第96話:勇気ある者の帰還

 ずっとお世話になった図書室、そしてその場所以外は二度と訪れる事が無いと決めた『学校』を後に、僕と彩華さんはスーツ姿の女性執事長の卯月さんが運転する車の中で、外の景色を眺めていた。次第にあちこちの家やビルの窓に、明かりがともり始めていた。

 車の中で、僕も彩華さんも口数少なく、静かな時間を過ごしていた。伝えたかった事は全て図書室の中で互いに思いっきり語り尽くしていたというのもあったけれど、やはり一番の理由は、卯月さんが運転する車の乗り心地の良さを堪能した結果、本に熱中しまくった午後の分も含めた『体』の疲れがどっと押し寄せてきた事だった。流れゆく光景を見ているうち、僕たちは何度も睡魔に襲われ、その度にはっと目覚める、という行為を繰り返していた。


「お二人とも、眠っていても大丈夫ですよ」


 そう優しく声をかけてくれた卯月さんだったけれど、僕はその厚意に感謝しつつも、何とか我慢する事にした。当然だろう、一番疲れているはずの卯月さんが安全・丁寧に僕たちを家へ送り届けているのに、僕たちがぐうたらと寝てしまっては申し訳ないからだ。そして、僕と同様しっかりシートベルトを締めていた彩華さんもまた、同じように眠気に耐える意志を示した。


「それに、私はちょっとワクワクしているのよね」

「え、ワクワク……?」

「ふふ、だって譲司君の家を初めてこの目で事が出来るんだもの!」

「あ、そうか……」


 これまで何度か送迎してもらった時は、近くの公園で車を停めてもらっていたけれど、今回は卯月さん自身の意見もあり、そのまま駅の近くの住宅街にある一戸建ての自宅の前まで送ってもらう事になった。彩華さんは、それを楽しみにしてくれたのだ。


 そして、家の近くの公園に辿り着いた後、場所の指示をお願いされた僕は、卯月さんに家へ向かうルートを案内した。交差点が多い経路だったけれど、卯月さんは慣れたハンドル捌きで僕をしっかりと目的地まで送り届けてくれた。やがて、外がすっかり薄暗くなった時、僕の視界に非常に見慣れた家の形が入ってきた。


「あ、ここです……この家です」

「本当ね、ちゃんと『和達』って書いてあるわ。ふふ、なかなか綺麗で素敵な家ね」


 彩華さんに褒めてもらった僕は、嬉しさと共に照れのような感情を抱いた。間違いなく僕よりも遥かに巨大な家に住んでいるであろう大富豪の綺堂彩華さんに、建ててから随分の月日が経ったという僕たち和達家の一戸建てが高い評価を貰ったのだ。

 そんな彩華さんと、本当はもう少し車の中で隣り合う時間を過ごしたかったけれど、家に無事戻ってきた以上、僕がやるべきことは、きっと心配し続けているであろう父さんや母さんに無事を報告する事だ。そう考えて車を降りようとした時、卯月さんが突然とんでもない事を言い出した。


「お嬢様、良い機会ですし、このまま和達さんの家にお邪魔するというのは……」

「……え、ええええ、そ、それは……!?」

「ちょ、ちょっと、何言ってるのよ卯月さん!」


 まだ予定も心の準備も決めていないのに、『特別な友達』のくつろぎの場へ唐突に来訪するのは幾ら何でも失礼過ぎる。そもそも、今日はこのまま家へ帰ってヘトヘトに疲れた体を癒したいのに、夜まで緊張すると明日起きれなくなるかもしれない――慌ててその提案を否定した僕や彩華さんの様子を見て、卯月さんは失礼しました、と少し申し訳なさそうな、そしてちょっぴり残念そうな声色で謝罪をした。


「もう、卯月さんったら……でも、いつか絶対に譲司君の家にお邪魔したいわ」

「う、うん……ぼ、僕も心の準備が出来たら……彩華さんを招待したいな……」

「そうね……分かったわ。また、その時になったら連絡をし合いましょう。逆に私の家にも、譲司君を招待したいからね」

「ぼ、僕も彩華さんの家へ行くのが楽しみだよ……」


 その時はまた送迎をお願いするわね、という彩華さんの『命令』に、卯月さんはクールそうな雰囲気を残しつつ、どこか嬉しそうに頷いた。

 

