第141話:しばしの別れ

 綺堂彩華さんによる初めての和達家の来訪。色々あって同行してきた教頭先生こと相田哲道さんからの新たな転入先への誘い。

 彩華さんとのレアな気動車専門書籍の読み合い。何とか勇気を奮い立たせた僕の決意。

 美味しい和達家特製カレーライス、そして――この1日の間、本当に様々なイベントが僕の周りで起き続けた。でも、それもあと少しで終わってしまう。

 楽しい事が続くほど、時間が経つのを早く感じてしまう、なんていう言葉が、これほど真実であると認めたくない時はなかった。もっとゆっくり流れて欲しい、もっと楽しい時間を味わっていたい、そう強く思ってしまう僕がいた。特に今は――。


「よし!まだチャンスがあるぞ!」

「そうよ、頑張りなさい!」

「いいえ、私たちの応援するチームも負けてないですよ!そうよね、譲司君!」

「う、うん……!」


 ――彩華さんも交えた野球応援への熱が最高潮に達していたからである。


 ホームランの後、一度は勝っていた僕と彩華さんが応援する鉄道会社のチームだったけれど、その後父さんや母さんがずっと応援していたチームに再度得点を入れられ、逆転を許してしまった。

 でも、父さんや母さん曰く鉄道会社が運営する野球チームはかなり頑張っているようで、試合はどちらが勝つか負けるか読めない状態になっていたらしい。

 その結果、和達家の中は僕と彩華さん、父さんと母さんで二分される格好になっていた。でも、それは喧嘩でも決裂でもなく、1つの『好き』なものに熱中しているからこそ生まれるものだという事を僕は大いに納得していた。

 今まではルールがさっぱり分からないなどの理由で関わるのを避け続けていた野球応援の面白さを、僕は少しづつ認識し始めていた。


 ところが、そんな状況に割り込むかのように、再度彩華さんのスマートフォンが鳴った。今度は先程のようなメールではなく、直接的な電話だった。

 少し不満そうな表情を見せた彩華さんだけど、いざ通話ボタンを押すと、そのような感情などまるでなかったかのように、真剣さを感じられるような応対を始めた。


「ええ……そうよ……え、もう玄関前に?ええ……」


 断片的に伝わる情報を纏めると、どうやら綺堂家に仕える女性執事長である卯月さんが既に車を近くに停め、和達家の玄関前に到着していつでも家の中に入る準備をしていたらしい。

 そんな卯月さんに、彩華さんがもう少し待って欲しい、と言った時だった。


「よっしゃ、これで3アウトだ!」

「ああ、残念……!」


 応援チームがピンチを凌いだ事を喜ぶ父さんと同時に、相手チームが得点のチャンスを逃した事を知った彩華さんは、悔しい気分をそのままスマートフォンを通して卯月さんに伝えてしまっていた。そのため、直後に慌てて和達家で野球の試合を見せてもらっている旨を説明する羽目になっていた。

 すると、そんな彩華さんに父さんがこんな事を提案してきた。折角わざわざ家の前に来てくれたのだから、卯月さんも一緒に野球応援を楽しめば良いのではないか、と。

 自分たちのチームが勝っているから機嫌が良いわね、と母さんは突っ込んだけれど、確かにそれは名案かもしれない、と僕も彩華さんも同時に感じていた。そして、彩華さんはその旨を執事長たる彩華さんに指示した。その結果――。


「よし、これで2点得点を入れれば私たちのチームの勝利は確定ね、譲司君!」

「う、うん……そうだね……」

「いーや、さっきのホームラン以上の得点はもう入れさせないぞ!」

「これは白熱した試合ね……!」


「なるほど、こういう事でしたか」


 ――野球応援で盛り上がる僕や彩華さん、父さんや母さんを、スーツ姿の卯月さんが後ろから見守る、という構図が出来上がった。

 幸い、卯月さんは父さんや彩華さんの提案を快く受け入れてくれたようで、鉄道会社が運営するチームだからという理由で盛り上がる彩華さんを待ってくれる事になった。そして、執事長というだけあって父さんや母さんと同じくらいに野球にも詳しいという卯月さんは、ルールが分からず混乱する僕や彩華さんの初歩的な質問にも丁寧に答えてくれた。どちらかと言うと自分はプレイするよりも観戦する方が大好きだ、という野球に対する嗜好を述べながら。

 そして、いよいよ試合の結果が決まるかもしれない瞬間が訪れた。卯月さん曰く、もしここで僕たちが応援しているチームの打つ人が失敗すると負けが確定してしまうという。そんな事になったら大変だ、と思いながらも、僕は彩華さんや父さん、母さんと共に固唾を飲んでテレビ画面に集中した。絶対に打って欲しい、できれば先程のようなホームランをお願いしたい。そう懸命に願った僕や彩華さんの思いは――。


「よっしゃー!勝ったー!」

「あぁ……負けちゃったわ……」


 ――残念ながら、届く事は無かった。勝ち誇る父さんの一方、彩華さんは頭を抱えて落ち込んでしまったのである。

 母さんと頑張って応援した甲斐があった、と喜ぶ父さんの傍らで、彩華さんは少し不貞腐れたような顔を見せながら僕の方へ身体を摺り寄せてきた。突然の事に驚き緊張する僕に、彩華さんはこの悔しさを慰めて欲しい、と頼み込んできた。確かに悔しそうな彩華さんを見ていると励ましたくなったり慰めたくなったりする気持ちは湧き上がるけれど、具体的にどうすれば良いのか悩む僕に、彩華さんはそっと頭を向けてきた。やがて、僕の手は自然に彩華さんの頭を優しく撫で始めていた。


