第88話:さらば学校
「ちょ、ちょっと待てよ……マジかよ……!?」
理事長の口から飛び出した発言によって、理事長室の中は騒然とした雰囲気に包まれていた。揃って声を抑えていたので驚きの叫びこそ聞こえなかったけれど、取り巻きたちも元・担任も、あまりの状況に驚くほかない様子だった。
そして、先程まで余裕を崩さず、『鉄道オタク』と言う理由で僕たちを責め続けていた稲川君までもが、事態を吞み込む事に若干の時間を費やしているようだった。
当然だろう、この学校で『絶対零度の美少女』――何者も寄せ付けない暗く冷たい雰囲気を醸し出し、皆から畏怖と妬みの対象とされてきた存在が、よりによって僕でも知っている大企業グループ『
一方、その本人は唖然とする稲川君を静かに眺めつつ、どこか肩の荷が降りたような雰囲気を見せていた。
「……このような形で露呈するとはな、
そして、どこか呆れたような口調で述べる、威厳溢れる外見のスポンサーの男の人に向けてこう言った。
「……そうね、
(……お、お、お父様……!?!?)
その言葉が示す意味を僕はもう一度理解し直した。僕の隣に座っているのは、『
つまり、稲川君たちと同じように、この僕も、梅鉢、綺堂――いや、もう下の名前で呼ぼう。僕は、『彩華さん』の本当の姿を知らないまま、鉄道の話で盛り上がったり図書館へ一緒に出掛けたり、『鉄デポ』の皆と一緒に楽しく語らい続けていたのだ。
「き……聞いてないぞ!!なんでこんな重要な事を俺に言わなかったんだよ!!」
僕が唖然としている合間に、稲川君は必死の形相で父親である理事長を問い詰めようとした。取り巻きたちもまた、同じようにどういう事か説明してくれ、と言わんばかりの困惑の表情を向けていた。
それに対し、理由をはっきりと説明したのは理事長ではなく、その向かいの豪華な椅子に座るスポンサーの人――いや、彩華さんの『父』にあたる人だった。
「この学校に我が娘を入学させる際、我ら綺堂家はある条件を下した。『綺堂』の苗字を使う事を禁じた上で、一部を除きその素性を機密事項とする、とな」
その理由は複数存在する、と述べた上で、スポンサーの人=彩華さんの父さんは、その一部を皆に教えた。
もし『綺堂』という苗字のまま入学をすれば、必ずそれを利用する事を考える者が現れ、学園生活の安泰が乱れてしまう。そうでなくとも、『綺堂』という名前の力の絶大さの前に、満足した学園生活が過ごせなくなる可能性が高い。だからこそ、敢えて地位や名誉などから離れた1人の女子生徒としてこの学校に馴染むため、『梅鉢』という別の苗字を用意した、という訳である。
「『綺堂』と言う肩書きから離れ、『梅鉢』という
スポンサーの人=父さんの言葉に、彩華さんはその通りだ、と言わんばかりに大きく頷いた。
「……そして、確かに娘はこの学校で、様々な人々の心情を理解する事が出来た……」
何かが『好き』という感情を傷つけ、嘲り笑う心。
特定のものを『好き』と訴え続ける者を徹底的に蔑み、陥れる行動。
『好き』な事をはっきりと言えない雰囲気が生み出されている環境。
そして、『好き』という心を無視し、自分の事だけ守れれば良いという――。
「……申し訳ありませんでした!!」
――皮肉めいた口調でこの学校で得た様々な『成果』を紹介していた彩華さんの父さんを遮るかのように、理事長と貴婦人は椅子から慌てて立ち上がり、絨毯の上で深い土手座をした。それは、先程の僕の『いじめ』に対する事実確認では一切見せなかった行動だった。
「ああ、私たちは愚かでした……貴方の娘に対してとんだ無礼を……」
「なんてお詫びをすればよいのか……!」
必死に頭を絨毯に当てながら謝り続ける理事長や貴婦人を見て、その息子である稲川君も流石に表情に焦りが見え始めているように感じた。周りの取り巻きたちも、すっかり愕然とした、そしてどこか絶望した雰囲気を醸し出していた。
そんな彼らに対して、彩華さんの父さんは、はっきりと述べた。何故そのような行動を、自身の娘の隣にいる『少年』の前ですぐに見せなかったのか、どうして誠意をもって謝らなかったのか、と。
「……もし我が娘が真に『梅鉢』という苗字だった場合、今のように謝る事が出来たか?」
「と、当然です……!う、『梅鉢』と言う名前もまた……!」
「そうざます……!とても大切な苗字だと……!」
「だが、私ははっきりと覚えている。『梅鉢』という苗字を名乗る事を決めた旨を報告した時、心底がっかりした表情を一瞬見せていた事をな」
「そ……それ……はっ……!!」
言い逃れは出来ないし、そのような行為は絶対に許さない、と言わんばかりの雰囲気の前に、理事長も貴婦人も圧倒され、何も言えない状況に陥っていた。
それを見つめる僕も、口出しなど一切できない状況に、ほんの僅かだけ恐怖を感じていた。
やがて、全ての悪あがきの手段を失ったかのような面々を見つめ続けていたスポンサーの人=彩華さんの父さんは、今回の一件に関して、『スポンサー』として伝えたい事がある、と述べた。
「『好き』を育み、学ぶはずのこの学校が、それらの根底を覆すような空間になり果てていた事は、あまりにも許しがたい行為だ。我が娘やその友が巻き込まれたからではない。大切な生徒の心を蔑み、弄び、嘲る行為が行われ続けていた事への憤りだ」
「は、はい……!」
「それに加え、学校全体でその事態を
「そ、そ……その通り……ざます……」
理事長や貴婦人の言葉を聞き、大きくため息をついた彩華さんの父さんは語った。
自分の目の届かぬ場所で、このような痛ましい事態が起きていた事は本当に残念でならない、と。
