第90話:図書室の一問一答
理事長室を後にした僕と梅鉢――いや、『彩華さん』は、互いに無言のまま、目的地である図書室へ向けて歩き続けた。
本当は尋ねたい事が山ほどあった。苗字、経歴、そして『綺堂家』の事など、思いつけば幾らでも質問は浮かんできた。
でも、それよりもまず僕たちはあの部屋で嫌と言うほど味わった緊張感を解きほぐし、のんびりした空気に包まれたかった。その一心で、短いようで長い廊下を進んだのだ。
やがて、何とかたどり着いた図書室の扉を開いた僕たちの目に、安心したように一息をつく図書室のおばちゃんの姿が映った。
そして、無事に終了した事を示す一礼をした後、僕たちは荷物を置いていた図書室の奥の方の席に座り――。
「「疲れたぁぁぁ……!!」」
――声を合わせながら、だらしなく椅子に座る姿を披露しあった。
「本当にお疲れ様、譲司君……!」
「そっちこそ、お疲れ様です……」
何故か敬語になってしまった僕の言葉に対して互いに微笑み合っていると、机の上にペットボトル入りのお茶が届けられた。
それを見て僕たちは驚いた。当然だろう、図書室は飲食禁止だと常日頃注意しているはずのおばちゃんが、僕たちのためにそのルールを破り、『飲み物』を用意してくれたのだから。
「い、いいんですか……?」
「いいんだよ。揃って頑張ったんだから、そのご褒美。今日は特別に、本を汚さない限り、食べても飲んでも自由だからね」
「あ、ありがとうございます……!」
その言葉に甘え、僕たちはお茶を一気飲みして、緊張と不安でカラカラになった喉を潤した。
そして、僕の目の前で威勢よくペットボトルの中身を消費していく彩華さんの様子を見ていると、あまり『令嬢』とは思えないように思った。勿論失礼な意味ではなく、『金持ちの娘』だからといって威張り散らしたり気取ったりせず、僕たち一般人と同じ立場で学校生活を過ごしていた事を実感したからである。
やがて、たっぷりお茶を飲んだ僕に、同じくペットボトルの中身を半分以上豪快に飲み干した彩華さんは、笑顔で健闘を称えてくれた。
「本当によく頑張ったわね、譲司君。今までもずっと素敵だって思っていたけど、堂々と自分の意見を語ったのは本当に勇気ある行動だったわ。今の譲司君は、日本の500系新幹線やドイツのICE3よりもずっとずっと格好良いわよ!」
「あ、ありがとう……ど、どちらも同じデザイナーの人が手掛けた鉄道車両だね……」
「ふふ、流石よく気付いたわね」
「えへへ……どちらも素敵なデザインだよね」
久しぶりかもしれない、互いに共通する趣味である『鉄道』に関する会話で盛り上がろうとしていた時、それらと関係ない内容を述べる事を謝罪しつつ、図書室のおばちゃんが話に加わってきた。その理由は、ずばり彩華さんの『正体』に関する事だった。図書室を出て理事長室へ向かう前、おばちゃんは彩華さんとの間に、自身が経験した様々な不可解な出来事に関する説明をしてもらうよう頼んでいたのである。
「色々聞きたい事はあるんだけどさ、どうして『スポンサー』の偉い人と、あんなに気軽に喋っていたんだい?初対面じゃなかったって事かい?というか、そもそもどうしてその『スポンサー』から、『彩華』って下の名前で呼ばれてたのかな?」
「そ、それは……あ、だったら僕も色々と気になる事が……というか、もっと詳しく説明して欲しいなって……」
「そうね……おばちゃんにも譲司君にも、ちゃんと説明しておかないと……」
ちゃんと約束していたという事もある、と述べながら、彩華さんは一旦図書室の椅子から立ち上がり、僕やおばちゃんをじっと眺めた後、ゆっくりと一礼した。その動きは非常に滑らかかつ繊細で、僕たちとは比べ物にならない程綺麗なものだった。
そして、彩華さんは改めて、僕やおばちゃんに向けて自己紹介を行った。
「長い間、真実を隠し続けていて申し訳ありませんでした。私の本当の名前は『
