第151話:ふたりきりの部屋で

 優しく頼もしく常に凛々しく、例え父であろうとしっかり自分の意見を述べる強い心を持つ彩華さんが、驚愕の感情を露わにする。

 常に冷静沈着、でも僕たちの事を常に考えてくれる、綺堂家に仕える執事長である卯月さんが、部下であろう執事の皆さんと共に驚きの表情を見せる。


 そんな異様な光景を視界に入れつつ、綺堂家の当主たる綺堂玲緒奈さんによって大きな部屋から連れ出された僕は、はっきり言って今までで一番の緊張と不安に包まれていた。

 勿論、文字通りの『鉄道屋敷』と言える綺堂家を案内されている間も、彩華さんと同じ学校に入りたいという一心で様々な思いや理屈を並べながら懸命に説得を続けていた時も、僕の心には間違いなく緊張の思いが宿っていた。ただ、それは不安や心配というよりも、しっかりしないといけない、と僕の姿勢を正し、真剣な心持ちを呼び起こさせる、適度な感情だった。

 だけど、この時ばかりは違っていた。誰も付き人を寄こさず、僕を後ろに引き連れて『鉄道屋敷』の長い廊下を歩き、幾つかの階段を登り続ける玲緒奈さんの姿を見て、僕の心には様々なネガティブな思いが募ってしまっていたのだ。


 玲緒奈さんが自室に僕を誘ったというだけで彩華さんや卯月さんたちがあそこまで驚くというのは、きっと何か大きな理由があるに違いない。それも、途轍もなく嫌な理由で。

 もしかしたら、冷静沈着な仮面を脱ぎ捨て、感情を露わにして僕を厳しく糾弾してしまうのではないだろうか。先程までの『生意気』な説得に内心苛立ち、あの理事長のように僕を断罪してしまうのではないだろうか。

 でも、玲緒奈さんは、父さんと母さんには土手座までして自分たちが関わった『いじめ』という不祥事を謝ったという誠実さを併せ持っている。そこまで恐れる事は無いのかもしれないかも――いや、そのような『安易な期待』に身を任せると、碌でもない事が起きてしまうに決まっている。

 一体、僕は何のために玲緒奈さんの自室に呼ばれ、何をされてしまうのだろうか――。


「……!!」


 ――そんな不安をより刺激するかのように、上の方から短い汽笛が響いた。それは、綺堂家の屋敷を縦横無尽に走る『鉄道模型』が発したであろうものだった。普段なら驚きながらもどこか嬉しい気持ちが湧きそうなものだけれど、今の僕からはそのような余裕すら失われようとしていた。

 そんな僕の怯える様子に気づいたのか、玲緒奈さんは後ろを振り向き、低い声を響かせた。


「何かあったか?」

「い、いえ……大丈夫です……はい……!」


 何とか慌てて何も気にしていない風貌を見繕った僕だけれど、鼓動は明らかに玲緒奈さんを説得する時よりも高まり続けていた。

 左右の壁沿いを大型の鉄道模型が指定されたダイヤ通りに走るという、まさに鉄道オタクの夢が現実になったような光景に熱中する余裕は残されていなかった。

 やがて、それらの緊張が非常に高まった辺りで、玲緒奈さんは立ち止まった。目的地である、綺堂家当主の自室へ辿り着いたようだ。


「和達譲司君、先に入りなさい」

「……は、はい……分かりました……」


 本当に良いのか、と尋ねる事すら許さないような低音に促され、僕は玲緒奈さんが開いた扉の中へ足を踏み入れた。

 そして、そこに広がっている光景を見て、僕の心からずっと抱え込んできた緊張や不安以上の『興奮』が戻ってきたような気がした。


 向かって右側に広がるのは、蒸気機関車から新幹線、在来線の通勤列車、更には外国の列車まで、古今東西様々な鉄道模型の車両がずらりと並び、それらを囲むように設置されている大規模かつ精密なレイアウト。 

 向かって左側にそびえ立つのは、まるでレトロな図書館のように、鉄道に関する書籍やパンフレット、資料などが大量に並べられている本棚。

 窓の近くには、赤いクッションや布で覆われた、いかにも『大富豪』が座るような感じの豪華な椅子やアンティーク調の机、そしてその上には少々不似合いなデスクトップタイプの大画面のパソコン。

 そして、部屋の中央には、どこか鉄道車両のクロスシートに似た2人掛けの椅子が2つ並べられ、その中央には机がある。


 まさに『鉄道』を堪能するのにふさわしい場所のように感じ、一瞬目を輝かせかけた僕だけど、すぐその興奮は薄れてしまった。


「そこの椅子に座りなさい」

「は、はい……失礼します……」


 何をするか全く予想もつかない玲緒奈さんの声を聞いて、僕は再び湧いてしまった緊張や不安を心に抱えながら、ゆっくりと部屋に入り、命じられたように中央のクロスシートを思わせる椅子へと座った。座り心地は、正直言って先程まで玲緒奈さんを説得し続けたあの部屋の豪華な椅子よりも良い気がした。

