僕たちは、目的地である彩華さんの自室の前へと到着した。それは、出発地点であるダイニングルームの近くだった。僕たちはここに辿り着くまで、文字通りこの屋敷を一周してきたという訳だ。


「ごめんなさい、譲司君。屋敷の中を思いっきり遠回りしちゃって……」

「ううん、お陰で良い運動になったよ」


 そして、彩華さんは再び執事長である卯月さんの真似をするように丁寧に扉を開き、ぼくを自室へ招き入れてくれた。


「さあ、お客様。わたくしの『鉄道部屋』へ、プリーズカムイン!」


 綺麗で心地良い英語の発音を耳に入れながら足を踏み入れた僕の視界に広がっていたのは、僕のごちゃごちゃした自室とは比べ物にならない程に大きな部屋と――。


「……わぁ……!」


 ――その壁沿いに並ぶ、たくさんの鉄道グッズや書籍がぎっしり詰まっている豪華な棚の数々だった……。

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