「……え……えっ……ええええええ!?!?!?ほ、本当かい!?!?!?」
その言葉を聞いた瞬間、おばちゃんは腰が抜けそうになるほど後ろのめりになりながら、大声で驚きの感情を露わにした。危うく倒れそうになったおばちゃんを何とか支えた僕が、あの理事長室で感じた事と全く同じ心境を、おばちゃんも抱いてしまったようだった。
当然だろう、『綺堂家』といえば、幾多もの大企業を束ねる『綺堂グループ』を率いる大富豪。目に見える建設業から目に見えないソフトウェア開発、更には身近なサービス業まで、実に多種多様な分野に参入し、多大な成果を上げている、凄い企業グループのトップに君臨しているのだ。
しかも、『鉄道』にしか興味が無かった僕にとっても、『綺堂グループ』は耳馴染みのある存在だった。鉄道の運営や車両本体の製造には直接携わっていないけれど、モーター用の歯車やクーラー、窓ガラス、座席のクッション、更には自動改札機の部品と言った、安全で便利な鉄道を維持するための様々な要素に、この企業グループが関与しているのだ。
「と、と言う事は……この学校のスポンサーって……綺堂家って事になるよね……!?!?」
「ええ、その通りです。こちらの意向で、綺堂家が携わり続けていたという事実は理事長など学校幹部以外には明かしていませんでしたが……」
確か、彩華さんの隣に座っていた『スポンサーの人』も、不祥事が起こる度に様々な形でそれらを二度と起きないよう尽力し、監査に協力したり再発防止策を講じたり、色々と学校に対して苦労させられた旨を語っていた。長い間、僕たちの知らないところで、綺堂家の人々もこの学校を守るため奮戦していたのかもしれない、と改めて僕は感じた。残念ながらそれらの努力は、全て水の泡になってしまったけれど。
「なるほど……と言う事は、学校へ訪れたあの『スポンサー』の人は……」
「私の父、現在の綺堂家の『当主』である、
そして彩華さんは、あの威厳ある風貌をした少し怖そうなスポンサーの人が、自身の父である事をはっきりと僕たちに伝えてくれた。それを聞いたおばちゃんは、ようやく納得したような表情を見せた。
あの時――僕が事実上の『餌』や『囮』となって、僕をいじめ続けていた生徒たちを呼び寄せて誹謗中傷を録音している間、おばちゃんは彩華さんと共にスポンサーの人=彩華さんの父さんのもとを訪れた。その際、おばちゃんは覚悟を決めて堂々と、自分たちの生徒がいじめを受けている旨を報告しようとしたけれど、それよりも先にスポンサーの人が彩華さんの名を呼びながら、こう伝えたのである。
『彩華、事態はおおむね把握している。少年の勇気も、しかと受け取った。お前が今為すべきことは、あの少年を助ける事だ』
『恐らく少年は今、無謀な賭けに出て危機に陥っている事だろう。こちらからも、数名向かわせる。隣の貴婦人と共に、早く戻るのだ』
そして、全てを知っているような彩華さんの父さんの言葉、それに対して『ありがとう』と敬語を使わず返した彩華さんの行動に唖然としつつ、おばちゃんは彩華さんや黒服の人たちと共に、ガラスを割って図書室へ侵入しようとしていた生徒たちを食い止めるため、急いで図書室へ戻った、という訳である。
「それで、あの黒服の男女は……」
「あの人たちは、私たち綺堂家に仕える使用人たちです。家事や雑務は勿論ですが、武術も得意なんですよ」
「ああ、そういう事……!」
少しだけ自慢げに語る彩華さんの言葉に、おばちゃん共々僕も納得した。彩華さんの実家が、家事から格闘まで何でもこなせる凄い人たちを何人も雇えるという凄い存在である事に。
「なんだかどこかの時代劇みたいだねぇ……ごく普通に接していた綺麗な女子生徒が、実は物凄い偉い大金持ちの令嬢だなんて……あ、もしかして、そんなこと言ったら凄い失礼だったり……?」