 そして、今度こそゆっくりと車を降りた僕は、彩華さんを乗せて綺堂家の『家』へ向かう卯月さんの車を、手を振って見送った。


「……よし……!」


 暗くなった夜空を見上げながら心の準備を整えた僕は、ゆっくりと鍵を差し込み、玄関の扉を開いた。

 そして、そっとリビングに足を踏み入れた僕は――。


「……おお、譲司!!よく帰ってきたな!!」

「おかえりなさい、譲司!良かった、本当に良かった……!」


「た、た、ただいま……!」


 ――満面の笑みで僕を迎え入れる父さんと母さんに、あっという間にもみくちゃにされてしまった。


 温かい体で抱き着き、頭を思いっきり撫でまくる父さんや母さんの様子に、僕はどれほど不安だったか、そしてどれほど無事の帰還が嬉しかったか、たっぷりと感じる事が出来た。そして、そんな両親に、心配をかけてごめんなさい、と僕はしっかりと謝った。

 でも、父さんや母さんは決して小言を口にすることなく、逆に僕の事を思いっきり褒めてくれた。


「聞いたぞ譲司!とんでもなく偉い大富豪相手に一歩も引かずに頑張ったんだってな!」

「え、え、え……そ、そこまでは……」

「大富豪の執事長さんが図書室の先生と一緒に褒めてたのよ。とっても度胸ある素晴らしい姿だってね」

「そ、そうなんだ……」


 執事長の卯月さんや図書室のおばちゃんの連絡が無事父さんや母さんに届いていた事を聞いた僕は安心しつつ、なんだか僕の伝え方が少々大袈裟な状態になっている事にちょっぴり戸惑った。確かに僕は『富豪』である理事長夫妻やその息子、その面々を凌ぐ『大富豪』である綺堂玲緒奈さんたちを前に自分の意見をしっかりと伝える事は出来た。でも、『堂々と』伝えられたか、と言われると、正直不安な所があったからだ。

 とはいえ、豪快で勇ましい父さんの声と、優しくて凛々しい母さんの声に祝福されると、そんな些細な戸惑いもすぐに心から消えてしまった。いつも僕の事を応援してくれている人たちに評価されるのは、やっぱりとても嬉しい事だ、と僕は心の中で改めて思った。


「……あ、ありがとう、父さんに母さん……」


「ふふ……さ、譲司。色々話したいだろうけど、まずは着替えてきなさい」

「そうだぞ、今日は父さんと母さんで協力して美味しい『料理』を作ったんだからな」

「そ、そうなんだ……」


 その『料理』が何なのか、リビングを包む美味しそうな香りやちらりと見えた光景で答えは何となく察したけれど、敢えてこの時僕はそれを口に発しなかった。具体的な中身は、父さんや母さんの口から是非聞きたかったからだ。

 そして、僕は自室に無造作に置かれていたパジャマを兼ねたジャージを手に取った後、風呂場と直結した洗面台付きの更衣室へ向かい、ずっとお世話になった制服を脱いだ。制服自体には一切罪はなかったけれど、良くも悪くも、いやどちらかと言えば悪い方が圧倒的に多くなってしまった『学校の思い出』が詰まった服が体から取り除かれていくのは、どこか複雑な気分だった。これで正真正銘、僕はあの『学校』から去る事になる――そう考えると、ただの着替えも特別なように感じた。

 

(……これで、終わったんだな……あの『学校』での日々が……)


 そんな事を考えつつ、家の中で過ごしている時によく着用しているジャージを身につけた僕は、気分を改めてリビング、そして食卓へと向かった。

 そこで待っていたのは、自慢げに笑う父さんと、にこやかに僕を迎えてくれた母さん、そして――。


「さあ譲司思いっきり食え!」

「今日の夕食は、譲司の頑張ったご褒美の、具沢山カレーライスよ!」


 ――お昼に食べた卯月さんたち綺堂家特製の弁当にも負けない味わいが保証されている、父さんや母さんが腕を振るって作ってくれた、僕の大好物であるカレーライスだった……!

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