第140話:鉄オタ・ミーツ・ベースボール

「あ、父さんお疲れ様」

「ご苦労様、お父さん」

「お父様、お疲れ様です」

 

 たっぷり食べたカレーライスやサラダ、コーンスープの皿や器をしっかりと綺麗に洗った父さんを労ういつもの声。でも、今日は僕と母さんだけではなく、彩華さんも加わっていた。

 それを聞いた父さんはどこか照れくさそうな笑みを見せながら応対していたけれど、ふとある事に気が付いたような素振りを見せ、少し離れた場所に置いてあった新聞を渡してくれるよう母さんに頼んだ。

 どうしたのか、と尋ねようとした途端、新聞を見た父さんは愕然とした声を上げ、僕たちにテレビのチャンネルを変えてよいか早口で尋ねた。


「何があったのですか……?」

「いや、その、野球だよ!野球のナイトゲームがあるのを忘れてたんだよ!」

「あぁ、そういえばそうだったわね……!」


 彩華さんの来訪、教頭先生からの学校紹介など様々なイベントが立て続けに起きていたせいで、父さんや母さんは日課であるテレビを使った野球観戦をすっかり忘れていたのである。

 そして、慌ててチャンネルを切り替えた画面には、盛り上がっているプロ野球の試合の模様がばっちり映し出されていた。それを見た父さんや母さんは、嬉しそうな声をあげていた。どうやらいつも応援しているチームが、僕たちがチャンネルを変える前に得点を入れていたらしい。


「おふたりとも、野球が好きなのですか?」

「そこまでルールは詳しくないけれど、昔から好きだったチームだから応援しているのよ」

「そうそう、母さんと気が合ったのは好きな野球チームが同じだったから、っていうのもあるんだぞ、譲司」

「そ、そうだったんだ……」


 父さんや母さんは昔から様々なスポーツが大好きで運動神経もあり、自分で行うのも見るのも好きなアクティブな性格。でも、それとは対照的に僕は運動神経もイマイチでスポーツのルールもほとんど分からないインドア派。当然ながら野球も詳しくなく、父さんや母さんが盛り上がるのを尻目に、スマートフォンを操作したり鉄道の本を読んだり、時には自分の部屋へ行って『鉄デポ』にアクセスしたりして時間を潰すのが日課になっていた。勿論、宿題や勉強も忘れずにやっているけれど。

 そして、彩華さんもまた、野球にはあまり詳しくなく、ルールも全然理解してない事を明かした。中央の人が投げたボールを打てば良い、というのは知っていたけれど、何がセーフで何がアウトなのかややこしくて覚えきれない、という彩華さんの状況は、僕とほとんど同じだった。


「申し訳ありません、野球は興味の対象外だったもので……」

「まあ仕方ないわ、誰だって分からない分野はあるものね」

「しかし、分からないものをそのまま見てもつまらないだろうし、チャンネルを変えるか?」


 そう進言してきた父さんだったけれど、それに関しては彩華さんに加えて僕も反対意見だった。野球を楽しんでいる父さんや母さんの邪魔はしたくないし、それに今、父さんや母さんが応援しているチームが勝っている状況。ここで別のチャンネルに切り替えてしまうのは勿体ないのではないか、という彩華さんの言葉を受け、父さんや母さんは了解した、という言葉と共に、じっくりテレビに集中する事にした。

 それからしばらくの間、リビングの中は野球応援に熱中する父さんと母さん、例の気動車の本に夢中になる僕と彩華さんという2つの勢力に分断されていた。とはいえ、選手の挙動に一喜一憂している父さんや母さんの様子を横目で眺めるのも、悪いものではなかった。ルールは全然分からないけれど、父さんや母さんが何かに打ち込んでいるのを見ると、息子である僕はどこか嬉しい気分になるからだ。


 そんな中、ふと気動車の本から盛り上がる試合の方に目を映した彩華さんが、ある事に気が付いて僕の父さんに何かを尋ねようとした。


「あの、対戦チームなのですが……」

「……あちゃー、やっぱり気づかれちまったかー」


 父さんが苦笑いした理由を、僕は画面を見て把握する事が出来た。父さんや母さんが応援するチームと戦っている相手側は、僕たち鉄道オタクにとって非常に見慣れた名前――『鉄道会社』を中核とした企業グループがスポンサーとなっている、有名な野球チームだったからである。


「そういえばここの鉄道、あの野球チームのコラボレーションカラーの列車も走らせていたわね」

「言われてみれば確かに……他にも色々あったよね」


 野球チームを基にした塗装だけではなく、様々な記念行事を祝する臨時列車、試合における盛大なコラボレーション、更には選手による車内案内など、鉄道サイトや雑誌で取り上げられただけでも、野球チームと鉄道会社のコラボレーションは結構多い――次第に僕や彩華さんが交わす話題は、気動車の本から『野球』へと移っていった。

 そして、それを察したのか、父さんや母さんも僕たちに様々な形で野球に関わる鉄道の話題を語り始めたのである。


「今はだいぶ減ったけけど、昔は鉄道会社が経営に関わる野球チームは結構多かったのよね。関西の私鉄が多かったと聞くわ」

「そういえば聞いた事ある……今は経営する会社が変わったけれど、当時の野球チームは今も多くが残っているんだっけ」

「そうよ。あの国鉄だって、昔は野球チームを持っていたのよね」

「私もそれは聞いた事があります。特急列車の名前がチーム名になって、今もそれが大事に受け継がれているんですよね」


 流石、鉄道が関わるとよく知っているわね、と言う母さんの言葉に、少しだけ自慢げな笑みを見せた彩華さんと同じ表情を、きっと僕も見せていたかもしれない。

 ところが、その次に父さんが語った知識に関しては、僕も彩華さんは全く知らなかった。鉄道と野球のつながりは深い、というのは様々な文献や媒体で言われているとはいえ――。