「い、彩華さん……こういう事もあるよ、試合だからね……」

「……そうね、やっぱり悔しい気分はあるけれど、譲司君にそう言ってもらえて、少し気分が落ち着いた気がするわ」

「良かった……安心したよ」


 そう言いつつ、互いに笑顔を向け合う僕と彩華さんの一方、今度は父さんの方が複雑な感情を見せた。折角応援しているチームが勝ったのに、なんだかこちらの方が悔しい気がする、と本音を語りながら。


「年甲斐もなく張り合わないの。試合に勝っても勝負に負けたっていう現実、素直に認めなさい」

「うぅ、母さん……」


 そう言ってどさくさ紛れに頭を撫でてもらおうとしていた父さんだけど、母さんには呆気なく断られてしまい、落ち込んでしまっていた。

 大人になる事の世知辛さを改めて感じた一瞬だった。


「……さて、一件落着のようですね」


 そんな僕たちの様子を見ていた卯月さんが、いよいよこの楽しい時間に終止符を打つような言葉を述べた。ゆっくりと立ち上がった彩華さんは、どこか名残惜しそうな表情を一瞬見せながらも、すぐに気持ちを切り替えるように首を大きく横に振り、笑顔を見せた。

 たくさんの資料を持ち込んだ教頭先生とは対照的に彩華さんが持ち込んだ荷物は少なく、あっという間に和達家を発つ準備が整ってしまった。卯月さんや彩華さんの手際の良さが、この時ばかりは少しだけ嫌に思えてしまった。勿論、そんなネガティブな気持ちを表に出す事は無かったけれど。

 やがて、玄関で靴を履き終えた彩華さんは卯月さんと並び、見送る僕たち和達家の面々に一礼をした。


「今日1日、色々な事がありましたが本当に楽しかったです。和達家がとても幸せに満ちた場所だという事がよく分かりました。僅かな時間でしたが、その一員に加えて頂き、本当にありがとうございました」

「こちらこそ楽しかったわ。彩華ちゃん、本当にありがとう」

「彩華ちゃん、俺たちの譲司をこれからも頼んだぜ」


 母さんや父さんが様々な形であいさつを交わした後、僕も改めて彩華さんに礼を返した。


「彩華さん……僕の家に来てくれて本当にありがとう。それに、僕たちの手料理も食べてくれて本当に嬉しいよ。あと、鉄道の本も……」

「ふふ……またこの家にお邪魔する時に続きを読ませてもらうわ。まだ戦前の気動車メーカーについて把握しきれていないもの」

「それもそうだね……」


 そして、卯月さんがゆっくり玄関の扉を開け、彩華さんを外へ送り出そうとした時、僕は無性にあの事――教頭先生や彩華さん、そして父さんや母さんの前で述べた決意を、より強固なものにしたいという感情が湧き上がってきた。どうしても口に出したい、という思いが溢れかえってきたのだ。


「……彩華さん、今度は、僕が彩華さんの家へ行って……彩華さんの父さんを説得してみせるよ。彩華さんと同じ学校の制服を着たいから……」

「ほう……?」


 興味深そうに反応した卯月さんに、慌てて別に深い意味はない、ただ同じ制服を着て同じ学校へ行きたいという比喩だ、と慌てて釈明する僕を制して、彩華さんは頼もしそうな表情を見せた。


「卯月さん、詳細は車の中で教えるわ」

「了解しました、お嬢様」

「譲司君、その時が来たら、私もまた連絡をするわ」

「彩華さん……」

「大丈夫よ、私はいつだって和達譲司という人物を信じているわ。だって、『特別な友達』なんでしょう?」


「……うん、頑張る……僕、頑張ってみる……!」

「……ええ……!」


 そして、彩華さんはもう一度僕たち和達家に頭を下げ、卯月さんと共にこの家を後にしていった。

 残されたのは、どこか寂しげな余韻と――。


「……譲司……」

「父さん、母さん……」


 ――父さんや母さんから向けられた、暖かな視線だった。


「譲司を応援しているのは彩華ちゃんだけじゃないっていう事、忘れないで欲しいわ。私たちも応援しているから」

「そうだぞ、譲司。彩華ちゃんと出会ってからすっかり頼もしくなって、父さんは嬉しいよ」


「……ありがとう……!」


 少し頬が熱くなるのを感じつつ、頼もしい『応援者』に笑顔を向けながら、僕は改めて決意を新たにした。


 どの学校へ行くか、まだはっきりした事は定まっていない。教頭先生の学校に惹かれる思いは強いけれど、それを確固なものにするにはもっと話し合いや調査を重ねないといけないだろう。

 でも、どんな選択肢を取ったとしても、僕は絶対に、綺堂彩華さんと同じ場所へ、同じ学校へ通ってみせる。

 そして、彩華さんの将来を憂いて悩み続けているであろう、綺堂家当主・綺堂玲緒奈さんのため、少しでも力になってみせる、と……。

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