「いえ、お気兼ねなく。これからも人生の後輩として、今まで通り自然に接してくれた方が私は嬉しいです。それに、おばちゃんは、私や譲司君を、この『地獄』の中でずっと守ってくれた『恩人』ですから」
そんな事を面と向かって言われると照れてしまうよ、と嬉しさや恥ずかしさを見せるおばちゃんは、どこか可愛らしい雰囲気だった。
一方、僕は改めて彩華さんにお礼を言った。僕の事を、全力で助けてくれて、本当に嬉しい、と。
「……感謝の言葉はいくらあっても足りない。でも、何度でも言いたい。ありがとう、『彩華さん』」
「譲司君……ようやく、『彩華さん』ってリアルの世界で呼んでくれたわね……!」
「遅くなって、本当にごめん……でも、どうして下の名前で呼んで欲しいのか、ようやく理解できたよ……」
本当の苗字ではない『梅鉢』という名で呼ばれるより、肉親から授かった本当の下の名前である『彩華』と呼んでもらった方が、『特別な友達』として嬉しいから。
それが、ずっと彩華さんがずっと『下の名前』にこだわり続けた理由だった。
「こちらこそ、なかなか説明できなくてごめんなさい」
「ううん、大丈夫だよ。『梅鉢』と『綺堂』、どちらの苗字も僕はとても素敵だと思う。どっちも彩華さんが名乗っているからね」
「……ふふ、譲司君は、私の正体が明かされても、ずっといつもの譲司君のままね」
勿論、その彩華さんの言葉が誉め言葉なのはしっかり認識できた。
そんな中、おばちゃんがもう1つ気になる事がある、と尋ねてきた。何故、『綺堂』という本当の苗字ではなく『梅鉢』という別の名義を使って、この学校で過ごしていたのか、と。
それを聞いて、僕と彩華さんは互いにはっとした表情を見せた。僕は彩華さんの父さん=綺堂家の当主である綺堂零さんの口から直接聞いていたけれど、おばちゃんにはまだ誰も説明していなかったのだ。
「あ、あの、ちょっとややこしいですけど……え、えーと……この学校へ彩華さんが入学する時に、『綺堂』の苗字を使ってはいけない、と厳命があったようなんです……」
「そうだったのかい?」
「はい、譲司君の言う通りです。父曰く、『綺堂』と言う名前を利用される事や、その名前の大きさに私が振り回される事を嫌ったのが理由でした。肩書きから解放された私が、この学校で気兼ねなく学園生活を過ごすために……」
僕と彩華さんの説明を聞いて一度は納得してくれたおばちゃんだけれど、更に別の疑問が浮かんだような仕草を見せた。
そして、失礼は承知の上で敢えて聞きたい、と前置きを入れながら、彩華さんにこう尋ねたのである。
そもそも、どうして掌の上で経済を操ることが出来るような大富豪の令嬢が、このような『地獄』のような酷すぎる状況の学校に通う羽目になったのか、と。
この言葉を聞いて、僕も思い出した。
確か彩華さんと出会って間もない、まだ僕が『和達君』と苗字で呼ばれていた頃、どうして『絶対零度の美少女』――誰も寄せ付けず、誰とも話さない、氷のように冷たい存在で居続けたのか、気になって尋ねた事があった。
その際、この学校に蔓延る、『鉄道が好き』という心を踏みにじるような雰囲気に抗うためだ、という理由と共に、彩華さんはこのように告げたのだ。
どれだけ学校に失望しようが、自分はこの『地獄』へ行かなければならない。父の反対を押し切り、ここへ入学する事を決めてしまったのは、自分自身の意志だったのだから、という、諦め混じりの内容を。
「……もし彩華さんが気にしているのなら言わなくても大丈夫だけど……僕もその理由、聞いてもいいかな……?」
僕とおばちゃん、2人の言葉を聞いた彩華さんは、真剣な表情で頷いた。
「……確かに、これもちゃんと教えなければいけないわね……」
そして、彩華さんは語り始めた。
『綺堂彩華』という鉄道が大好きな令嬢が、『梅鉢彩華』という絶対零度の美少女になり果てるまでの経緯を……。
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