「知ってるか?日本で初めての野球チームは、アメリカから帰ってきた鉄道関連の技術者が立ち上げたものなんだぜ?」

「え、そうなんですか!?」

「し、知らなかった……!!」


 ――日本の野球創成期に、『鉄道』という職業が大きく関わっているなんて。

 へぇ、と素直に驚く僕たちを見て、今度は父さんの方が嬉しそうな、そして自慢げな表情を見せていた。鉄道オタクでも知らない事はまだまだ多いんだな、と語った父さんは、変な所でライバル心を燃やさないように、と母さんからすぐ釘を刺されてしまったけれど、その言葉は僕たちの心にある程度深く刻まれた。


「最初期から繋がりがあるなんて……まだまだ私たち、精進しないとね」

「そうだね……鉄道趣味って本当に幅広い……」


 そして、そんな僕たちに、父さんはこんな事を勧めてきた。折角繋がりを見つけたのだから、この機会に『野球』というジャンルに触れてみるのも面白いのではないか、と。


「……うん、彩華さん、見てみようよ」

「そうね、譲司君と一緒なら、楽しめるかも……!」


 こうして、僕と彩華さんは、一旦気動車の本を閉じ、野球応援に意識を向ける事にした。ただし、ド素人である僕たちが応援するのは、父さんや母さんが応援するチームと対決する相手側チームであった。当然だろう、相手は僕たちが好きな『鉄道会社』が運営しているのだから。

 とはいえ、野球のルールなんて全然分からない僕たちは、画面からセーフやアウト、ヒットやエラーなどの様々な言葉が飛び交う度に、父さんや母さんに詳細を尋ねる羽目になってしまった。


「え、えーと今のは……どうなっているんだろう……」

「今のは3回空振りしたから、打つ人の負け、つまりアウトね」

「要は俺たちのチームの方が有利って事だな!譲司に彩華ちゃんには残念だけど!」

「む、何だか悔しいです……譲司君、私たちのチームを応援するわよ!」

「う、うん……えーと、う、打てー……でいいんだっけ……?」


 慣れない僕たちの応援を見ている母さんが、こういう野球応援も新鮮で楽しい、と述べた瞬間だった。僕たちが応援している野球チームの打つ人がバットで打ったボールが、大きな弧を描いて遠く離れた客席へと入ったのだ。その直後、テレビからは実況の人の『ホームラン』を示す大声が響き、同時に父さんは感情を露わにしていた。


「あーーー打たれたーー!悔しいーー!」


 それを見た僕や彩華さんは、応援しているチームがホームランという素晴らしい形で得点を稼いだ事を素直に喜んでよいのかどうか、複雑な心境に包まれた。でも、それを見た母さんは優しい声で、素直に喜んでも大丈夫だ、と背中を押してくれた。


「私も正直凄い悔しいわ。折角今まで頑張っていたのに、ホームラン打たれちゃったんだもの。でも、これもまた野球なのよね。やられれば悔しいけれど、逆にこっちが頑張ると凄い楽しめる……」

「なるほど……野球は心が揺れ動かされるスポーツなんですね……」

「そういう事だぜ、譲司に彩華ちゃん!でも今のは悔しいなー!」

「父さん落ち着きなさい。ほら、ピッチャーはすぐ立て直して次の打者をアウトにしているじゃない」


 それを聞いて、父さんは自分の頬を叩き、気合を入れ直していた。

 今のホームランで僕たちの応援する鉄道会社側のチームの得点が上回ったけれど、それはまだ1点だけ。ここから先どうなるかは誰にも分からない。これは見逃せない試合かもしれない――そう考えた時、僕は今まで全く興味が沸かなかった『野球』というジャンルに、楽しさを覚え始めている事に気が付いた。勿論ルールは全然分からないままだけれど、応援しているチームが活躍するととても嬉しい。きっと父さんや母さんは、この『好き』になる要素を楽しみにしているからこそ、野球が大好きなのかもしれない、と僕は心の中で感じ、同時に彩華さんに感謝した。彩華さんと一緒でなければ、『鉄道』という入り口から『野球』に触れる事なんてできなかったからだ。


 そして、試合がさらに盛り上がろうとしてきた時だった。彩華さんのスマートフォンから振動音とメロディが響いたのは。

 その内容を確認した彩華さんは、見るからに残念そうな顔をしていた。


「……そうか、彩華さん、今のは……」

「ええ、察しの通りよ。執事長の卯月さんから、迎えの用意が出来たから出発する、っていうメールが届いたの」


「おぉ……そうか……もうすぐ帰っちまうんだな……」


 少し寂しそうな顔の父さんや母さんを見ていた僕も、きっと同じ表情を見せていたに違いない。

 まだ卯月さんは綺堂家を出発する準備が出来たばかりだし、家に辿り着くまでには時間があるだろう。でも、これで和達家で彩華さんが過ごす初めての楽しい時間、『一世一代の大舞台』が終わる事が、確定してしまったのだから……。

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