 そして、続けて座ろうとした玲緒奈さんは、何かを手に取り、僕の机の上に置いた。疲れただろう、これでも飲みなさい、と語ってくれた事で、僕はそれが烏龍茶が注がれたガラスのコップである事に気が付いた。でも、僕に喉の渇きを感じる余裕はなかった。

 先程までは隣に彩華さんもおり、後ろには卯月さんがついていた。皆が一緒に居てくれたお陰で、僕は綺堂玲緒奈さんと言う存在に面と向かって立ち向かうことが出来た。でも、そんな面々ですら驚愕する状況に、僕は巻き込まれている。これからどうなってしまうのだろうか――そう考えてしまうと、目の前に座った玲緒奈さんに対して、何を言えばよいのか、どう対応すれば良いのか、さっぱり分からなかった。その結果、折角自室に招いてくれたのに、僕は何も言葉を発する事が出来ないまま、沈黙の時間を提供してしまう羽目になったのである。


 目の前にいる玲緒奈さんは、じっと僕を見つめている。まるで、何か言いたい事でもあるのだろう、何か言葉を発したまえ、とでも伝えるかのように。でも、僕が伝えたい事はほぼ全て口に発してしまった。これ以上、何を語ればよいのだろうか――。


「あ、あの……」


 ――そんな必死の感情に揺れ動かされ、何とか発した言葉は、先程までの僕を否定しかねない、情けない内容だった。


「ぼ、僕を……怒ったり……しないんですか……?」

 

 ところが、返ってきたのは、僕の言葉そのものが予想外だったという感情を見せる、玲緒奈さんの言葉だった。


「何故だ?私が君にそのような事をする必要はあるのか?」

「え、そ、その……先程までずっと玲緒奈さんに生意気な事ばっかり言って……せ、折角彩華さんの事を考えているのに噛みつきまくって……」

「……噛みつく?私はそんな事は全く考えていなかった。むしろ君は、堂々と誇りをもって、意見を言ってくれたのではないか?」

「そ、それは、その……僕は……」


 僕はずっと、玲緒奈さんが僕の言動に対して苛立ちを持っているのではないか、というネガティブな気持ちに包まれ続けていた。でも、実際の玲緒奈さんは予想と反し、そのような感情など一切持ち合わせていない旨を、僕に語ってくれたのである。

 それが僕にとって良い事だったのは間違いなかった。それなのに、僕の心に広がったのは困惑と更なる不安だった。折角こうやって励ましてくれているのに、何故ますますネガティブになってしまうのか、自分自身の心すら理解できない状態に陥った僕は、再び黙り込んでしまった。自分で何が言いたいのか、何がしたいのか、僕は分からなくなってしまったのだ。

 

 彩華さんも卯月さんもいない場所で、すっかり情けない雰囲気を見せてしまった僕の様子をしばらく眺めていた玲緒奈さんは、何かを感じたように静かに頷き、こう述べた。君が言いたい事、君が感じている事は、おおむね理解できた、と。

 それはもしや、あの理事長のように自分をこれからたっぷり糾弾する合図なのではないか、と言う考えがよぎり、一瞬震えまで起きてしまった僕だけれど、そこから続いたのは、まるでそんな怯えきった心を落ち着かせるかのような言葉だった。


「……和達譲司君。私の大切な娘である彩華と君は、随分長く濃い付き合いだったと以前から聞いている」

「は、はい……」

「あの学校の図書室で出会ってから、一緒に街の図書館へ赴いたり、あの『鉄デポ』で様々な人々と語り合ったり、そこで知り合った仲間たちとオフ会に出掛けたり。それに、先日は彩華が君の家にお邪魔したそうだな」

「そ、そうです……」

「確かに、君と彩華は強固に連結された『特別な友達』という間柄のようだ。現に、彩華と切り離されたこの場所で、君は今までにない程の『恐怖』に襲われているのではないか?」

「そ、そ、それは……その……ごめんなさい!」


 廊下からずっと抱き続けてしまった思い――玲緒奈さんに対する『不安』や『恐怖』が本人によって言葉という形であっさりと具現化されてしまった事に、僕は慌てて謝罪した。よりによって大富豪たる綺堂家の当主に向かって『怖い』という感情を抱いてしまうという、あまりにも無礼喝失礼な事をやってしまったからだ。

 でも、全身が真っ赤になるのを感じながら必死に頭を下げる僕の耳に飛び込んだのは、先程まで同じ低音だけれど、明らかに優しげな響きだった。


「……謝る必要はない。『特別』な存在が傍にいない状況は、誰だって不安や恐怖、悲しみを感じるものだからな」

「……あ、は、はい……」


「和達譲司君、こちらこそすまなかった。私はただ単に、君とふたりっきりで話がしたかっただけだが、まさかここまで怖がらせてしまうとは……」


 折角『リアル』の世界で、こうやって再会できたというのに。


「……はい……えっ……?」


 僕は、その言葉に妙な感触を覚えた。

 確かに、僕は玲緒奈さんと出会うのはこれで2度目――あの時の理事長親子への糾弾の時以来だ。それは間違いない。

 でも、その時一緒に発せられた『リアル』という言葉が、僕の心に不思議と引っかかったのである。

 一体、どういう意図でそのような言葉を発したのか、その時の僕は知る由もなかった……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る