そして、じっと理事長たちを見て、こう告げた。
「……最早、この学校が『好き』を育む場所であり続ける事は、
「……へ……?」
正直言って、僕は彩華さんの父さんが言っている意味がよく分からなかった。それは、はっきりと言葉をぶつけられた理事長や貴婦人も、周りにいる他の面々も、揃って同じような様子だった。
それを見て、様々な感情が籠っているであろうため息をついた後、彩華さんの父さんは分かりやすく丁寧に、『スポンサー』としての意志を伝えた。
今後、この学校に対する寄付や支援を、今後一切『打ち切る』、と。
「な、なんですって!?!?」
それを聞いた途端、絨毯の上で縮こまっていた理事長や貴婦人が慌てたように立ち上がった。長年この学校を様々な形で支援してきたというスポンサー=『綺堂家』の人から直々にそれらを一切行わない事を宣言されれば当然かもしれない。
「そ、それはないでしょう!?こ、この学校が成り立っているのは『綺堂グループ』あってこそなんですよ!?貴方がたの支援が無ければ、この学校は……!」
「そ、そうざます!!この学校は、何もかも行き届かなくなってしまって……!!」
懸命に先程の発言を取り消すように訴え続ける理事長や貴婦人だったけれど、彩華さんの父さんは威厳ある、そして背筋が震えるほどの冷たい声でそれらの喚き声を黙らせた。
これまでこの学校は幾度となく不祥事を働き、その度に綺堂グループを除いたスポンサーは次々と離れていった。だが、どれだけ助言をされても、学校側はこの学校を支えてくれる新たなスポンサーを探す事を怠り続け、気付けば支援のほとんどを占めるのは『綺堂グループ』という状況に陥ってしまった――彩華さんの父さんは、今に至るまでの経緯を語った。
多額の資金や『綺堂グループ』という強烈なブランドの魅力に目が眩んだ結果だろう、という推測は見事に当たっていたらしく、理事長や貴婦人は顔を真っ赤にしながら支援を打ち切る判断を批判し続けた。
まだこの学校には沢山の生徒たちがいる。彼らは毎日懸命に勉学や部活に励んでるはず。それらの生徒の『好き』を全てごっそり奪う気なのか。そう訴えた2人だったけれど、この学校の最大手スポンサーである綺堂家の一員、彩華さんの父さんの意志は一切揺らがなかった。
「その『好き』を奪う行為を、この学校そのものが起こした。その事実を、忘れてはいまいか?」
救いの手も差し伸べずに静観し、それどころか『いじめ』を正当化する空気を学校全体で作り出した。それがどのような結果を招く事になるか、学校全体でその
続いて、彩華さんの父さんは取り巻きや元・担任の方を向き、言葉を続けた。この学校から逃げる、逃げないは君たちの自由、君たちの勝手だ。ただし、世界中に顔が暴かれてしまった以上、今後もまだ色々と苦労が絶えない事になるだろう、と。
「何か困った事があったら、『理事長』たちに相談するのが良いだろう。この学校の事なら、酸いも甘いも把握しているはずだからな」
自分たち綺堂家はお前たちの協力を今後一切拒む。この学校と言う名の腐ったレールを走り続ける事を命じられた『理事長』にでも頼ればよい――そのような意味を込めた厳しい言葉を述べた後、この学校の『未来』に対しての恐れや困惑の顔を浮かべ続ける取り巻きたちに囲まれ、悔しそうな顔で睨み続ける稲川君に対し、彩華さんの父さんはこう述べた。
「……ただし、君は
「……!!」
その言葉を聞いた理事長や貴婦人――稲川君の両親の目には、涙が浮かんでいた。それはまるで、未来への恐怖や不安、絶望が露わになっているようだった。
そして、僕もまた、この言葉が遠回しに何を意味しているのか、何となく理解する事ができた。
スポンサーが去り、この学校の経営が危機に陥り、あらゆる場面で問題が生じたとしても、いじめの『首謀格』、スポンサーまで動き出す事態を招いた張本人である稲川君だけはこの学校を辞める事が許されない。この事実が学校中に広まり、あらゆる存在が敵に回ったとしても、僕や梅鉢、ではなく綺堂彩華さんのように学校を『捨てる』という行為が封じられているため、逃げ道は皆無に等しい。
そして何より、稲川君は『綺堂グループ』の信頼を損ない、敵に回してしまった。生徒のためを思って支援し続けてきた学校がいじめの温床になり果てていた事を示す代表にして看板である、とはっきり告げられた事でも、それは明らかだった。
つまり、これから稲川君が辿るのは、誰にも頼れず、どこにも逃げられず、学校の皆からの批判を浴びながら暮らす道しかない、という事だ。
どこか優し気な言葉に含まれた辛辣な皮肉の数々を感じた僕は、怖さすら覚えた。
そして同時に、稲川君や取り巻きたちに対して抱いた、その境遇、その未来に同情しながらも『助けたい』『救いたい』という感情は全く起きないという、諦め混じりの『憐れみ』に近い思いがより強くなった。
あれだけ苛烈ないじめを受け続けたのに、最終的に辿り着こうとしている感情は怒りでも憎しみでも『ざまあみろ』という嘲りでもなかった、と言うのは僕自身も少し意外だった。
(……)
でも、結局これが、『いじめ』という行為を正当化し続けた存在が迎えた因果応報に対する率直な思いなのかもしれない。
目の前で大泣きする理事長や貴婦人、それにつられて絶望の涙を流す取り巻きや元・教師、そして唖然とした表情のままの稲川君を見て、僕は漠然とそのような感想を思い浮かべた……。
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